『嫁取り二代記』

嫁取り二代記 山本周五郎

あらすじ

山本周五郎の『嫁取り二代記』は、江戸時代の武家社会を舞台に、二代にわたる嫁取りとその家族の絆、そして人間の愛と誤解を描いた物語です。

物語は、牧屋勘兵衛とその甥、直次郎の人生を中心に展開します。勘兵衛は、備中福山の城主阿部伊勢守の国家老であり、盆栽に情熱を注ぐ頑固一徹な男です。一方、直次郎は色白の美男で、武芸も学問も優れていますが、その性質は軽薄で、勘兵衛を度々困らせます。

物語の始まりは、直次郎が勘兵衛に、ある女性を屋敷に引き取るよう頼む場面から。この女性は、お笛という名の美しいが身の上に問題を抱えた芸者です。直次郎はお笛を救いたいと願い、勘兵衛は渋々ながらもこれを許します。お笛が屋敷に引き取られた後、彼女の真摯な性格と勘兵衛への尊敬が徐々に明らかになり、勘兵衛もまたお笛を家族の一員として受け入れるようになります。

しかし、お笛の過去が彼女の幸せを脅かす形で現れます。伝吉という男が現れ、お笛が自分の情人であると主張し、彼女を屋敷から連れ去ろうとします。この危機的状況の中で、お笛は自らの潔白を証明するため、勘兵衛と伝吉の前で大胆な行動に出ます。

彼女は自分の身体に腫物があるという嘘をつき、それが理由で直次郎との関係が純潔であることを示そうとします。しかし、実際には彼女の身体には何の傷もなく、この行動はお笛の純潔と勇気を証明するものとなります。

勘兵衛はお笛の行動に感銘を受け、彼女の潔白を信じるようになります。伝吉は屋敷から追い出され、お笛と直次郎の結婚が決定します。物語は、勘兵衛が直次郎に宛てた手紙で締めくくられます。

この手紙の中で、勘兵衛は自身の妻もかつては芸者であったことを明かし、直次郎とお笛の結婚を心から祝福します。また、勘兵衛は直次郎に対し、お笛を大切にするよう促します。

『嫁取り二代記』は、愛と誤解、そして人と人との絆を描いた感動的な物語です。山本周五郎は、登場人物たちの心情を繊細に描き出し、読者に深い感銘を与えます。この物語は、人生の苦難を乗り越え、真実の愛を見出すことの大切さを伝えています。

