『死處』

死處 山本周五郎

あらすじ

山本周五郎の『死處』は、戦国時代の遠江国浜松城を舞台に、徳川家康の存亡をかけた戦いと、一人の武士の名誉と忠義を描いた物語です。主人公は夏目吉信、通称次郎左衛門。彼はかつての反乱者でありながら、徳川家康に仕えることとなった複雑な過去を持つ人物です。

物語は、武田信玄が率いる甲州勢が浜松城に迫る緊迫した状況から始まります。城内では戦の評定が行われ、老臣たちは城に籠もる守りの戦を主張する一方で、若い武士たちは出陣して決戦を挑むべきだと訴えます。家康自身は沈黙を守りつつ、最終的には出陣を決断します。しかし、誰が城の留守を守るかという問題が浮上し、一同は困惑します。

この重大な局面で、吉信は自ら進んで城の留守を守ることを申し出ます。彼の決断は、周囲からは軽蔑の目で見られるものでした。なぜなら、彼はかつての降参者であり、名誉を重んじる武士社会において、その過去は汚点とされていたからです。しかし、吉信には自らの名誉よりも、徳川家の存続を守ることが何よりも重要だったのです。

吉信の息子、信次は父の決断に激しく反発します。彼は名誉を重んじ、先陣を切って戦いたいと願っていました。しかし、吉信は信次に対し、名誉には虚名と実名があり、真の武士は虚名を追わず、主君のために生きるべきだと説きます。信次はやがて父の真意を理解し、留守を守る決意を固めます。

戦は激化し、家康は武田勢に追い詰められます。その危機的瞬間に、吉信は城を出て家康の救援に向かいます。彼は家康に成り代わり、敵の注意を引きつけながら奮戦します。その結果、家康は無事に退却することができましたが、吉信は敵に囲まれ、最後の戦いを挑みます。彼は家康の名を冒して戦い、討ち死にします。

家康が浜松城に戻ると、信次に父の死を伝えます。家康は吉信の勇敢な行動を称え、彼が命の恩人であると語ります。信次は父の死を悼みながらも、彼が選んだ「死處」に誇りを感じます。父の死は、彼にとって最も名誉あるものであり、彼の忠義は徳川家にとって計り知れない価値があったのです。

『死處』は、名誉と忠義、そして武士としての生き様を描いた作品です。山本周五郎は、吉信の姿を通じて、武士の理想と現実の狭間で葛藤する人間の姿を鮮やかに描き出しています。読者は、戦国の世の中で生きる武士たちの生きざまと、彼らが直面する選択の重さを感じ取ることができるでしょう。

書籍

朗読


山本周五郎YouTube朗読チャンネル

作品を紐解く

三方原の戦いという歴史的敗北の裏側で、己の名を捨て、主君の命を救うために散った一人の男の凄烈な生き様、皆さんの心にはどう響きましたでしょうか。

この物語は、かつての敵対者という不遇な立場にあった夏目吉信(なつめ よしのぶ)が、武士としての虚栄心を捨て、主君・徳川家康の礎(いしずえ)となるために自らの「死に場所」を見出した至高の忠義を描いています。

作中で重要な役割を果たす「しんがり」について解説しましょう。「しんがり」とは、退却する軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ役割のことです。全滅の危険が最も高く、武士にとって最大の功名であると同時に、最も過酷な死の宣告でもありました。吉信は、かつて一向一揆に加担した「降参人(こうさんにん)」として徳川恩顧(おんこ)の家臣たちから冷遇されていました。その彼が、敗走する家康の身代わりとして「家康ここにあり」と偽って敵陣へ突っ込んだのは、周囲の軽侮を跳ね除け、己の名を捨てて「実」を取る究極の奉公だったのです。

この作品で最も胸を打つのは、吉信が息子・信次(のぶつぐ)に語った「虚名(きょめい)」と「実」の違いです。自分の名前を惜しみ、人から良く見られたいと願うのは、誰しもが持つ「虚名」への執着かもしれません。しかし、吉信は「瓦礫(がれき)の中に無名のしかばねを曝(さら)す覚悟」こそが真の武士の道であると説きました。家康が彼の死を知り、「吉信こそ家康の命の恩人だ」と認めるラストシーンには、表面的な評価を超えた、人と人との深い絆と救いを感じます。自分を捨てて誰かのために生きることが、結果としてその名を不滅のものにするという逆説的な美しさが、この物語には満ちています。

家康の影武者となり、静かに、しかし誰よりも華々しく散っていった夏目吉信(なつめ よしのぶ)の覚悟はいかがでしたでしょうか。

皆さんは、これまでの人生や仕事の中で、誰かの期待に応えることよりも「自分自身の信念」や「恩義」を優先し、誇りを持って行動できた瞬間はありますか?

