『殺生谷の鬼火』

あらすじ

『殺生谷の鬼火』は、山本周五郎による日本の小説で、北海道の奥地にある椙原村を舞台に、伝説の鬼火と家族の絆を描いた物語です。主人公の椙原敦夫は、東京理科大学の学生で、ある日、故郷から母の死と父の危篤を知らせる電報を受け取ります。

急いで帰郷した敦夫は、村で起こった恐ろしい出来事を知らされます。それは、椙原家の土地にある「殺生谷」と呼ばれる場所で、昔、先祖が土人を虐殺し、その怨霊が鬼火となって現れるという伝説があったのです。

敦夫の母は、鬼火によって殺生谷へ引きずり込まれたとされ、父もそのショックで病床に伏していました。村人たちは恐怖に震え、敦夫もまた、この超自然的な現象に直面します。しかし、敦夫は科学的な疑問を持ち、真実を探る決意を固めます。彼は、家族の安全を守るため、そして真実を明らかにするために行動を開始します。

物語は、敦夫が伝説の真相に迫る過程を描きます。彼は、鬼火の正体が実は人間の仕業であることを突き止めます。それは、敦夫の叔父である源治が、椙原家の財産を独り占めするために仕組んだ陰謀でした。

源治は、狼を使い、その毛に夜光剤を塗り、鬼火に見せかけていたのです。敦夫は、母が生きていることを発見し、妹の千代子も危機一髪で救出します。最終的に、源治の悪事が明るみに出て、彼は自らの罪で命を落とします。

山本周五郎は、『殺生谷の鬼火』を通じて、伝説と現実の狭間で揺れる人々の心理を巧みに描き出しています。また、家族愛と絆の強さ、そして真実を追求する勇気が、いかなる困難にも打ち勝つことができるというメッセージを伝えています。物語は、スリリングな展開と共に、人間の内面と外界との複雑な関係を描き、読者に深い感銘を与える作品となっています。

書籍

朗読

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作品を紐解く

背筋にまだ冷たいものが残っているのではないでしょうか。雨にけぶる沼地、闇を裂いて舞う青白い炎、骨の髄から慄(ふる)えるような呻(うめ)き声。怖い、と感じたその心こそ、この物語の入口です。けれど怖さの底には、もう一つの問いが沈んでいます。人は、なぜこれほどまでに「見えないもの」を恐れるのか――。

この作品は、山本周五郎が世に出てまもない頃、少年向けの読み物として書いたものです。実は周五郎は、後年の人情ものや時代小説で知られるよりずっと前に、探偵小説(たんていしょうせつ)や怪奇譚(かいきたん)の書き手として腕を磨いていました。当時、若い作家たちが胸を躍らせて挑んだのが、この「謎と恐怖」の世界だったのです。土俗の伝説、開拓地の闇、そこに理(ことわり)の光を当てていく――そんな筋立てに、後の名作へと続く観察の鋭さが、すでにのぞいています。

舞台は北海道の奥地、文明から遠く隔たった開拓の地です。電灯もなく、石油ランプの灯る駅。馬車にゆられて荒野を行く道のり。その隔絶(かくぜつ)の感じが、物語の不気味さを一段と深めています。古い因縁(いんねん)が語り継がれ、人々がそれを信じて身を縮める。情報が乏しく、外の世界とつながらない場所では、噂(うわさ)と恐怖だけが大きく育ってゆくものです。

そして、こうした言い伝えがどう生まれ、なぜ長く語り継がれてきたのか。それを問い直す視線が、この物語の芯(しん)にはあります。伝説は、ときに人の心を縛り、目を曇らせる。恐れに支配されることと、恐れを見きわめること。その違いは、けっして遠い昔だけの話ではないのかもしれません。

私がいちばん引き込まれたのは、誰もが怯(おび)えて立ちすくむなかで、ただ一人、恐怖そのものを見すえようとした若者のまなざしです。皆が逃げる方へではなく、皆が近寄らぬ方へと歩いてゆく。震える手で銃を握りながら、それでも「確かめずにはいられない」と踏み出す、あの一歩。怖いという感情に呑(の)まれず、目を凝らす――そこにこそ、人が闇を越えていく力があるのだと、静かに教えられます。