書籍

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本文

「伯父上お早うござる」
自慢の盆栽の手入れをしていた牧屋勘兵衛まきやかんべえはそう声をかけられて振返った。
「良いお日和でございますな」
調子のいい愛想笑いをしながら、おい直次郎なおじろうがこっちへやってくる。勘兵衛は眼鏡越しにじろりとにらんで、
「――えへん」
おどし空咳からぜきをした。機嫌執りをしてもその手は喰わぬと云う意味である、ところが相手はいっこう感じない様子で、
「やあ驚いた、あの枝はもう咲きますな、さすがにお手入れが良いだけあって、この臘梅ろうばいはいつも半月早い、――庭木では誰にもひけを取らぬと云う瀬沼せぬま老が、この臘梅には音をあげていましたよ。いや実に見事だ」
「えへん、えへん」
瀬沼庄右衛門せぬましょうえもんは藩の徒士かち目付で、勘兵衛とは盆栽の自慢敵である、――勘兵衛危くつり込まれそうになって慌てて空咳にまぎらした。直次郎は方面を変える。
「おやおや、しばらく拝見せぬ内にだいぶ鉢が殖えましたな、あれは何でござるか」
「――――」
「葉の色と云い枝振りと云い、実に風雅なものだが、はてな、――芙蓉ふようかな」
勘兵衛は、ついに堪らなくなって、
「こいつ、でたらめをっ」
と振返った、「正月の十日に芙蓉が葉を出すか、考えてみい」
「すると葉牡丹はぼたんですか」
「貴様……この、――」
と眼鏡をつかみとったが、恐ろしく太い鼻息を洩らすと、吐出すように呶鳴どなった。
石斛せっこくじゃ、石斛というんじゃ、よく見ろこれを、――芙蓉や葉牡丹などとは茎も葉もまるで違うわ、違い過ぎるわ馬鹿馬鹿しい」
「こっちは何ですか」
けろりとしている。
「――知らん」
「はて何だろう、――こうっと、ああ分った、これは御自慢の真柏まがしわです、今度は当りましたろう」
「それがどうした」
「してみると拙者にも植木の一つや二つは、満更分らぬ事もないと云う訳ですな、はっはっは、――時に、真柏で思い出しましたが、瀬沼老ひどく口惜しがっていましたよ伯父上」
「――何を?……」
「残念だが牧屋にはかなわぬ、わしも真柏では苦心をしたが、とても牧屋ほど立派な花は咲かされぬと」
「馬鹿野郎!」
勘兵衛は喚いた、「誰がどう苦心をしようと真柏に花が咲くか」
「そ、それは不思議……」
「貴様の方がよっぽど不思議だ。これ、――こっちへ向いてみろ!」
勘兵衛は眼鏡をかけて、甥の顔を穴の明くほどみつめていたが、
「貴様、また何か強請ねだるつもりだな」
と云うのをすかさず、
「伯父上、助けてやってください」
とすばらしい気合で切込んだ、「実に気の毒な身上の者なんです、生れ落ちるとから両親の顔も知らず、陋巷ろうこうちりにまみれて世にありとあらゆる辛酸を嘗め、今また泥沼の底へ沈もうとしているのです、ぜひ」
「駄目だ駄目だ、ならんぞ」
勘兵衛は大声にさえぎった、「どうも先刻から変にごまを磨ると思ったら果してこれだ。ならん! もう貴様にはだまされん、理由の如何いかんを問わずびた一文出さぬからそう思え」
「金子を頂こうとは申しません」
「――――?」
「屋敷へ引取って頂きたいのです」
勘兵衛は甥の顔を横目で見た。これまで度々この手で丸められているのだ、金は要らぬなどと云っても迂濶うかつに安心はできない。
「屋敷へ引取れ……と云って、その、――相手は何者なんじゃ」
「その穿鑿せんさくは後のこと、いまは何より伯父上のお許しが出るか出ぬかが大事なのです、もしここで突放してしまえば、その人物は泥沼の底へ墜ち込んで、あたら一生を地獄の苦患くげんに送らなければなりません。助けてやってください伯父上、人間一人を生かすも殺すも伯父上の方寸にあるのです、それも別に金が要るとか特別の世話をするとか云うのではなく、ただこの屋敷へ引取って、当分のうち面倒をみてくださればいいのです、決して御迷惑はかけませぬから」