もしよろしければ、あなたの「譲れない信念」について上の朗読動画(YouTube)のコメント欄で聞かせていただけると嬉しいです。

この物語が、あなたの心に静かな誇りを灯すひとときとなれば幸いです。

本文

一

夏目吉信(なつめよしのぶ)(次郎左衛門(じろうざえもん))が駈けつけたとき、大ひろ間ではすでにいくさ評定がはじまって、人びとのあいだに意見の応酬がはげしくとり交わされていた。
「父うえ、おそうござります」
末座にいた子の信次(のぶつぐ)が、はいって来た父吉信をみて低いこえで云った。
「今しがた二俣(ふたまた)城へまいった物見(斥候(せっこう))がかえり、二俣もついに落城、甲州(こうしゅう)勢はいっきにこの浜松(はままつ)へおし寄せまいるとのことでござります」
「知っておる」
吉信は子のそばへしずかに坐った。
「それで御評定はきまったか」
「老臣がたは城へたてこもって防ぎ戦うがよろしいという御意見のようでござります。本多(ほんだ)さま酒井(さかい)さまはおし出して決戦すると仰(おお)せです」
「おん大将の御意はどうだ」
「まだなにごとも仰せられません、せんこくからあのとおり黙って評定をお聴きあそばしてござります」
吉信はうなずきながら上座を見あげた。徳川家康(とくがわいえやす)(従五位上侍従このとき三十一歳)は紺いろに葵(あおい)の紋をちらした鎧(よろい)直垂(ひたたれ)に、脛当(すねあて)、蹈込(ふみこみ)たびをつけたまま、じっと目をつむって坐っていた。この日ごろやつれのめだつ面(おもて)に、濃い口髭(くちひげ)と顎(あご)の髯(ひげ)とがその相貌をひときわするどくみせている。
事態は急迫している、存亡のときが眼前にせまっているのだ。
甲、信、駿の全土をその勢力のもとに把(つか)んだ武田(たけだ)氏は、遠江(とおとうみ)、参河(みかわ)の一部を侵して、ずいしょに砦城をふみやぶりながら、三万余の軍勢をもって怒濤(どとう)のごとく浜松城へと取り詰めている。味方は織田信長(おだのぶなが)から送られた援軍を合せてようやく一万余騎、それも連勝の敵軍にたいして、つぶさに敗戦の苦を嘗(な)めてきた劣勢の兵だった。
この一戦こそまさに危急である、この一戦こそまさに徳川氏の存亡を決するものだ。
老臣たちは守って戦うべしと云(い)い。酒井、榊原(さかきばら)、本多、小笠原(おがさわら)の若く気英の人びとは出陣要撃を主張した。家康は黙ってその論諍をきいていたが、やがてつむっていた眼をみひらき、ゆっくりと列座の人びとを見まわしながら口をきった。