恐れは、私たちの目を曇(くも)らせます。曇った目には、すぐ隣にある真実すら映りません。けれど、震えながらでも見ようとする者の前には、やがて夜が明けるのです。雨上がりの、すっきりと晴れわたった空のように。

皆さんは、得体の知れぬものに包まれたあの夜の張りつめた空気を、どんなふうに味わわれたでしょうか。そして、恐怖に立ち向かおうとした若者の姿を、どう受けとめられたでしょうか。怖さの奥に、人の勇気を灯(とも)した物語です。

本文

凶報到る

東京理科大学生の椙原敦夫(すぎはらあつお)は、北海道の奥地に在る故郷の妹から、
(母死ス父危篤至急帰レ、至急ヲ要ス)
という意味の電報を受取(うけと)った。
「なんだい是(これ)は」
敦夫は訳が分らぬという顔で呟(つぶや)いた。
「母さんが死んで父さんが危篤だって? ――またチイ公の悪戯(いたずら)じゃないのか」
春の休暇で帰省した時には父親こそ数年来の病床にあったが、妹の千代子も母親も揃ってぴんぴんしていたし、他に何も変った事が起りそうな状態は見当らなかった。
「然(しか)しまさか母死すなんて事が冗談に云(い)えるもんじゃない、殊(こと)に依(よ)ると何か変事でも起ったのかも知れない、――兎(と)に角(かく)行ってみよう」
敦夫は直(す)ぐ出立の支度をした。
至急という事なので、朝の旅客機で旭川まで飛び、そこから青沼線の軽便鉄道に乗込(のりこ)んだのが、七月はじめの雨催(あめもよ)いの午後一時であった。故郷の椙原村は旭川から東北へ三十里ほど入った僻地で、まるで馬車に毛の生えたような軽便鉄道が一本通っているきり、全く文明から掛離(かけはな)れた山間に在った。
駅へ着いたのが午後七時過ぎ、電灯が無くて石油ランプの吊ってある、凡(およ)そ時代ばなれのした駅の建物を出ると、――横手のところに爺やの平造が馬車で迎えに来ていた。
「えらく早いお着きでがすな」
「旭川まで旅客機で来たからね、――旅客機、飛行機だよ」
「そんな危ねえ物にお乗んなすって」
「まあ宜(い)い、出掛けよう」
敦夫は馬車へ乗った。――馬車はまだ灰色の残照のある道を、荒地の方へ向ってがたがたと走りだした。
「一体何事が起ったんだ、爺や」
「恐ろしい事が始まっただぞ若旦那さま、奥さまは非業(ひごう)にお亡くなり遊ばすし、大旦那さまも御容態が危ねえだ、――村の者の中にも人死にがあるだよ」
「訳を話して呉(く)れ、訳を」
「殺生谷(せっしょうだに)の鬼火が祟り出しただ、御領分内の者ぁみんな生きた空(そら)ぁねえでがすよ」
平造の話を簡単に記そう。