「だが、――」
勘兵衛は気乗りせぬ調子で、「引取るとしても、どこへ住ませるんじゃ」
「私の離室はなれが明いております」
「あそこはわしの茶室に使っているではないか」
「なに、もう片付けさせました、お道具は数寄屋へ運んであります」
「そう云う奴だ」
勘兵衛舌打をして、「始めからわしを丸め込むものとめてかかりおる」
「御承知くださいますか」
「仕様がないじゃないか、いかんと云えばなんだかわしがその男を泥沼の底へ突落すことにでもなりそうな口振りじゃからの――えへん、だが引取る前に一度呼んでこい、わしがあってから……」
「もう来ております」
「――――」
「おふえどの、こちらへ」
振返って呼ぶと、中庭の生垣の蔭から一人の女が慎しくそこへ立現われた、――磨き込んだ小麦色の肌、切れ長のつぶらな眸子ひとみ、漆黒の余るような髪を武家風に結いあげた二十あまりの、眼覚めるように美しい女である。いや勘兵衛驚いた。
「な、直次郎!」
「お笛どの御挨拶をなさい」
直次郎は構わずに云った、「こちらがお話し申した伯父上です。お役目は福山藩十五万二千石の切盛をする国家老だが、お若い頃から江戸詰めで御苦労を遊ばしただけあって、酸いも甘いもずんと噛分かみわけておられる、この度もおもとを引取って快く世話をしようと仰せられるのだ、よくお礼を申上げるよう」
かたじけのう存じまする」
女は韻の深い声で、低頭しながら云った、「不束者ふつつかもののわたくし、お慈悲に甘えてお世話さまになりまする、どうぞよろしゅう……」
「う、うん」
勘兵衛まごついて脇を向いたが、
「直次郎、ちっと来い」
と云って築山の方へ去った。直次郎は女へにこりと微笑ほほえみ、心配するなと云う※(「目+旬」、第3水準1-88-80)めまぜをしながら伯父の後を追った。――勘兵衛は近寄ってくる甥の面前へ華鋏はなばさみを突出しながら、
「この野郎!」
と喚きたてた、「ならず者め、又してもわしをはめおったな、あれは何じゃ、女ではないかこの――」
「別に私は女でないとは申しませぬ」
「ないと云わんでも女でないと思わせるような風に云いこしらえたで――ええ面倒臭い、だいたい未だ妻帯もせぬ身上で、どこの何者とも知れぬ女を」
「いや承知しております」
直次郎は逃げ腰になりながら云った、「彼女は新町の小笛と云う芸者です」
「な、な、なに――芸者?」
「芸者は芸者ですが血統は武家の出で、どこへ出しても恥しからぬ」
「この野郎――っ」
いきなり勘兵衛が掴みかかった。直次郎はひらりとかわして、咲きはじめた老梅の向うへ廻り込んだ、勘兵衛は苛って追う。
「待ちおれ!」
「どうぞ、お願いです伯父上」
直次郎は素早く逃げながら、「可哀そうな身上の女なのです、屋敷へ置いても決して牧屋家の不為になるような事はありません、どうか面倒を見てやってください」
肥っている勘兵衛は顔をあかくいきませながら懸命に追いかける、しかし若い直次郎の足に及ぶ筈がない、築山を三遍ばかり追い廻すと、息苦しくなって眼がくらんで、ぺたりと芝生の上へ尻餅をついてしまった。
「あ、危い!」
直次郎は駈寄って、「お怪我はありませんか、どこか痛めはなさいませんか」
「う、うるさい」
ひやを持って参りましょうか」
「放せ、ひ、ひやなど、要るか」
勘兵衛は肩で息をつきながら、「これまで、これまでにも、散々と苦いめを見せおって、また今度は、芸妓を引取れ……福山十五万二千石の国老たるわしに、芸妓を引取れとは、貴様どこまで、どこまでわしの胆を冷やす気だ、この次はぜんたい何を持出してくるんじゃ」
「実はそれなんです」
「な、なに――?」
「拙者このたび、殿の御参覲さんきんに江戸表へ御供を仰付かりました。ついては一年の在番中お笛をお預けいたしますゆえ、お手許てもとにてとくと性質を御覧くだされ、拙者帰藩のうえ御得心が参りましたら妻にめとって頂きとう存じます」
「む――っ」
勘兵衛はいきなり眼鏡を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしりとった、そして両手で頭をひっ掴みながらそこへかがみこんでしまった。