「おのおのしずまれ」
囂々(ごうごう)たる応酬(おうしゅう)のこえがぴたりとやみ、一座の眼はいっせいに大将家康を見あげた。
「敵軍三万余騎、みかたは一万にたらず、城をいでて戦うはいかにも無謀血気のようであるが、このたびはただ勝つべきいくさではない。武田氏を攻防いく年(とせ)をかさねて、今日(こんにち)までしだいに諸処の城とりでを失い、いまここに決戦のときを迎えたのだ、まん一にも浜松の城下を甲州勢の蹂躙(じゅうりん)にまかせるとせば、もはや徳川の武名(ぶめい)は地におちるであろう。たたかいは必死の際(きわ)におし詰められている、浜松に敵の一兵もいれてはならぬのだ、評定は出陣ときまった、いずれもすぐその用意につけ」
「はちまん」
本多忠勝(ただかつ)(平八郎(へいはちろう))が膝を叩いて叫んだ、
「それでこそ一期(いちご)のご合戦、われら先陣をつかまつりましょう」
「先陣はこの酒井こそ承わる」
出陣ときまって気英の人びとはたがいに膝(ひざ)をのりだした。守戦をとなえた老臣たちも、事がきまればいささかも逡巡するところはない、すぐ軍(いくさ)くばりにとりかかった。
「総勢出陣ときまれば、この本城のまもりをどうするか」
「まもりは置かなければならぬ」
「誰を留守にのこす」
「この一期のいくさに遺(のこ)るものはあるまい」
「しかし城を空(から)にはできぬ」
斯(こ)ういう場合のいちばん困難な問題がはたと人びとを当惑させた。にわかにみんな口をつぐんだ、主家の運命を賭する一戦、いまこそ武士の死すべきときである、この戦(たたかい)におくれたらもののふの名はすたるのだ。
しわぶきのこえも聞こえなくなった一座のかた隅から、そのときしずかに名乗りでる者があった。
「おそれながら、ご本城のおん留守はわたくしがおあずかり申しましょう」
みんなの眼がそのこえの方へ集った。こえの主(ぬし)はすこし蒼(あお)ざめた顔で家康の方をみあげていた、それは夏目吉信であった。
「ああ夏目か」
「次郎左衛門か」
人びとの面(おもて)にはかすかに軽侮のいろが動いた。そしてたがいに「さもありなん」という眼つきでうなずきあった。次郎左衛門の子信次は全身をふるわせながら、骨も砕けよと双のこぶしを膝につき立てていた。
「よし、城の留守は夏目に申しつける、いずれも出陣の用意をいそげ」
家康のこえが大きくひびきわたると共に、列座の人びとは歓声(かんせい)をあげて立った。ときは元亀(げんき)三年(一五七二)十二月二十一日黄昏(たそがれ)すぎのことであった。