この老人が「御領分内」と云っているのは、椙原家で持っている広大な土地を指すのである。それは北見と石狩の国境に近く、ふたつの嶮(けわ)しい山塊(さんかい)に囲まれた平原で、湿地や沼沢の多い、礫(つぶて)の洗出(あらいだ)されたひどい荒蕪地(こうぶち)に取巻(とりま)かれていた。――その土地の、つまり椙原村の一里ほど北へ離れた処に、俗に「殺生谷」と呼ばれる沢地がある。背を没するような蘆(あし)の生えた泥深い沼と、陰科植物の繁殖した湿地とで成り、見るからに物凄い場所であるが、そのうえ其処(そこ)には昔から恐ろしい伝説があった。それは斯(こ)うである、……椙原家はもと仙台の伊達(だて)家の家臣であったが、今から凡そ二百五十年ほど以前に、蝦夷(えぞ)地開拓のため藩から選ばれて渡島し、間もなく同行の者たちの多くが引揚(ひきあ)げた後も、椙原家だけは留(とどま)って遂(つい)に土着し、今日に到ったのである。その開拓時代に、彼等は恭順を示さない土人達を、百二三十人集めて斬殺し、その死体を例の沼地へ投込(なげこ)んだと云う。――殺生谷と呼ばれるのはそのためで、それ以来其処(そこ)には殺された土人たちの怨霊(おんりょう)が籠(こも)って、青い鬼火が燃えたり、幽霊の叫びが聞えたり、色々と奇怪(きっかい)な事が起るのであった。
以上は古くから口碑に遺った伝説である、然し鬼火の燃えるのは事実だし、道に迷って踏込(ふみこ)んだ者が、殺生谷の泥深い底無し沼へはまりこんで、惨めな死を遂げる事も少(すくな)くはない、――村の人たちは是を、
「殺生谷の怨霊が人を引込むのだ」
と云って、子供でも怖れて近寄らない。
ところが丁度(ちょうど)ひと月ほど前の事であった。椙原家の小作人の一人が、畠(はたけ)仕事に後(おく)れて夜になってから戻る途中、殺生谷の近くで恐ろしく大きな鬼火に遭った。それは奇妙な獣のような形をした青白い火の玉で、夕闇の中を真直(まっすぐ)に飛んで来てその男の眼前(めのまえ)でぴたりと停まり、ぐるぐると二三度舞ったかと思うと、矢のように殺生谷の方へ飛去(とびさ)って行った。――その小作人は夢中で村へ逃帰(にげかえ)ったが、その夜のうちに訳の分からぬ高熱をだして、ひと晩中狂ったように、
「鬼火が俺を曳(ひ)いて行く、鬼火が俺を殺生谷へ曳いて行く」
と叫んでいたが、遂にそれから三日めに死んで了(しま)った。
そんな事があってから間もなく、人々は夜になると殺生谷の方から、呻(うな)るような、叫ぶような、気味の悪い声が聞えて来るのに気付いた。――それは人間の声ともつかず獣の声ともつかず、或時(あるとき)は微(かす)かに或時は鋭く、高く……聞いていると骨の髄から慄然(ぞっ)とするような恐ろしい声だった。
「ああ、殺生谷の底から土人の怨霊が呼んでいるんだ」
人々は恐怖に戦(おのの)きながら囁交(ささやきかわ)した。