牧屋勘兵衛は、備中福山の城主阿部伊勢守あべいせのかみの国家老で七百石、頑固一徹なところから家中の者に、
「牧屋の頑兵衛どの」
綽名あだなされているが、一面また実に分りの良いところがあって、ことに若い連中には好い人気を持っていた。
数年前、妻のおしんに先立たれ、また子がなかったので、江戸邸に留守居役を勤めている弟、牧屋伝兵衛まきやでんべえの二男直次郎を引取り、行く行くはこれに跡目を継がせようと云うので、ずっと手許で育ててきた。――ところでこの直次郎がひと通りの青年でなかった、色白の美男で武芸もでき、学問にも秀でているが、なにしろ眼から鼻へ抜けるような性質で、――十五万石をぐわんと圧えている勘兵衛が、直次郎のためにはいつも見事な背負い投げを喰わされる。
「今度こそはごまかされんぞ」
と思うがそのたびにいけなかった。
そして、――このところしばらく痛事いたごとがないと思っていたとたんに、又しても「お笛引取り」と云う大罠おおわなに引懸ったのである。しかも……芸妓あがりの女を、嫁に娶ってくれというのだ。
「――何と云う面の皮の厚い奴だ」
勘兵衛も今度ばかりは茫然となった。茫然となったがしかし、どこまでも「いかん」とは云わなかった、それには訳があるので――その訳は後に記すこととしよう。
直次郎は正月二十八日、主君伊勢守に従って江戸へ発足した。――出立する時、直次郎はたったひと言、
「伯父上、お預け申しましたぞ」
と云ったきりだった。勘兵衛は、
「よし預った、だが預った以上、万一不始末でも仕でかしたら、断りなしに斬って捨てるから承知しておれ」
と云った。
勘兵衛のつもりでは、どうせ若い直次郎のことだから、妓の甘言に迷わされて、当座の熱をあげているのだろう、ぐらいにしか思っていなかった。妓もまた直次郎が牧屋家の跡継ぎであるというところに眼をつけたので、あわよくば国家老七百石の奥に直ろうと云う魂胆に相違あるまい、――とすれば一年の江戸在番を幸い、そのあいだに充分前後の処置をする事ができると考えたのだった。
お笛は屋敷内の西隅にある直次郎の住居の、茶室造りになっている離室に起きししていた。――そこは前庭が四条流の風雅な泉石で、中庭の方の茶席とは別に、勘兵衛が時折自分一人の茶をたのしむ場所にしていたのである。
直次郎が発足して二三日たった、――ある日のこと、勘兵衛が盆栽いじりをしていると、離室の方からお笛が静かにやってきて、
「失礼ながらお手伝い仕ります」
と云った。見ると甲斐かい甲斐しく袖をからげ、水桶みずおけを携えている、――何をするかと思って黙っていると、盆栽の鉢を一つ一つ丁寧に洗いはじめた。
「そんな事をやったことがあるのか」
「いいえ――」
慎しく頭を振りながら微笑する、とても芸妓などしていた者とは思えぬあどけなさだ。勘兵衛はむっつりとしたまま、
「したくもない事を、機嫌執りのつもりでするなら止めにせい、わしはおべんちゃらが大嫌いだぞ」
「あのう、ここに真柏の植わっております鉢は、白磁とか申す品でござりますか」
勘兵衛の高調子には構わず、お笛は静かに振仰いでいた。――勘兵衛は依然むっつりと外向きながら、
「白磁とか青磁とか、そう大雑把おおざっぱに云われては敵わん、それは白磁の内でも『饒州じょうしゅうの白』と云って唐来の珍物じゃ」
「饒州の白……有難う存じました」
「こっちのを見い、これは古備前物で了心の作と伝えられるが、比べて見ると違いが分るであろう、――どうじゃ」
「拝見仕りまする」
お笛は勘兵衛の手からかえでの鉢を受取って、しげしげと眺めていたが、
「やはり饒州の方が、同じ白でも色に深く澄んだところがござりまする」
「それを『白の秘色』と云う」
「肌目の密な、手触りにじっくりと厚味のあるところも、やはり饒州の方が優れているように思われまする」
白魚を伸べたような指で、飽かず鉢の肌をでている様は、どうやら軽薄な機嫌執りでもないらしい、勘兵衛はいつかすっかり誘いこまれていた。
「こっちへ参れ、薩摩さつま青瓷せいじを見せる」
「どうぞお願いいたしまする」
それからおよそ一刻あまり、勘兵衛は熱心に庭中お笛をれ廻っていた。

