『流血船西へ行く』
あらすじ
『流血船西へ行く』は、山本周五郎による短編小説で、太平洋を漂流する謎の「流血船」と、それを追跡する救護船太平丸の物語を描いています。
物語は、太平洋沿海の救護船・太平丸が、流血船の報告を受けたところから始まります。流血船とは、太平洋のまん中に亡霊のように漂っている三本帆檣の船で、船内には人の姿が無く、到るところ生々しい鮮血にまみれているという、無気味な噂の船のことです。太平丸の船長・樫原太市は、職務上の必要と冒険心から、流血船の真相を探ることを決意します。
一方、太平丸の無電技師・伊藤次郎は、同じ救護船・浦島丸の無電技師で親友の川本順吉と、どちらが先に流血船の真相を探るかを賭けていました。伊藤は、船長を説得して流血船探査を決行します。
太平丸が流血船を探す途中、濃霧に襲われます。そして、アラスカの漁夫から、この海域に巨大な海坊主が出没し、船を襲うという不気味な話を聞かされます。やがて、伊藤は川本から無電で連絡を受け、浦島丸が流血船を発見したことを知ります。しかし、通信中に川本の悲鳴が聞こえ、海坊主に襲われたことを告げられます。
太平丸は、浦島丸の救助に向かいますが、途中で流血船を発見します。船内は噂通り、鮮血にまみれた無人の船でした。調査中、太平丸に残った船員たちが惨殺される事件が発生します。犯人は海坊主だと思われました。
伊藤は、流血船の吃水が深いことに気づき、船底に何かがあると推理します。船底を調べると、そこには隠し部屋があり、十六名の外国人が潜んでいたのです。
真相は、彼らが外国の間諜で、日本近海に海底電線を敷設するために、流血船を偽装していたというものでした。海坊主は、特殊な潜水服で、鋼鉄の鉤を持っており、それで多くの殺人を犯していたのです。浦島丸は、流血船の秘密を知ったために、全員が虐殺され、沈められてしまったのでした。
最後は、犯人たちが拘束され、事件は解決します。しかし、親友の川本を失った伊藤は、無念の思いを抱きつつ、太平丸とともに帰航の途につくのでした。
『流血船西へ行く』は、ミステリアスな設定と、次々と明かされる真相が読者を引き付ける、スリリングな短編小説です。山本周五郎は、この作品で、海の上で繰り広げられる、国家間の諜報戦と、それに巻き込まれる人々の運命を、巧みに描き出しています。
書籍
朗読
本文
「船長、至急無電報が入りました」
太平洋沿海の救護船、太平丸の船長室へ、元気に無電係の伊藤次郎青年が入って来た。
「この凪に難波船でも有るまい、何だ」
「流血船の報告です」
「え? ――又か」
太平洋の鮫と異名を取った樫原太市船長の顔が、急にぴんと引緊まった。――伊藤青年は報告紙を見ながら、
「発信はアメリカの豪華船P・F号です、簡単に読みます。……本船は三月二日午前七時十分、東経百五十度、北緯二十度三分の海上に於て、三本帆檣の一漂流船あるを発見せり、依って直ちに船員を派して検分せしに、船内には全く人影無く、船室、甲板、歩廊等、悉く鮮血にまみれ居れり、恐らく大殺人惨劇の行われたるものと思わる。救助すべきもの無きに依り、本船は是を放置せしまま母港に向け進航せり」
「又か、――又か、くそっ!」
樫原船長は卓子を叩いて立上った。
この奇怪な「流血船」の話は、もう半年も前から伝わっていた。――太平洋のまん中に亡霊の如く漂っている三本帆檣の船、その中には全く人の姿無く、然も船内は到るところ生々しい鮮血にまみれていると……無気味な、血腥い話なのである。
職務上の必要ばかりでなく、冒険好きな樫原船長はずっとこの奇妙な報知に注意していたが、季節風と海流とに関係なく、「流血船」は或る一定の線を西へ西へと流れている事が分った。太平丸が最初に報告を受けた時には、その船は加奈陀の北西二百浬の海上にあったが、それから半年のあいだに二千浬以上も西へ来ているのだ。
「こんな馬鹿な話があるか」
船長が屹と眉をあげて云った。