二

「なんたること。父上、これはなんたることでござりますか」
信次は色をうしなった唇(くちびる)をふるわせながら、噛みつかぬばかりにはげしく父を責めた。
「御主君の御運を賭するこのいくさに、もののふとあるものは誰しもご馬前の死をこそねがえ、みずから留守城のまもりを名乗りいで、好んでだいじの合戦におくれるとは、そもいかなるご所存でござります」
吉信は答えなかった。
ここは浜松城玄黙口(げんもくぐち)の矢倉(やぐら)のうえである、必死を期した徳川八千の軍勢は、大将家康の本隊と共に、霜こおる夜をついて、いま粛々とみかたが原めざして出陣して行った。二千に足らぬ兵と留守城のまもりをあずかった夏目吉信は、玄黙口のやぐらの上にのぼって、兵馬の去って征(い)った闇のかなたを、身じろぎもせずに見まもっている。
「なさけのうござります、信次には父上のご所存がなさけのうござります」
信次のこえは喉(のど)につまっていた、
「すぐる永禄(えいろく)九年(一五六六)におみかた申してより、いつの戦(たたかい)にもご馬前のはたらきかなわず、家中の人びとからは絶えずに降参人(こうさんにん)、ごれんみんの者という眼で見られております、このたびこそは先陣にうっていで、めでたき死にざまを見せて夏目の家名をたてるべきときと存じましたのに、これでわれら一族の名も泥上にまみれてしまいました、あまりと申せばなさけなきおふるまい、ざんねんにござります」
信次は面(おもて)をおおい、床板にどっかと崩れて泣きだした。
夏目吉信は徳川恩顧の者ではなかった。彼は参河(みかわ)ノ国(くに)額田郡(ぬかだごおり)の郷士であって、永禄六年九月、一向宗徒が乱をおこしたとき、大津半右衛門尉(おおつはんえもんじょう)、乙部八兵衛尉(おとべはちべえじょう)らと共に一揆の徒にくみし、野羽の古塁(こるい)に拠(よ)って反旗をひるがえした、家康はただちに松平主殿助伊忠(まつだいらとのものすけこれただ)に命じてこれを討たした。伊忠は深溝城をまもっていたが、神速に兵をだして野羽のとりでを囲み、困難なたたかいの後(のち)、乙部八兵衛尉のうらぎりに依(よ)って城を乗取り、ついに夏目吉信をいけどりにして勝った。家康はよろこんで伊吉の[#「伊吉の」はママ]功をたたへ[#「たたへ」はママ]、
――夏目は参河(みかわ)にきこえた豪士である、これを克く攻めて勝ち、城将をいけどりしたることまことに奇特というべし、恩賞はのぞみにまかするゆえ何なりと申してみよ。
そう云って賞讃した。そのとき主殿助(とのものすけ)伊忠はかたちをあらためて、
――仰せにしたがって一つ御恩賞を乞(こ)いたてまつる、夏目吉信は一揆の徒にはくみしましたれども、その智略その勇剛まことに惜しむべき人物にて、ごれんみんをもってかれが命を助け、おん旗本(はたもと)のすえに加えられたまわば、かならずお役に立つべしと存じまする、御恩賞として乞いたてまつるはこの一事のみでござります。
と真実を籠(こ)めて云った。家康はその熱心にうごかされ、伊忠のねがいをゆるして吉信を麾下(きか)に加え、かつ三郎信康に属せしめたのであった。いま信次が、
――ごれんみんの者。
――降参人。
ということばを口にしたのは、そういう過去があったからで、また徳川幕下の諸士たちがそういう眼でみることも避けがたい事実だった。なによりも名を惜(お)しむ武士にとって、これはいつまでも耐えられる問題ではない、折さえあったら華ばなしくたたかって汚名を雪(そそ)ごうと、一族は切歯しつつ今日まで周囲のつめたい眼を耐えしのんで来たのだ。
「おきかせ下さい父上、いかなるご所存でかような未練なおふるまいをなさったのでござります、父上はそれほど命が惜しいのでござりますか」
「そうだ、……命は惜しい」
吉信はまた北の夜空をみまもりながら、水のようにしずかなこえで云った、
「いったんの死はむずかしくはない、たいせつなのは命を惜しむことだ。人間のはたらきには名と実とがある、もののふは名こそ惜しけれ」
「父上もそれをご存じでござりますか」
「その方はどうだ」
はじめて吉信はふりかえった。五十五歳、鬢(びん)に霜をおいて、ふかく頬(ほお)のおちくぼんだ彼の面上に、抑へつけているはげしい意力が脈うっていた。吉信はわが子のまえに坐(すわ)り、噛んでふくめるような口調で云いはじめた。
「名を惜しむということを、そのほうはよくよく知っているか、信次。もののふは名こそ惜しけれとは疋夫(ひっぷ)も口にする、しかし名にも虚名というものがあるぞ、すなわち中身のない名だ、名あって実のともなわざることを云う。……父がごれんみんをもって命を助(たすか)り、降参人(こうさんにん)となっておん旗本に加わったのは、おのれの命ひとつが惜しかったからではない、この君(きみ)こそ天下の仕置たるべき人、この君こそ身命のご奉公をつかまつるべき人と思ったからだ」