千切れた袖

「ところが今から五日まえの事でがす」
平造老人は続けた。
椙原家の作男(さくおとこ)で吾平というのが、使(つかい)を命ぜられて西の家へ行った。――西の家とは、敦夫の父の弟で、敦夫たちには叔父(おじ)に当る源治の住居(すまい)である。椙原源治は極めて人嫌いな偏屈人で、兄の壮太郎とも仲が悪く、村の西端(はず)れにとび離れた一軒家を建て、兄からの仕送りで今尚(なお)妻も娶(めと)らずに暮していた。
吾平は西の家で用を足し、それからもう一軒小作人の家を訪ねたので、帰途についたのはとっぷり暮れてからだった。なにしろ途中殺生谷の近くを通らなければならぬので、彼はもう足も地につかぬ気持で急いだ、――そしてようやく其処(そこ)を通抜(とおりぬ)けてやれやれと思ったとたんに、右手の闇の中から突然、
「あーッ助けてえ※(感嘆符二つ、1-8-75)」
という女の悲鳴が聞えて来た。
吾平は息も止まるほど驚いたが、それでも必死の勇を鼓して声のする方へ近寄って行った。すると――甜菜(てんさい)畑の向うのところを、一人の婦人がさんばら髪になって眼を吊上(つりあ)げ、まるで見えぬ手で引摺られるように、よろよろと殺生谷の方へよろめいて行くのが見えた。然(しか)もその婦人の周囲を、青白い大きな、獣のような形をした火の玉が、くるくると恐ろしい早さで舞狂(まいくる)っているのである。
「鬼火が人を殺生谷へ曳いて行く」
吾平はそう思いながら、歯の根も合わず見戍(みまも)っていたが、やがて、自分の危険に気付くと夢中で其処(そこ)を逃げだして了(しま)った。
「――その婦人が奥さまでごぜえました」
平造老人は身震いをしながら云った、「俺(わし)らは直ぐに作男や小作人たちを集めて駆けつけましただが――駄目でがした。殺生谷の入口のところで、木枝に引懸っていた奥様の着物の袖をみつけたのがせめてもの事、今日まで未(ま)だ死骸もあがりましねえだ」
「爺や、僕には信じられないよ」
「誰に信じられますべえ、――だが事実はどうにもなりやせん。大旦那さまはそれ以来ぐっと病気が重って……」
老人は言葉を切って云った。
「さあ、お屋敷へ着きましたぞ、若旦那さま」
そして馬車は、がらがらと石畳を鳴らしながら椙原家の門の中へ入って行った。
馬車の音を聞きつけたのであろう、玄関には妹の千代子が、眼を泣腫(なきは)らした哀れな姿で出迎えていて、敦夫が入って行くなり、
「お兄さま!」
と泣きながら縋(すが)りついた。
「大変な事になったね、さぞ吃驚(びっくり)したろう。だが十八にもなってそう泣くなよチイ公、――兎に角お父さまに会おう」
「いまお眠ってらっしゃるの」
「そうか、それじゃあお起きになるまで君と少し話をしようか」
敦夫は態(わざ)と元気を装いながら、洋館の広間へ妹と一緒に入って行った。――ふだんあんなに陽気で、罪のない悪戯(いたずら)をしては家中の者を笑わせていた千代子が、恐ろしい出来事のためにすっかり脅(おび)え、美しい眸(ひとみ)は絶えず襲われているように落着(おちつ)かなかった。平造老人の話を聞いただけでは多少まだ疑わしく思っていた敦夫も、この妹の哀れな変りようを見ては奇怪(きっかい)な事件の真実さを認めずにはいられなくなった。
敦夫は妹からも話を聞いた、そして平造老人の語るところと違(ちがい)はないのを慥(たしか)めた。
「――土人の怨霊、奇怪(きっかい)な呻(うめ)き、青白い大きな鬼火、……まるで中世紀の伝説だ、――その伝説のような現象が、実際に人を殺す……然も僕たちの母さんを殺した、――考えられない。実に考えられない怪事件だ」
「でもお兄さま、あの殺生谷の怨霊の声を聞けば、信じられない事も信じられるわ」
「チイ公もそれを聞いたのか」
「聞いたわ、二度も三度も、――お兄さまだっていまにお聞きになるわ」
そう云って千代子は身震いした。
父の壮太郎はよく眠っていて起きそうもなかったので、敦夫は旅の疲れもあり、寂しがる妹と一緒の部屋で早くから寝台(ベッド)へ入った。寝苦しいひと夜(ばん)だった。とろとろとしたかと思うと直ぐに、何とも得態(えたい)の知れぬ悪夢に襲われてはっと眼が覚める、そうすると今度は中々寝つかれず、殺生谷の鬼火が今にも其処(そこ)へ現われるような気がしたり、怨霊の呻きが聞えるように思ったりして、窓がほのぼのと白んで来るまで、遂に敦夫は満足に眠らずにしまった。