「誰も乗っていない船が、半年間少しも針路を変えずに二千浬以上も同じ方向へ漂流するなんて、そんな馬鹿げた事があるか、――そのうえ鮮血だ、兇悪な殺人だ、惨劇だ、まるで百年も昔の海洋小説のような事を云う、近頃の船乗はみんな頭がどうかしたに違いない」
「でなければ船長が臆病になられたのでしょう」
「な、なんだと」
「失礼――」
若い伊藤青年は、にこにこ笑いながら一歩退いて云った。
「僕は斯う云いたかったんです、流血船の話は半年も前から聞いています。そして船長は太平洋の鮫と異名のある人です。――どうして噂の実否を確めに行かないのですかと」
「馬鹿な事を、我々には沿海救護という大事な任務がある」
「P・F号の無電に依ると、流血船の位置は領海へ迫ること三百浬ですよ船長、そこに何か惨劇があったとすれば、救護に行くのは我々の任務ではないでしょうか」
「ふうむ、――領海から三百浬か、……」
船長は眤と伊藤の眼を覓めた。伊藤青年は力に溢れた微笑を見せている。――如何にもさあ行きましょうと云いたそうだ。
「貴様に計られたな」
船長はやがて呶鳴るように云った。
「宜し、臆病者と云われては俺の名が廃る。出掛けよう」
「しめたッ」
「直ぐ無電で横浜の本部へ報告しろ、領海附近に漂流船あり、救護のため進路を変更す、と云うんだ、流血船の事には触れるな」
「畏りました、船長」
伊藤次郎は活溌に答えて踵を返した。
彼は得意であった。なにしろこの半年以来ずっと好奇心の的だった「流血船」を、愈々探険する運びになったのだ。――実を云うと、同じ救護船浦島丸の無電技師で川本順吉という友達と、何方が先に流血船の真相探険をするか、もう五週間も前から賭けをしていた。そのうえ当の浦島丸はいま、北部沿海に出動しているので、P・F号の無電は此方と同様に聴いた筈である。だから賭けをした手前にも、浦島丸に先立って流血船探険を決行する必要があったのだ。
「しめしめ、是で川本の奴をあっと云わせてやれるぞ」
伊藤青年は本部へ無電を打ちながら、会心の笑をもらすのであった。
太平丸は進路を西北西に変えた。海はすばらしい凪である。千二百噸の小さな船だが救護船の特徴として荒天航行の設備は充分だし、速力も普通船より五割がた早い――大きなゆるい波のうねりを引裂きつつ、まるで辷るように航って行く。
その日の暮れがた、恐ろしい濃霧に襲われた。そして冒険の第一歩が始まった。
無電室で附近の海上に船のいない事を確めた伊藤青年は、後の係を助手に命じて置いて甲板へ出た。時は黄昏である。船の周囲は壁のように濃密な霧に包まれている。雨帽子や外套は忽ち濃霧に濡れ、雨の中にでもいるように、ぽとぽとと滴になって垂れて来る、――と、不意に、
「船がいるぞ、停れ」
と云う叫びが見張所から聞えて来た。
「船だ船だ、ゴースタン」
「ゴースタン」
喚きは喚きを呼んで、忽ち太平丸は速力を緩め、推進機の逆廻転をしながら舳をやや右へ転じた。その刹那に、霧の中からぽっかりと一艘の船影が現われた。
「船長三本帆檣ですぜ」
伊藤青年は船長の側へ近寄って云った。
「うん、だがまだ予定の位置じゃない」
「それに舷灯も点けていません」
「まあ待て」
太平丸は号笛を鳴らしながら、相手の方へ近寄って行った。そして両方の舷が殆んど触合うほど接近した時、相手の船上に風雨灯の光が見え、四五人の船員が舷門の方へ走って来た。太平丸の探照灯を真向から浴びたこれらの船員たちはみんな赤髭の外人だった。
「何故、霧笛を鳴らさんのか」
船長が英語で叫んだ。
「我々は[#「我々は」はママ]あらすかノ漁夫デス」
相手が答えた。「五時間ホド前ニ、巨キナ海坊主ニ出会ッタノデス。皆ソレデ船内ニ隠レテイマシタノデ、何ニモ知リマセンデシタ」
「他に怪しい船は見なかったか?」
相手はひそひそと何か暫く囁合っていたが、今度は別の声が答えた。
「昨日ノ朝、妙ナ船ニ会イマシタ、三本帆檣ノ二千噸バカリノ奴デス。船内ニハ誰モ居ナイ様子デ……何処も[#「何処も」はママ]彼処モ血ダラケデシタ」