三

「よいか信次」
吉信はしずかにつづけた。
「父はおのれ一族の名をあげ、その方共に高名出世をさせとうてご随身(ずいしん)申したのではない、一家一族をささげて徳川のいしずえとなるためにお仕え申したのだぞ」
「…………」
「ご馬前にさき駈けして、はなばなしくたたかうも武士のほんぶんではある、けれどもそれは、今そのほうが申したような心懸(こころがけ)ではかなわぬことだ。そのほうの頭には夏目の家名がしみついておる、おのれこそあっぱれもののふの名をあげようという功名心がある、ご主君のために髑髏(どくろ)を瓦礫(がれき)のあいだに曝(さら)そうと念うよりさきに、おのれの名を惜しむ心がつよい。信次、虚名とはすなわちそのような心を申すのだぞ」
「…………」
「一期のご合戦に先陣をのぞむのは誰しもおなじことだ、けれども誰かは留守城をあずからねばならぬ。先陣をつるぎの切尖(きっさき)とすれば本城のまもりは五躰(ごたい)といえよう、五躰のちからまったくしてはじめて切尖も充分にはたらくことができるのだ、たとえ先陣、留守の差はあっても、これを死處(ししょ)とする覚悟に二つはないぞ、わかるか信次」
信次は両手をついて噎(むせ)びあげた、身命も捨て名も捨てた父のこころが、はじめてわかったのだ。留守城のまもりは誰しも好むところではない、まして吉信がみずから望んで出るとすれば、人びとは「いかにも降参人の望みそうなことだ」と頷(うなず)くであろう、吉信はそれをよく知っていた、知っていながらあえておのれから望み出た。はたして人びとは軽侮の眼で見た、吉信はそれをもあまんじて留守をあずかったのである、彼は身命を捨てるまえにおのれの名を捨てたのだ。
「父上、信次がおろかでござりました」
「…………」
「仰せのとおり、わたくしは夏目の家名にまなこを昏(くら)まされておりました」
信次はしぼりだすように云った。
「もはや世の謗(そし)りもおそれませぬ、人の批判にも臆(おく)しませぬ、いまこそ、瓦礫のなかに無名のしかばねを曝す覚悟ができました、いまこそおのれの死處がわかりました、さきほどの過言をおゆるし下さいまし」
「わかればよし、たたかいはこれからだ、命をそまつにせまいぞ」
吉信はそう云い終ると、しずかに立ってやぐらを降りていった。
明くれば十二月二十二日。
三万余騎の軍をひっさげた武田信玄(しんげん)は、天龍(てんりゅう)のながれを渡って、大菩薩(だいぼさつ)(浜名郡(はまなごおり)有玉村(ありたまむら))より三方原(みかたがはら)にせまった。徳川家康は八千余をもって南よりのぼり、右翼に酒井忠次(ただつぐ)と織田の援軍との混合隊を配(はい)し、左翼に石川(いしかわ)、小笠原、松平、本多の軍を置き、そのうしろぞなえにみずから本陣を張って鶴翼(かくよく)のかまえをとった。
これに対して武田勢は、先陣に小山田信茂(おやまだのぶしげ)、山県昌景(やまがたまさかげ)、内藤昌豊(ないとうまさとよ)、小幡信貞(おばたのぶさだ)ら。だい二陣に馬場信春(ばばのぶはる)、武田勝頼(かつより)ら。信玄の本隊はその後づめとなり、魚鱗(ぎょりん)の陣形をもって南下し来(きた)った。
午後四時(七つ)、たがいの先鋒に依って合戦のひぶたは切られた。
老獪(ろうかい)にして経験ふかき信玄の戦術は、まだわかき家康の敵すべきところではなかった。援軍の将佐久間信盛(さくまのぶもり)まず敗れ、おなじく滝川一益(たきがわかずます)も戦場を捨てた。戦(たたかい)はみるみる苦戦におちいり、本多忠勝、酒井忠次、石川数正(かずただ)[#ルビの「かずただ」はママ]らおおいに反撃したが、夕闇の頃にいたって全軍の敗勢おおうべくもなく、家康はついに退却の命を発した。しかも彼は乗馬(じょうめ)を曳(ひ)かせてこれにまたがり、
「旗本のめんめんはわれと共にしんがりせよ、余(よ)の隊は浜松までひけ、しんがりは旗本にてひきうけたぞ」
とさけんだ。そしてみずから本隊と共にしっぱらい(殿軍)となり、追いかかる敵とたたかいつつ退却していった。
けれども武田勢の追げきはげしく、本多忠真(ただざね)死し松平康純(やすずみ)死し、鳥居信元(とりいのぶもと)、成瀬正義(なるせまさよし)、米津政信(よねづまさのぶ)らあいついで討ち死(じに)をとげた。しかも敵軍の右翼は大きく西へ迂回して、徳川軍の退路をまさに断たんとしている。家康は激怒のあまり死を決し、
「全軍かえせ」
と命をくだした。
そのときである、浜松城の方から疾駆して来た二十五六騎の一隊が、家康のはたもとへ乗りつけると共に、その部将のひとりがだいおんに呼びかけた、
「君にはなにごとを躊躇(ちゅうちょ)したもうや、敵の軍勢はいきおいに乗じたり、ここは本城に退(ひ)きて後日の合戦をまつべきなり、はやはや浜松へ退きたまえ、それがししんがりを承(うけたま)わる」