「どうもおれは人が好い」
その夜勘兵衛は後悔していた。
彼女あいつめ焼物が分りそうな振りをするものだから、つい迂濶うかとひっかかった。こんな事ではとても性根を掴むことはできん――今度からはごまかされぬ要慎をしてかかるぞ」
ひそかに固い決心をした。
その明くる日、下城した勘兵衛が庭へ下りてゆくと、お笛が小庭の方からやってきて、
「お帰り遊ばしませ、お疲れでござりましょう」
「――うん」
「お恥かしゅうござりますが粗茶をれました、どうぞお立寄りくださいませ」
はじらいを含んで微笑しながら云う、勘兵衛は不機嫌に唇を結んだまま黙ってお笛の後からいていった。
部屋の内は塵ひとつ留めず、きちんと片付いた床に、古風な錆着さびつきの鉄鉢に鮮かな「つるもどき」の紅と黄がはぜていた、――心憎い手並だ。
「――お口汚しでございます」
茶を淹れて出す、――見ると盆の上に香の物が添えてある。
「これは香の物だな」
「はい……」
勘兵衛は苦々しげに、
「町家は知らぬこと、武家では茶うけに香の物などと云う事はないぞ、他人が見たら牧屋の恥になる、そのくらいの所存はありそうなものではないか」
「心付かぬ事をいたしました、今後は注意仕りますゆえ、どうぞ御免くださりませ」
「折角じゃ、今日は引かずともよい」
そう云いながらはしを執る、一切口へ入れて勘兵衛が驚いた、恐ろしくうまいのである、妻が生きていた頃にも、かつて一度――これは旨いと思ったことのない香の物である、ことにこの数年はまるで漬物などに興味も持たなかったが、その一切は全く舌を驚かした。
「これはそちが漬けたか」
「はい、ほんの真似事に……」
勘兵衛は茶を代えながら、無理に気むずかしく空咳をして、
「話は違うが、いったいその方は直次郎をどう考えておるのか」
「――と仰せられますと?」
「直次郎はわしにその方を娶ってくれと申した」
お笛の頬にさっと紅がさした。
「察してはおろうが、武家と云うものは諸事格式の厳しいものだ。近来は商家から嫁を迎えるものもないではないが、それさえきわめてまれなこと、――ましてその方のように、一度芸妓勤めなどした体では、正式の婚姻などなかなかむずかしい話だ。しかし……それとても神かけてできぬと云う訳ではない、ないけれども――直次郎はわしの跡目を継ぐ体、万一血統でも濁るような事があると先祖に対して申訳けがない」
「血が濁ると仰せられまするは?」
「稼業がらその方の体が、今まで潔白であろうとは思われぬ、と申すのだ」
「――潔白でござります」
お笛は静かに眼をあげた、「十四で座敷勤めに出ましてから六年のあいだ、のっぴきさせぬ危い折も両三度はござりました、――けれど、わたくし体だけは清浄に護り通して参りました、どうぞお信じくださいませ」
「だが、こればかりは証拠がないでの」
お笛はきゅっと唇をひき緊めたが、
「失礼ながら」
ひざへ手を置いて云った、「貴方さまには、お上を毒害してお家を横領しようと云う御野心がござりましょう」
「な、なにを云う」
突然の事に勘兵衛は仰天して、「冗談も事によるぞ、この牧屋勘兵衛に逆心ありとは、ど、どこを指して申すのだ」
「では、――逆心なしと申す御証拠がござりましょうか?」
お笛は悪びれぬ調子で、「女の操とても同じこと、この通り潔白と云ってお眼にかける証拠はござりませぬ、けれど卑しい勤めをしていたからと云うだけで、そのお疑いは悲しゅうござりまする」
「もうよいもうよい」
勘兵衛は驚いて、「顔に似合わぬ理窟屋だなその方は、いずれにしても真偽は顕われずにおらぬものじゃ、それまでその方の言葉を信じておるとしよう、――や、邪魔した」
茶椀を置いて起つ、――気がついてみると、いつか小鉢の中の香の物をすっかり平げていた。勘兵衛はぶっきら棒に、
「この次も茶うけは香の物を頼む」
と云い捨てて照れ臭そうに立去った。
向うの気持を試みるつもりが逆に一本突込まれて、見事にやられた形である。それにしてもあの場合一寸も隙かさず、即妙に応待した智恵は芸妓育ちの女などに似合わぬ鋭さ、――生れながらに目はしのきく性質か、あるいは世間ずれのした悪智恵か、「まずそれを突止めてやろう」
勘兵衛は何やらうなずいた。