「その船は停っていたか?」
「西ノ方ヘ漂流シテイマシタ。――ソレヨリ、此附近ニ巨キナ海坊主ガ出マスカラ注意シテ下サイ。奴ハ船ヘ襲イ掛ッテ来マス」
船長は嘲るように肩を竦め、振返って出発を命じた。――伊藤次郎は霧の彼方へ消えて行く漁船を見送りながら、変にぞくぞくと背筋の寒くなるのを覚えた。多少でも海上生活をしたもので、海坊主の話を聞かない者はないだろう。殊に霧や靄の多い海では屡々見られる現象である。それは物の影が霧に映るからで、決して超自然のものではない。――然し今、伊藤青年はアラスカ漁夫の話を聞いていて、妙に生々しい印象を受けたのだ。
――奴は船へ襲い掛って来ます。
という言葉は特に強く響いた。
「無気味だ、なんだか妙な気持がする、普通の海坊主とは違うのではないか……」
そんな事を思いながら無電室へ戻ってみると、丁度助手が何処からかの無電を受けているところだった。助手は伊藤青年の顔を見るなり、
「浦島丸の川本さんです」
と云ってレシイバアを渡した。
「よう伊藤か」
相手は正に川本順吉だった。
「五週間まえの賭けは忘れないだろうな」
「それがどうした」
「驚くなよ、浦島丸は一昨日から流血船を捜していたんだが、一時間ばかり前に到頭捉えたぞ」
伊藤青年は思わずしまったと呻いた。
「おい、それは本当か」
「現に僕の船窓から見えている、いま船員たちが乗込んで行ったところさ、気の毒だが賭けは僕の勝利らしいな、はははは」
既に海上は暮れている。この無気味な夜を冒して、彼等はいま流血船の探険を始めたのであろうか、――先手を打たれた口惜しさよりも、伊藤次郎にはそれが心配になった。
「賭けに負けたのは認めるよ。それより川本、こんな夜の冒険は危い、朝になってからするように云って、早く皆を引揚げさせろ」
「なんだ、君は遠くにいて怯気づいているのか、大丈夫だよ。相手は……」
そこ迄云って、不意に川本の声が聞えなくなった。
「おい川本、どうしたんだ」
「川本、川本、……」
突然向うでガシャン! と硝子器でも壊れるような音がした。同時に川本の声で、
「う、海坊主が来た、あッ あ――ッ、血みどろの手が……助けて呉れ」
「どうしたんだ、川本ッ」
「殺されるッ、海坊主だ、助けて呉れッ」
ばりばりッと板の裂ける音と共に、ぎゃっという川本順吉の断末魔の悲鳴が聞えた。そして凡べてが森閑と鎮まりかえった。
伊藤次郎は水を浴びたように、慄然と居竦んだ。アラスカ漁夫の話――奴は船へ襲い掛って来ます。……という無気味な言葉が、まざまざと耳の底へ蘇えって来た。
「大変だ!」
伊藤青年は脱兎の如く無電室からとび出して行った。
樫原船長も顔色を変えた。
川本の言葉から推すと、海坊主が浦島丸へ侵入して、川本を惨殺したとしか思えない。川本は判きり海坊主だと云った。
――血みどろの手だ。
とさえ云った。
「全速力だ、霧などに構わずやれ」
船長は断乎として叫んだ。
伊藤次郎は直ぐ戻り、無電で浦島丸を呼び続けた。然し遂に答えは無かった。――船の位置だけでも先に聞いて置けば宜かったと思うが、もう今更どうにも仕様がない。ただ、出来るだけ早く現場へ行って、危急の友を救うことである。
天の与えと云おうか、海の荒れる季節にも関わらず風も無く、海上には緩いうねりがあるだけ、然も夜半前には全く霧も霽れたので、太平丸は湖上を行くように快走を続けることが出来た。――重苦しい夜が明けて朝が来た。四方は水平線の涯まで眼を遮る物もない。
「もうそろそろ予定の位置だが」
船長は夜明け前から船橋に立って、望遠鏡を眼から離さず監視している。
「無電はどうだ――?」
「幾ら呼んでも応答がありません」
「間に合わないかな」
船長の声は呻くようだった。
午前十時、太平丸は進路を南方に変えて逆航を始めた。P・F号の示した位置を過ぎても流血船に会わないのだ。――それに浦島丸の姿が見えないのも訝しい。
「この通り晴れているんだし、何方か一艘はみつかりそうなもんだな」