古き呪い

夜が明けると雨だった。――軽く朝飯を済ましてから、敦夫は妹と一緒に父の病室へ入って行った。
父の顔には見るも痛ましい苦悩が刻みつけられていた、医者から余り話をしないようにと注意されていたので、簡単に挨拶だけして退(さが)ろうとすると、父は不意に鋭い眼をして、
「――敦夫、云って置くが、おまえは直ぐ東京へお帰り、千代子も伴(つ)れて行くんだ」
「そんな事は父さんが治ってから」
「否(いや)、いかん」
父は敦夫の言葉を遮って、「今度の事件は是からが本筋だ、母さんが第一、二番目は父さんだ、そして此処(ここ)にいる限りおまえも千代子も同じ運命に死ななければならぬ」
「どうも、僕には納得がゆかないですが」
「話してやろう。――おまえは殺生谷の伝説を知っているだろう、椙原家の先祖が此処(ここ)へ入墾した当時、百幾十人かの土人を殺してあの底無し沼へ投込んだと云う。……事件の因(もと)はあれなのだ」
「つまり土人の怨霊ですね」
「そうだ、多くの土人の怨霊が凝(こ)って鬼火となり、椙原家の人間を取殺そうとしているのだ、然もそれは今度が初めてではない、七十年目毎(ごと)に繰返(くりかえ)されている事が分ったのだ」
敦夫はこの新しい事実に驚いた。
「では以前にもあったのですか」
「第一回は宝永七年、第二回は安永九年、第三回は嘉永三年、――三回とも恐ろしい鬼火が現われて殆(ほとん)ど一家全部を殺生谷へ引込んで了(しま)った。僅(わずか)に他処(よそ)へ出ていた者がその難を免(まぬか)れて家を継いだのだ。今度はその第四回目に当るのだ」
「どうして其(それ)が分かったのですか」
「西の源治が土蔵の中から捜出(さがしだ)した、古い記録に精(くわ)しく記してある――読んで御覧」
そう云って父は、枕許(まくらもと)にあった一冊の古ぼけた記録を取って渡した。
東京へ帰るという問題から逃げるために、敦夫は少しその記録を調べるからと云って病室を辞し、洋館へ入って卓子(テーブル)の上へその古冊子を披(ひろ)げた。――土佐の古漉紙(こすきがみ)を二枚に折った十枚綴じの物で、ひどく古色が出ているが蝕(むしく)いの痕(あと)はない。余程保存が良かったとみえて、墨色の褪(あ)せも少(すくな)く、六朝風の達筆で「殺生谷の鬼火に就(つい)ての秘録」という題名の本に、恐ろしい呪(のろい)の事実が精しく書認(かきしたた)めてあった。それは父の話した通り、実に戦慄すべき記録なのだ。
「分らん、頭が混乱する許(ばかり)だ。――ゆうべよく眠っていない故(せい)かも知れない」
「お午睡(ひるね)をなさいよ」
千代子が労(いた)わるように云った。
「あたし吉井村のお友達の家まで行って来るから、そのあいだお兄さまもお寝(やす)みになると宜(い)いわ」
「お友達の家で何かあるのかい」
「ええ、お友達のお義姉(ねえ)さまに赤ちゃんが生れたのよ、それでお祝いを持って行かなくちゃならないの、夕方までには帰るわ」
「じゃあ僕は午睡(ひるね)をするとしよう」
そう云って敦夫は寝椅子(いす)へ横になり、手に持った記録の冊子を、光を除(さ)けるために顔の上へ伏せて眼を閉じた。
ひと晩殆ど眠っていないので、敦夫はそのままぐっすり熟睡した。女中が午飯(ひるめし)を知らせに来たのも知らず、午後三時近くまで眠って、ふと眼が覚めたので起上(おきあが)ろうと、顔の上の冊子を取ろうとした時、何をみつけたか、
「おや――?」
と低く呟いた。眼前(めのまえ)にある冊子の紙が、窓から来る光のために透いて見える、――その紙の端のところに、紙へ漉込(すきこ)んだ文字がありありと見えたのだ。
「変だぞ、――これは、……」
敦夫は臥破(がば)と起上った。そして記録の紙を一枚一枚、光に透かして叮嚀(ていねい)に見ていたが、急にそれを投出して立上(たちあが)った。
「益々分らなくなった、――否(いや)そうじゃない。秘密の鍵をみつけたのだ。……待て、考えなくちゃならんぞ、是が若(も)し――」
敦夫は立止まった。眉のあいだに深い皺が畳まれている。やがて何か重大な事を考えついたらしい。こくりと一つ頷くと、足早に土蔵の中へ入って行ったが、間もなく一挺の猟銃と弾丸筐(ケース)を[#「弾丸筐(ケース)を」はママ]持出(もちだ)して来た。――その猟銃は父の愛用品で、英吉利(イギリス)から態々(わざわざ)取寄せた二聯(にれん)銃身の精巧な物だった。敦夫はそれに弾丸(たま)を装填すると、女中を呼んで食事を命じ、手早く済ませて雨帽子と外套を着込み、
「些(ちょ)っと其辺(そのへん)を歩いて来るから」
と云い置いて家を出た。
雨はまだ降頻(ふりしき)っていた。森も畑の作物も荒地の草も、ぐっと気温の下った雨に濡れて身震いしているように思われた。敦夫は外套の衿を立てて雨帽子の庇(ひさし)を深く引下し、銃を右の小脇に抱えて街道へ出ると、耕地のあいだを真直(まっすぐ)に北へ向って歩きだした。――四十分ばかり行くと道は二つに岐(わか)れる、それを右に取って更(さら)に三十分ばかり、ひどい泥濘(ぬかるみ)の道を進むとやがて、右側が緩い斜面の丘になり、左手に灌木の茂みが展(ひろ)がっている場所へ出た。敦夫はその灌木の中へ入って行った。
進むに順(したが)って地盤が柔かくなり、ともすると長靴をずぶりと踏込んで了(しま)う、そしていつか灌木をぬけて蘆の生えた湿(しめり)へ出たと思うと、急に眼前(めのまえ)へ殺生谷の底無し沼が姿を現した。