四

家康はふりかえった。乗りつけて来たのは夏目次郎左衛門吉信である、彼は城の櫓(やぐら)から、家康危急のさまをみて駈けつけたのであった。
「いやもはや退(ひ)かぬぞ」
家康は馬のたづなをしめながら叫んだ、
「本城ま近(ぢか)にて斯(か)くやぶれたうえは、命ながらえてなにかすべき、しかも敵軍すでにわが退路を断たんとする、もはやわが武運のつくるところだ。くちとり、馬をはなせ!」
鐙(あぶみ)をなげて馬の口取をしたたかに蹴る、吉信はおのれの馬よりとんで下りると、家康の馬の轡(くつわ)をしかと取った。
「君にはおろかなることを仰せたもうぞ、進むべきときに進み、しりぞくべきときにしりぞき、いくたび敗戦の苦を嘗(な)むるとも、屈せず撓(たゆ)まず、ついの勝利をはかるこそまことの大将とは申すべし、はやく本城へ退きたまえ、吉信しんがりをつかまつる」
「否(いな)いかに申そうとて、われの此処(ここ)にあることは敵すでに知る、追撃は急なり、もはやのがれぬ運と思うぞ」
「未練の仰せなり、君(きみ)のおん諱(いみな)を冒(おか)してふせぎ矢つかまつるあいだ、此処はいかにもして浜松へ退きたまえ、ごめん」
叫ぶとともに、家康の馬の轡をちからまかせに南へひき向け、おのれの槍の石突をかえしてその乗馬の尻をはっしと打った。
馬は狂奔してまっしぐらにはしりだした、旗本の人びともそれについて退いた。吉信はとくと見さだめてからふたたび馬にとび乗り、追いこんで来る甲州勢の真向(まっこう)へ突っかけながら、
「徳川家康これにあり」
とだいおんに名乗った。
「駿河守(するがのかみ)家康これにあり、われと思わん者はであえ、この首あげて功名せよ」
名乗りかけ名乗りかけつつ、手兵二十五騎と共に悪鬼のごとく斬りこんでいった。
すでに戦場は暮色が濃かった。あれこれ徳川の本陣とめざしていた甲州勢は、徳川家康といふ[#「いふ」はママ]名乗をきいていろめきたった。
――すわこそ敵の大将。
――のがすな、討ちとれ。
とばかりおっとり囲んで来た。吉信はこのさまを見てしすましたりと、馬上に十文字の槍をふるって縦横に奮戦した。
「家康ここにあり。であえ、……であえ」
わめき叫びながら、むらがり寄せる敵をさんざんに駈けなやましたが、わずかな手兵はしだいに討ち取られ、吉信もついに数(あまた)※(きず)[#「やまいだれ+創」、U+24EA8、262-5]を負った。かたな折れ、矢つきたのである。
――もはやこれまで。
と思った彼は、馬上に浜松城のかたを再拝して云った、
「危急の場合とはいえ、われらごとき者の槍の石突をお当て申し、おん名を冒しまいらせた罪は万死に価(あたい)すべし。吉信ただいまうちじにつかまつる、おんゆるし候え」
そして夏目次郎左衛門は討ち死をとげた。
このあいだに家康はしゅびよく退陣し、旗本の人びとも追躡(ついじょう)する敵を撃退しつつ浜松城下までひきしりぞいた。
ときすでに午後六時(六つ)をすぎて、くもり月の空は暗澹(あんたん)と昏(く)れた。
浜松城の大手には篝火(かがりび)がどうどうと焚(た)きつらねてあり、年少夏目信次が守兵をひきいて城門をまもっていた。この篝火をめあてに馬を乗りつけて来た家康は、夏目信次のすがたをみると馬を下り、つかつかとその前へあゆみ寄って云った。
「信次、そのほうの父は、家康にかわってみごとに死んだぞ」
「は……」
「吉信なくば生きては帰れなかった、吉信こそ家康の命の恩人だぞ」
「もったいのうござります」
信次はしずかに拝揖(はいゆう)しながら云った。
「もったいのうござります」
彼には父の顔がみえるように思えた。父はおのれの名に未練はなかった、ただおのれの身命をなげうって、奉公すべき場所を誤ることなきようにとねがった。
――父上はその本望を遂(と)げた、父はねがっていた死處を得られたのだ、しかも誰にもまして華ばなしく、うらやむべき死處を。
退却して来た兵はただちに城の守備についた。玄黙口には鳥居元忠を。下※[#「兎」の一画目の後に「一」を追加し、八画目の点を除いたもの、263-11]口には大久保忠世(おおくぼただよ)と柴田康忠(しばたやすただ)を。山手口には戸田忠次(とだただつぐ)、塩町口には酒井忠次、松平家忠(いえただ)、小笠原長忠(ながただ)を。その他鳴子(なるこ)は、二之丸、飯尾(いいお)の出丸にも兵をくばり、守備と反撃の体勢がみるまにととのった。
元亀三年十二月二十二日は、かくてまったく夜に入った。

底本:「戦国武士道物語 死處」講談社文庫、講談社
2018(平成30)年7月13日第1刷発行
2018(平成30)年8月6日第3刷発行
※底本のテキストは、雑誌「富士」のために講談社で受け付けられた著者自筆稿によります。
※表題は底本では、「死處(ししょ)」となっています。
入力:かな とよみ
校正:Butami
2021年4月28日作成
本文は青空文庫の公開ファイルを使用しています。