そう云っている内にも時間はずんずん経って午後三時になった。――もう少しすると霧の来る時間になる、そうなったら益々仕事が困難になる基だ。どうかして霧の来ない内にと、全速力で逆航を続ける……と、それから間もなく、西方海上にぽつりと一艘の船影を発見した。――伊藤青年は双眼鏡を覗いたまま、
「船長、三本帆檣ですね」
「――うん」
「今度こそ流血船ですぜ」
遂に発見した。近寄るに従って、灰色に塗った船体、三本帆檣、半ばから折れた煙突などが段々はっきりして来る。正に噂の流血船だ、怪奇の船だ。――約一時間にして、太平丸は百メートルまで接近して停まる。
「総員甲板へ集れ」
船長の命令一下、定位置員を除いて二十名の屈強な船員たちは上甲板へ集った。――その時既に、北方から猛烈な濃霧の押寄せて来るのが見られた。
「本船は昨夜、浦島丸から無電を接受した。それに依ると我が友船は、この附近に於て奇怪な事件のため遭難したかに思われる、――その原因は向うに見える船だ。諸君も噂は聞いているだろう、あれこそ流血船だ」
「え、――流血船」
「流血船!」
船員たちのあいだにざわざわと囁きが交わされた。
「俺は、是から彼の船へ乗込んで、怪奇の真相を探査しようと思う。我らの海上から迷蒙の噂を除こうと思う、併せて友船浦島丸の安否をも探るのだ。――然し是には多少の危険が伴うかも知れない。指命はしないから俺と一緒に行きたい者は前へ出て呉れ」
「船長!」「船長!」「船長」
言下に全員が進出た。――船長は頷いて、
「有難う、然し五名だけは船へ残って貰わなければならん、それは此船にも危険が無い訳ではない。寧ろ此方の方にこそ恐るべき怪異があると思われるからだ」
海坊主の事を云っているのだな、――伊藤青年はそう思いながら、自分は船長の蔭の方へ回っていた。
人選が定って、短艇が下された時、濃霧が海上を密閉した。伊藤青年はそう云っては船長に許されぬ事が分っていたので、この霧を幸い、無電室を助手に頼んで置いて、素早く短艇の中へもぐり込んだ。
濃霧は渦を巻いて流れる。牛乳の中へでも浸っているようで、すっかり見透しが利かない。流血船の形も、ぼんやりとして、幻のように薄く、影のように揺れている……
絶海の洋上に浮く怪奇の船、半年のあいだ海上の謎だった惨劇の船、それが今、眼前に在るのだ。
「あ! ひどい油だ」
舷側にいた一人が叫んだ。
「船長、一面に重油が浮かんでいます」
「重油だって?」
船長が身を乗出した、――なる程、四辺の海面は見渡す限り重油で蔽われている。伊藤次郎も隅の方でそれを見た。
「浦島丸だ、浦島丸は此処で沈没したのだ」
彼は見る見る蒼白めてそう呟やき、眤と瞑目した。
お互いに位置を失わぬため、太平丸は絶えず霧笛を鳴らしていた。――ぼう、ぼう……という低い笛の音は、濃い霧の彼方から訴えるように咽ぶように淋しく響いて来る。場合が場合だけにその音色は、まるで地獄の呼声のようにさえ思われるのだった。
短艇は流血船の周囲をひと廻りした。そして右舷舷側に、半ば壊れた梯子があるのをみつけて艇を繋いだ。
「先任、君は艇に残れ、何か怪しい事があったら拳銃で合図するんだ」
「は、――」
「油断するなよ」
そう云って一人を短艇へ残し、船長は真先に梯子を登って行った。――甲板へ一歩踏出したとたんに、人々は思わず息詰るような光景を見た。甲板は眼の届く限り、ぬらぬらと生々しい鮮血にまみれている。死骸を引摺ったかと思われるところや、池のような血溜りさえ見られる。そして……胸の悪くなるような血の匂いがむっと鼻を衝くのだ。
「是はひどい――」
誰かが思わず叫んだ。然し他の者は唇の色を蒼くしたまま、石のように固く立竦んでいた。――船長は声を励まして、
「みんな拳銃を出せ、安全錠を外して、俺が射てと云ったら遠慮なくぶっ放せ、――是から船内を探査する」