黄色い粉

敦夫は殺生谷の周囲を二時間あまりも歩き廻った。――鼠色の雨空、濡れた蘆、ぬるぬると粘菌類や陰科植物の繁殖した沼地、……それは奇怪(きっかい)な鬼火の伝説がなくとも、実に不気味な、陰惨な光景だった。
「この沼の底に百余人の土人の死体が沈んでいるのだ、その他にも鬼火に誘われた幾多の人が……そして母さんの死体もあるのだ、――呪われた沼よ」
敦夫はぶるっと身震いをした。――とその時である。蘆の葉に鳴る雨の音より他に、なんの音もしない荒涼たる殺生谷の何処(どこ)かで、
うるるるるるう――。
と云うような奇妙な呻声(うめきごえ)が起った。
「あ、怨霊の声だ」
敦夫は咄嗟(とっさ)にそう思った。彼は爪先から氷のような恐怖が這登(はいのぼ)るのを感じて、思わず猟銃を執直(とりなお)した。呻声は直ぐ続いて起った。
うるるるる! くうくう――。
それは明(あきら)かに沼の中から聞えて来るのだ。変に陰気な、本当に怨霊が哭(な)くと云いたいような声である。――敦夫は猟銃を執上げて、ぐいと沼の方へ狙いをつけた。と――それと殆ど同時に、背後からざわざわと物の気配がした。
「――何か来る」
そう気付いて、敦夫は素早く蘆の茂みへ跼(しゃが)みこんだ。
この恐ろしい殺生谷へ、然もこんな雨の降る黄昏(たそがれ)どきに来るのは何者だろう、――息を殺しているとやがて、高い蘆のあいだからぬっと黒い外套が現われた、それは旧式の頭巾附きのもので、頭からすっぽりかぶっているため、顔も体つきもまるで分らない。……男はぴたりと足を停めて、暫(しばら)く四辺(あたり)の様子を窺っていたが、敦夫の前を通って奥の方へ去った。
くうーんくうーん うるるる。
例の声は急に高くなった。敦夫は悟られぬように注意しながら、蘆の隙間越しに伸上(のびあが)って見た。すると黒い外套の男は、沼の右手にある裸岩の蔭へすっと隠れて了(しま)った。
「あんな処で何をするんだろう」
そう思いながら待っていた、長い時間だった。雨の日の暮れ易い空は、いつかもうどす黒い夕闇がのしかかって、沼の水ばかりが鈍色(にびいろ)に光っていた。――凡そ一時間も経ったかと思われる頃、突然ざわざわと男の戻って来る気配がしたので、敦夫は再び蘆の茂みへ身を隠した。男は足場を選びながらゆっくり歩いて来る、四辺(あたり)が静かなので、身動きをしても気付かれるに違いない。――誰だか慥(たしか)めてやりたい。
という烈しい誘惑を押えながら、敦夫は辛棒(しんぼう)強く男の通過ぎるのを待った。――そして黒い外套の頭巾が、全く蘆の彼方(かなた)へ見えなくなるのを見定めて、沼の縁(へり)を例の裸岩の方へと進んで行った。――それは半分沼の中へ突出(つきで)た粗面岩(そめんがん)で、高さ十二呎(フィート)あまりの、丁度巨人が横伏したような恰好をしている、敦夫はその岩へ登って、さっき男の姿の見えなくなった辺を覗いて見た。……すると岩の蔭になったところに、人が跼(しゃが)んで入れるほどの洞穴(ほらあな)のあるのを発見した。
「ははあ、奴は此処(ここ)へ入ったのだな」
呟(つぶや)きながら、身を跼(かが)めて入ろうとした時、洞穴の入口のところに、妙な黄色い粉がいっぱい落ちているのをみつけた。
「何だろう――」と指に附けて拾って見た、それは硫黄(いおう)の粉末のような物だった。――敦夫は指で潰したり、匂(におい)を嗅いだりしていたが、不意に、
「しめた! 分ったぞ※(感嘆符二つ、1-8-75)」
と大きく叫んだ。そして洞穴の中へ入って行った。中は畳四帖敷ぐらいの広さで、天井も高く、下には古い藁屑がいっぱい散乱していたし、おまけに鼻を衝(つ)くような悪臭がむっと立罩(たちこ)めていた。
「何も彼(か)も思った通りだ。――呪いの記録、怨霊の呻声、鬼火、……立派な道具立てだ、椙原家を全滅させて、それで――」
敦夫はそこまで呟いてはたと黙した。――何か物の蠢(うご)めく気配がする。
「まだ誰かいるぞ」
恟(ぎょ)っとして一歩退き、燐寸(マッチ)を取出してすった。ぱっと光が洞穴の四壁を照した、見ると、……奥の方に誰か倒れている者がある、
「――誰だ、誰だ!」
敦夫が叫ぶと、倒れている人影がゆらりと身動きをして、
「助けて、助けて、――千代だけは、千代だけは触らないで」
と苦しげに呻いた。
「あっ――※(感嘆符二つ、1-8-75)」
敦夫は仰天して駈寄(かけよ)った、そして二本めの燐寸(マッチ)をすって覗きこんだ。
「矢張(やっぱ)り、――母さんッ」
絶叫しながら敦夫は抱附(だきつ)いた。驚くべし、洞穴の奥に倒れていたのは、鬼火のために、殺生谷へ引込まれたと信じられていた敦夫たちの母親であった。