雨の日のひるさがりだった。
お笛の部屋から爪弾きの三味の音に合せて、一中節の渋い唄声が嫋々じょうじょうと聞えていた、――珍しや、寛いだ勘兵衛がお笛に唄わせながら、さっきから独りさかずきをあげているのである。
勘兵衛に強いられて二三杯めたお笛は、眼蓋まぶたのあたりをほんのり染め、どことなく体つきになまめかしさが匂っていた。
「まあ一杯あいをせい」
「もう頂けませぬ」
お笛は三味線を置いて、「こんなに頬が熱くなりましたもの、お酌をさせて頂きまする」
「そう云わずと呑め、わしも久方振りで快く酔ってきた、もう唄は止めにしてこっちへ参れ」
「――はい」
素直に膝を寄せてくる、勘兵衛は酔眼を向けながら、
「芸妓の頃は小笛とか――云ったの」
「はい本名のお笛をそのまま」
「武家風に堅く粧ってこのくらい美しいのだから、その頃はさぞあでやかであったろう。どれ……もっとこっちを向いてみい」
羞いながら、すこしも悪びれずに笑顔を向けるお笛。勘兵衛はつと手を伸ばすと、女のしなやかな手首を握って、
「遠慮はいらぬ、ずっと寄れ」
そう云いながら引寄せた。拒むかと思ったが、相手はそのまま――嬉しそうにさえしながら膝をすり寄せる、むっと、鼻を撫でる温い肌の香。とたんに勘兵衛が、
「お笛!」
と鋭く云った、「人眼のない離室で酒をかこみ、例え直次郎の伯父ではあれ男のわしに、こう手を執られて拒まぬのみか、嬉しそうに体を寄せてくるその方の様子、――それが今まで潔白に身を持してきた女の態度か」
ぎくりとしたお笛が、慌てて引こうとする手首を、勘兵衛は力任せに突放して、
「二三杯の酒に本性を出しおって、もう言訳は通るまいぞ、どうだ!」
「――――」
お笛はそこへ両手を突き、面を伏せたまましばらくは身動きもしなかったが、やがて静かに顔をあげて、
「恐入りました――」
と息詰るような声で云った、「始めからおはかり遊ばしたものなれば、今更何を申上げてもお取上げはなさりますまい、――けれど、ひと言だけ申上げまする」
「言訳なら聞くまでもないぞ」
「――ただお聞捨てくださりませ」
お笛は面を伏せて続けた、「直次郎さまからお聞及びかと存じまするが、わたくしは生れ落ちるとから父母の顔を知らず、元……屋敷に仕えていた松造まつぞうと申す男のもとで育てられました。父は越前家で馬廻りを勤めていましたとか、仔細しさいのほどは存じませぬが殿の御勘気をこうむって切腹、母も共に自害いたしたと――松造の話に聞くばかり、その後事情あって卑しい世界に身を堕しましても、一日半刻はんときとして亡き父母を思わぬことはござりませんでした」
お笛はつきあげてくるものを抑えるように、しばらく声を呑んでいたが、
「武士の娘だ、父の名を汚してはならぬ、――どんな必至の場合にもこれだけは忘れず、そのために数えきれぬ苦しさ辛さを味いながら、操だけは汚さずに参りました。――こちらへ引取って頂きました日、お庭で貴方さまにお眼にかかりますると、……どうしてか知らず、不意に貴方さまが父親のように思われ、今日まで良く清浄に身を守ってきたな――褒めてやるぞ……と云われるような気がいたしまして、思わず嬉し涙にむせんだのでござります」
「…………」
「御迷惑とは存じながら、盆栽のお手入れのお邪魔をいたしましたのも粗茶にお出でを願って手作りのお笑草を差上げましたのも、不躾ぶしつけながら――ひそかに父と存じあげていたしましたこと、できることならお膝にすがって、たった一度でも父上さまと……甘えてみとうござりました。それがついたしなみを忘れさせ、いまのお戯れをそうと知る暇もなく、真の父に手を執られたように覚えて、前後も忘れた嬉しさ、思わず、思わず……」
それまで云うとお笛は、ついに堪らずそこへふっと泣伏してしまった。――勘兵衛はいつか坐り直していたが、くすんと鼻を鳴らすと、急いで妙な空咳をしながら、
「泣くな、泣くやつがあるか」
と執成すように云った、「酒興の冗談を本気にされては困る、もういいから泣くのは止めにせい――そして、面倒でなかったら又あの漬物を出してくれ、さかなの口を直してもう一盞いっさん馳走になろう、すっかりめたぞ」
「は、はい――」
咽びながら手をつくお笛の、ふるえる肩先を見やった勘兵衛の胸に、覚えて以来かつて感じたことのない、ふんわりと甘く温い愛情が強く強くふくれあがってきた。
――またしてもわしの負けじゃ。
勘兵衛は独り明るくつぶやいた。