云われるままに、皆は夫々拳銃を取出し、いつでも射てるように確りと右手に握った。船長は血溜りを避けつつ片手に懐中電灯、片手に拳銃を持って船内へ下りて行く、――矢張り血だ。歩廊も、壁も、天井までも生々しい血痕で埋まっている。どんな奇想天外の空想も、それだけの血を流す惨劇は考える事が出来まい。ネブカドネットの大虐殺でさえ、恐らくこの惨状には及ばぬだろう……遉に海の猛者たちも、この凄絶な光景には眼を外向けた。
流血船、流血船、――正に是こそ流血の船と呼ぶ以外に呼名はない。
船長は先に立って、中甲板から下甲板、船底に至るまで隈なく調べ廻った。何処にも人の姿はない、死体の影も無い。到る処に壊れた船具や、木材の破片が散らばっているだけである。――荷物と思われる物さえ無いのだ。全くの無人船、ただ生々しい血潮だけが、恐るべき事件の跡を物語っている。
船底から中甲板まで戻って来た時だ。
「船長、銃声です!」と伊藤青年がとび出した。
「や、伊藤、君は一緒に来たのか」
「そんな事より、そら、――」
タン! タン 左舷の外に鋭い拳銃の音が聞えた。
「短艇で射っているんです」
「――来いッ」
何か起ったと思うより早く、船長は脱兎の如く上甲板へ駈上っていた。――更に梯子を下りると、短艇の中に残された一人が、
「船長、早く来て下さい」
「どうしたんだ、何かあったのか」
「いま本船で銃声と悲鳴が聞えました」
云われて恟としながら見やった、――霧笛がいつか絶えている。
「船長、直ぐ帰りましょう」
伊藤次郎が叫んだ。船長はじめ一同は、追われるように短艇へとび込んだ。――浦島丸の運命が、ありありと伊藤の頭に浮んで来た。何かあったのだ、川本が無電をかけて寄来した時と同じように、自分たちが流血船へ行っている後で、何か怪事が持上ったのだ。怪事……そうだ、海坊主の――。
「ぎゃあ――ッ」霧の彼方から、再び凄じい悲鳴が聞えて来た。船長は身を乗出しながら、
「早く、早くしろ、もっと早く」と喚き続けた。
短艇が太平丸の舷側へ着くなり、伊藤次郎は船長より先に飛移っていた。見よ、――其処には残留した船員たちの死体が転げている、あたり一面の鮮血だ。
「あッ 殺られた」
人々は恐怖の叫びをあげながら、思わず後へたじたじとなった。
「みんな四辺に注意しろ、怪しい者が見えたら構わずぶっ放すんだ」
船長は喚きながら死体の側へ跼んだ。
なんという無慙な殺し方であろう、みんな頭蓋骨を一撃で粉砕されている。震える手で次々と調べて行くうち一人だけ微かに息のある者がいた。そして船長が急いで抱き起すと、――彼は恐怖で剥出された眼を海の方へ向けながら、
「海……海から――来た、彼奴が……」
もつれる舌で、ようやくそこ迄云ったが、そのままがくりと息絶えて了った。
伊藤次郎はこのあいだに無電室へ駈けつけたが、哀れや其処でも助手が、……恐らく川本順吉もそうであったろうと思われるように、無電機にのめりかかったまま、頭を砕かれて絶命していた。
「海坊主だ、海坊主だ」
伊藤次郎は憑かれたように、慄然としながら外へ跳出した。
奇怪、奇怪、怪しい流血船と、船を襲う殺人怪魔、眼路の限り波また波の洋上に行われた、この亡霊の如き事件の謎は、果してどう解くべきであろうか? ――伊藤次郎は茫然として戻って来た。と其時、
「見ろ、海坊主がいる」という叫びが聞えた。はっとして振向いたとたんに、――本船の左舷殆ど十メートルほどの波間に、巨きな、凡そ十呎もあるかと思われる灰色の怪物が浮上っていた。
「海坊主!」と見るなり、伊藤青年は拳銃を取直して、たんたんたん 続けさまに三発狙撃した。同時に、弾丸が当ったか否か、件の怪物はずぶりと波間へ沈んだのである。
「やったぞ」
「海坊主を仕止めたぞ」
船員たちは歓声をあげながら、舷側に殺到して海面を眺めた、――その時、不意に濃霧が切れて、斜陽を決びた[#「決びた」はママ]流血船の姿が判きりと見えた。
――今の弾丸は当らなかった。だが今度浮いて来たら、と伊藤次郎は眤と海面を見戍っていたが、ふとその眼を流血船へ移したとたんに、