危機一髪

母親は後手(うしろで)に縛られていた、敦夫は手早く縄を切って抱起し、
「母さん、敦夫です、敦夫です」
と耳へ口を当てて呼んだ。母親はその声をようやく聞きつけたと見え、
「おお――」
と身を顫(ふる)わしたが、
「は、早く、千代子を助けて、母さんは構わない千代子を助けて!」
ともつれる舌で叫ぶや、そのまま敦夫の腕の中へ気絶して了(しま)った。――敦夫には母の言葉が雷のように響いた。
「千代子、――そうだ、チイ公は吉井村の友達を訪ねて夕方帰ると云った、奴はその途中を、狙うに違いない、しまった!」
敦夫は臥破(がばっ)とはね起きるや、気絶している母を抱上げて洞穴を出る、もうあとは夢中で、蘆を踏倒し灌木を押分(おしわ)けて街道へ出た。――そこから二三丁西に小作人の村田与二郎の家がある。気絶した母を抱いたまま泥濘(ぬかるみ)に何度も足を取られながら、ただ死力を尽して走りに走った敦夫は、ようやくの事で村田の家へ辿着(たどりつ)くと、
「与二郎、明けて呉れ、僕だ、敦夫だ」
と雨戸も破(わ)れよと叩いた。――村田与二郎は大男の予備軍曹で、満洲事変の時には出征軍に加わり、すばらしい働きをして勲章を拝受した、村一番の豪胆者だった。
「おお、是は若旦那じゃありませんか、どうなすったんで。――おや、それは奥さまですね!」
「訳はあとで話す、母さんを預けるから、直ぐ医者を呼んで手当をして呉れ、――それから馬はあるか」
「曳いて来ましょう」
与二郎は母親を抱取って奥へ運ぶと、厩(うまや)から手早く馬を曳出(ひきだ)して来た。――敦夫は猟銃の安全錠を外し、ひらり馬に跨がると、
「後で会おう、母さんを頼むぞ」
と云い捨てざま、馬腹を蹴って北へと、疾風のように駆けだした。
街道を廻ったのでは間に合わないと思ったから、道を外れて藪ヶ丘を遮二無二(しゃにむに)乗り越え、檜の植林地を横断して吉井村と椙原村をつなぐ街道へ出た、――それを更に南へ十丁あまり、馬を煽り煽り行くと、向うから、
「あ――ッ 助けてッ」
凄(すさま)じい悲鳴が聞えて来る。
「チイ公だ」
と直感した敦夫が、驀地(まっしぐら)に乗りつけて行くと、道の上に一台の馬車が停(と)まって居り、その周囲を、大きな青白い火の玉が、恐ろしい早さでくるくると舞狂っている、――鬼火だ、殺生谷の鬼火が現われたのだ。
「助けて――えッ怖いッ」
馬車の中から聞える悲鳴は正に千代子の声だ。
「うぬ、鬼火め!」
敦夫は手綱を絞って馬を停めると、舞狂っている鬼火を狙って続けざまに射った。
だーん、だーん、だーん。
銃声は柏の林に木魂(こだま)した、そしてぎゃぎゃぎゃん※(感嘆符二つ、1-8-75) という、慄然(ぞっ)とするような咆哮が聞えたと見る間に、今まで恐ろしい早さで廻っていた鬼火が、ぴたりと地上へ動かなくなった。――敦夫は更にそれを狙って三発、充分に射止めて置いて馬車へ乗着けた。
馬車の中には千代子が、殆ど半分気を失っていたが、敦夫が近寄って、
「チイ公、もう大丈夫だぞ」
と呼びかけるや、
「まあお兄さまッ」
と叫びながら、狂ったように兄の体へとびついて来た。
「怖い、鬼火が、鬼火が……」
「大丈夫だよ、鬼火はもう僕が片付けたよ、母さんも無事だったんだ、もう何も心配することはないよ」
「ええ※(感嘆符疑問符、1-8-78) 母さんが生きて――?」
「そうなんだ、何も彼も直ぐ片がつくよ、――御覧。おまえの怖がっていた鬼火はそこに転がっているよ」
敦夫の指示(ゆびさ)した処を見ると、一頭の巨(おお)きな、犬のような獣が死んでいた。
「まあ、なんですの是?」
「狼を馴らした奴さ」
「だって毛が青白く光っているのは?」
「夜光剤だ、闇の中で燐光を発する薬剤が塗ってあるんだよ、恐怖に眼の眩(くら)んでいる者には是が鬼火に見えたんだよ」
そう云って敦夫は愉快そうに笑った。