「――あれっ」
お笛は愕然がくぜんと振向いた。――有明行燈ありあけの灯を細くしていま寝衣に着換えようとしていた時、横手の小窓が外から引外されて、一人の男がぬっと跳込んできたのだ。
「誰、誰ですっ」
「騒ぐな、静かにしろ」
男は端折っていた裾を下ろし、顔の手拭を脱ると、
「おれだ、驚いたか」
と云いながらどかっと坐った。
「ま! 伝吉でんきちさん」
「それでも忘れずにいてくれたかい、へっへ……、おらあずいぶん探したぜ」
色の浅黒い、眉の上にきずのある、眼つきの卑しい男だ、福山城下で、「疵の伝吉」と云えば無頼仲間わるなかまでも通り者である。お笛が芸者に出た時分からけつ廻しつ云い寄っていたのだ。
「おめえの為にゃあ三年というあいだ、爪をがねえばかりにして貢いでいたぜ、仲間にゃあわらわれる世間は狭くする、あげくの果てにおめえはどろんときた。へ! 全くいい面の皮、鯉の滝登りだ」
男はぐいと膝を立てて、「だがの小笛、仲間の手前にもおらあ黙ってすっ込んじゃいられねえのだ、こうして探し出したからには、例え三日でも女房にしなけりゃ承知ができねえ、おめえだってこんな堅っ苦しい武家屋敷で、肩身の狭い妾暮しをするよりゃ、無頼でもれっきとした女房になるのが結句仕合せと云うものだ、まあ――そうにらまねえでこっちへ」
「お帰り※(感嘆符二つ、1-8-75)
お笛はすっと身を退いて叫んだ。
「身を剥ごうと爪を剥ごうと貢いだのはそっちの勝手、わたしの知った事ではありませぬ、このまま帰ればともかく、――さもないと人を呼びますよ」
「面白え呼んでくんな」
伝吉はにやりと冷笑わらった、「おいらが生命いのちがけでれた女を、横取りした奴の面が見てえ、呼びねえな、ええ呼んでみろ。――この女はあっし情人いろでござんすと、そいつの前で立派に名乗ってやらあ、さあ呼ばねえか」
喚きながら、手を伸ばして抱きすくめようとする、お笛は危くのがれて、
「あ、あれ!」
と起った。とたんに、
「見苦しいぞ」
と叫びながら、意外にも縁先の雨戸を突外して、左手に大剣を提げた勘兵衛が現われた。――お笛はびっくり、とっさの言葉もなく立ちすくむ、
「貴様は何者だ」
勘兵衛はずいと踏込んだ。伝吉は太々しく坐り直して、
「私はその小笛の亭主でございます」
「なに亭主――?」
「亭主と申上げて悪ければ、まあ情人とでも申しましょうか、もう三年このかた夫婦同様の仲でございます、へい」
「嘘、嘘です!」
お笛は必死にさえぎった、「これはわたくしが勤めに出ておりました頃、いやがるものを跟け廻していただけの人、何の関係もございませぬ」
「冗談じゃねえ、今更そんな事を云ったって通るものか。現に旦那――こうして寝所へ忍んでくるのも今夜が初めてじゃありやせん、実はこの小笛の手引で三日にあげず逢いにきているのでございますよ」
「まあ、よくもそんな空々しい」
「そういうおめえの方がいけっ太えや。なんだろう――そろそろ金のねえおいらに厭気がさしたので、こっちへ寝返りを打とうと」
「黙れ、黙れ!」
勘兵衛は大声に遮って云った。
「お笛、わしはその方を信じている、だが、――この場合はそれだけでは済まぬぞ、その方はやがて直次郎の妻にもなるべき躰じゃ。相手は例え落破戸ならずものにもせよ、不義があったと申すからには、武士の妻としてただないとだけでは通らぬ……よく落着いて所存を決めい」
「――はい」
お笛はじっと勘兵衛の眼を見上げた。
勘兵衛の心は烈しく痛んでいた、あの酒の日からこのかた、勘兵衛は実の娘を一人もうけたように思われて、老いの身の朝夕、お笛を見るのが何よりの娯しみになっていたのだ、――しかし、嘘にもせよかかる無頼の徒に不義ありと云われて、虚実が判然せぬとすれば、一藩の国老を勤める家の嫁に娶る事はできない。
「どうだ!」
と面に強くは云ったが、勘兵衛の心はいじらしさで燃えるようだった。
「申上げまする」
お笛は静かに答えた、「これはどのような事があっても他言はすまいと、かねてから誓っていたことでござりまするけれど、女が一生に一度の大事、恥を忍んで申上げまする」
伝吉は何を云うかと息を呑んだ。