「――おや?」と不審そうな声をあげた。
急に伊藤次郎の眼色が変って来た。何かを発見したのだ。何かを! 見よ、彼の眉がきりきりと痙攣った。そして固く引結んだ唇に活々とした微笑が彫まれて来た。
「そうか、そうか、分ったぞ畜生!」
そう叫ぶと、伊藤青年は船長の側へ走せつけて、
「船長、もう一度流血船へ戻って下さい」
「なに? どうするって」
「直ぐ流血船へ踏込むんです、謎は解けました。憎むべき殺人鬼、海坊主の仮面をひん剥いてみせます、流血船のトリックを発いてやるんです。急いで下さい!」
「本当か、大丈夫か」
「瓦斯弾を用意して、早く、直ぐです」
船長は伊藤の手腕を信じていた。――時を移さず瓦斯弾を積込み、決死の同志十名と共に、短艇は波を蹴って流血船へ向った。
同じ梯子から猿のように、甲板へ上るとそのまま、伊藤次郎は先へ立って、ずんずん船底まで下りて行った。其処は塗料の腐る匂いで息が詰りそうである――然し伊藤次郎は、懐中電灯を差しつけながら、散らばっている船具や板片を掻退け蹴飛ばし、塵も見逃すまじと船底の鉄板を検べ廻った。
「どうするんだ」
船長は不服そうに、「此処は船底だぞ、その鉄板のもう一重下は海だぞ」「そうでしょうか……」と落着いた声で答えた時、伊藤青年は思わず占めた! と叫び、
「瓦斯弾の用意」と振返った、「僕が今此処を明けるから構わず中へ瓦斯弾を叩き込んで呉れ」
「鼠でも追出そうと云うのか」
「そう、巨きな鼠が出て来ますぜ、――そらッ」
叫びながら伊藤次郎が、うん――と鉄板の一部を持上げる。刹那! 待構えていた連中が手に手に瓦斯弾を持って、その穴の中へ叩込んだ。――ばあん、ばあん、ばあん 瓦斯弾の破裂する音が、大きく聞えた。
「みんな射撃の用意!」
伊藤青年が身を退けて叫ぶ。
「いま出て来るぞ」と、言い終らぬ間に、船底から大きく、
「助ケテ下サイ、手向イシマセン」
「命ダケハ、助ケテ下サイ」という英語の悲鳴が聞えて来た。呆気に取られて暫くは口も利けなかった船長は、急に穴の入口へ近づくと、
「出て来い、武器を捨てて出て来い、少しでも反抗すると射殺するぞ、早くしろ」
と喚きたてた。――その声に応ずる如く、苦しそうに咳をしながら、次々と十六名の外国人が現われて来た。
謎は解かれた。
彼等は×××国の密令を帯び、日本在住の間諜と密接な連絡をとるため、アラスカの某地から、日本の某海岸まで海底電線を敷設していたのである。――流血船という怪奇を装ったのは、他の船を近寄せぬためで、船底の下に、もう一つの敷設船が取付けてあった。また海坊主というのは敷設用の特殊な潜水服(軽金属で出来ている)であって、この潜水服は酸素管を持った自働式の物であり、両手は鋭い鋼鉄の鉤になっている。多くの殺人を犯したのはこの鋼鉄の鉤であったのだ。そして浦島丸は、流血船の秘密を探知したために、全員虐殺のうえ沈められたという事である。
「すばらしい手柄だ」
帰航の途につきながら、船長は伊藤青年の手を固く固く握緊めて云った。
「だが夫にしても、――どうして彼の船底に隠れていた事が分ったのかね」
「偶然ですね、全くのところ偶然です」
伊藤青年は会心の笑をうかべながら、
「あの海坊主を射った時、ちょっと霧が切れて、流血船が判きり見えたでしょう? 船長、あの時僕は、流血船の吃水がいやに深いのに気がついたんです。荷物も無し人もいないのに、吃水はまるで貨物満載の船ほど深くなっているんです、――それが発見の緒口でした。船内に何もなく、然も船があんなに深く入っているとすれば、船底の下に重量が懸っているに違いないと……」
「偉い、遉に無電技師だけあって観察が細いぞ、遉の俺もそこ迄は気がつかなかった。――今度は全く君に手柄を樹てられたよ」
船長は頼もしそうに伊藤青年を見守った。
「ただ残念なのは……浦島丸の危急に間に合わなかった事です。――親友の川本を死なした事です……」
伊藤次郎の眼にふっと涙が浮んだ。――帰航の海も、すばらしい凪であった。