明(あく)る朝。昨日の雨にひきかえて、すっきりと晴れあがった空を見ながら、洋館のベランダで敦夫と千代子が話していた。
「――秘密を解く鍵を与えて呉れたのは、あの呪いの記録を書いた紙なんだ。あの紙は如何(いか)にも古びているが、透かして見ると漉込みの字があった。それがなんと、土佐西原『昭和堂』と云う字じゃないか、つまり、昭和になって漉いた紙なんだ。――だから源治叔父さんが土蔵の中から古く伝わっていたのを捜出したというのは嘘で、実は最近拵(こしら)えて古いように手入れをしたのさ」
「どうしてそんな事をしたの?」
「伝説を信じさせるためと、自分の犯罪をカムフラアジするためだ。七十年め毎に呪が復活すると云う記録があれば、自分は疑われずに済むからな、――何故(なぜ)そんな事を企んだかって? まだ君には分らないのか。一言で云えば椙原家の財産が欲しかったからさ、我々を全部やっつけて、椙原家を自分の物にする積(つもり)だったんだ。……然し旨く考えたよ、殺生谷の伝説を利用して狼を馴らし、毛へ夜光剤を塗って鬼火に仕立てるなんか馬鹿じゃ出来ない事だ。それも自分の家へ飼って置いては発見される怖れがあるから、人の近寄らない殺生谷の裸岩に隠して置き、必要に応じて使ったところは天晴(あっぱれ)だ。――僕は然し、洞穴の入口で黄色い粉を拾った時、それが夜光剤だと知って大体の見当がついたんだ」
「でもよく母さん殺されなかったわね」
「如何(いか)に悪人でも、義理の姉を手にかける事は出来ないさ、あの洞穴の中で飢死させてから、底無し沼へ沈める積(つもり)だったのだろう。――ゆうべ狼を曳出しに行った時、母さんにこれからチイ公をやっつけに出掛けるんだと口を滑らしたのが此方(こっち)には仕合せで、危うく君が助かったんだ」
「まあ、なんて怖ろしい人でしょう」
「なに昔から彼(あ)の人にはそんなところがあったよ、唯(ただ)……」
と云いかけた時、庭先へ平造老人が入って来て、帽子を差出(さしだ)しながら云った。
「若旦那さま、幾ら捜しても西の旦那はみつかりましねえ、この帽子が底無し沼に浮いとりましたから、殊に依ると彼処(あそこ)へ……」
「そうだ、其(それ)で宜いんだ」
敦夫は頷いて云った。「彼処(あそこ)が叔父さんに一番相応(ふさわ)しいお墓だよ、――神よ、彼人(あのひと)の魂に平安あれ」

底本:「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」作品社
2007(平成19)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「新少年」
1937(昭和12)年9月
初出:「新少年」
1937(昭和12)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「呪い」と「呪」、「駆」と「駈」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:良本典代
2022年7月27日作成
本文は青空文庫の公開ファイルを使用しています。