「わたくしが不義をせぬ証拠は、直次郎さまとお馴れ申して半年近く夫婦の約束までしながら未だ一度もねやを共にした事がございませぬ――それは」
と言葉を切った。勘兵衛も伝吉も聞き遁さじと耳を傾けている。
「それは、わたくしの右の胸の、ちょうど乳房の下のところに腫物がござります、子供の頃から医者も薬も届く限りは手を尽しましたが、どのようにしても治らず、肌着が荒く触れても刺すように痛みまするし、自分にも耐えられぬようなひどい臭みを放ちまする、――そのため今日まで直次郎さまともひとつ閨にしたことはござりませんでした、ましてこのような人と……」
「へっへへへへ何かと思ったら」
伝吉はせせら笑って、
「何かと思ったら腫物の事かい、そんな事なら改めて聞くまでもねえ、生命までもと惚れ合った仲で、腫物の臭みぐれえが何だ。旦那え――こいつあ大した内証事のように云ってますが、私あ今日までその腫物の薬塗りから、当て綿、巻き木綿の世話までしてきやしたよ」
「嘘です、腫物のある事さえ知る筈のないおまえに、薬の手当ができる訳はありません」
「だって現に世話を焼かしたじゃねえか」
「いいえ嘘です、おまえは愚か直次郎さまにも見せたことのない秘密です、何と云っても嘘に違いありません」
「強情だな、あの臭いうみの始末までさせておいて、今になって嘘はひどかろうぜ、おらにあ着物の上からでも見えるくれえだ」
お笛はきっと勘兵衛の方へ振返って、
「伯父上さま、この男のいまの言葉――確とお耳にお止めくださりましたか」
「それでどういたすのだ」
「――御免くださりませ」
会釈をしたと思うと、右手を袖から内へ入れる、意外にもいきなりするりと片肌を脱いだ。――血のような紅絹裏をぬいて、雪かと紛う柔肌が現われた。喉元のどもとから胸へ流れる、嬌めかしい丸みの極まるところに、梅のつぼみのような乳首をつけてふっくりと固く盛上る乳房――どこに一点の塵もなく、ぬめのように艶々つやつやとした皮膚は、有明行燈の灯を受けてまばゆいばかりに輝いた。
「御覧くださいませ、女が生涯の良人おっとささげる大事な体、蚊にも刺させず大切にしてきました、腫物は愚か針で突いたほどの傷もない筈、――伯父上さま、御得心くださいましたか」
「見届けた、この痴者――」
勘兵衛が叫んで大剣を掴むのと、伝吉がいなごのように跳上るのと同時だった。
「待てっ」
喚いて勘兵衛が足を出す、伝吉は、だ! とつまずいたが、顛倒てんとうした余勢で自分から庭へ転げ落ちた、勘兵衛は縁先へ出て、
「生命冥加みょうがな奴め、明日とも云わず今宵の内に立退きおれ、さもないと眼につき次第斬捨てるぞ、ここな白痴者たわけものっ」
と闇に向って元気に呶鳴りたてた。――いや驚いたのなんの、さすが無頼の伝吉も胆を消して、飛礫つぶてのように屋敷外へ逃去ってしまった。
「あっぱれじゃ、よく機転が利いたぞ」
勘兵衛は座へ戻ると大機嫌で、「どうなる事かとはらはらしていたが、あそこまで引込んでゆく手際は立派な判官じゃ、じつのところわしまでがはまりそうになったわい」
「お恥しゅうござります」
衣紋をつくろったお笛は、羞いに耳まで染めながらそこへ手を突いて、
「女だてらに肌を顕わし、何とも申訳ござりませぬ、どうぞお忘れ遊ばして――」
「いいとも、外の時ならとにかく、女の操を証す必至の場合、武士なれば腹をけるところじゃ、――あいつめ、びっくりして煙のように消えおったわ、もう再び邪魔にはこまい、手柄じゃ手柄じゃ」
勘兵衛は眼を細くして褒めたてる。お笛はますます身を縮めながら、わきあがってくる羞恥しゅうちを持て余していた。

「お笛を娶る事承知いたし候」
と勘兵衛は江戸の甥に手紙を書いた、「そこもと帰藩までには親許も定め置くく、挙式は来春二月と予定仕り候。お笛こと、そこもとはただ若気の熱にて引取りしならんが、国老職を継ぐ可きそこもとの妻として二なき女たること、そこもとより拙者の方よく見抜きおり候――」
鑑識のあるところを示しておかぬと圧しが利かぬ。
「また、そこもとはおのれ独り粋な妻を持つなりと己惚うぬぼれているやも知れねど、そは馬鹿の独り良がりに候。今こそ打明け候、(驚くなよ)拙者の亡き妻、即ちそこもとの伯母お信こそ、拙者若くして江戸詰の折、執心にて娶りたる柳橋の名妓に候。えへん――に御座候」
勘兵衛はどうだと云わんばかりに、つるりと額を撫でて結びにかかった。
「されど伯父、甥二代続いての芸妓妻、もうこの辺で打止める可く、そこもとの子には決して決して罷り成るまじく候……」
明けてゆく庭前で、うぐいすきはじめた。