『日本婦道記 横笛』

あらすじ
宇都宮藩の藩儒・大橋順蔵(訥庵)は、幕末の激動の中で勤王倒幕の志士たちと密かに連携し、藩内外の動きを見守っていた。彼のもとには、岡田晋吾や松本喜太郎といった同志が集まり、幕府転覆の策を巡らせていた。
そんな緊迫した情勢の中、順蔵の妻・巻子は、まるで世の中の騒ぎを他人事のように、日々横笛の稽古に励んでいた。順蔵は、その様子にどこか違和感を抱きながらも、深く気に留めることはなかった。彼にとって巻子は、育ちの良い穏やかな女性であり、政治的なことには無関心な存在だったのだ。
しかし、ある日、順蔵は藩邸に呼び出され、突然幕府の役人に捕縛されてしまう。その原因は、彼が密かに一橋慶喜に宛てた書簡が幕府に露見したことだった。投獄された順蔵は、すぐにあることに気づく。彼が留守にした家には、同志たちの名が記された書類や機密文書がそのまま残されていたのだ。もしそれが幕府の手に渡れば、多くの仲間たちが危険にさらされる。
絶望の中、彼はその後の知らせを待つしかなかった。そんな折、弟子の林徳蔵が密かに牢を訪れ、ある衝撃的な事実を伝える。
順蔵が捕らえられた直後、巻子はすぐに書斎に向かい、重要な書類をすべて焼き払っていたのだ。そして奉行所の尋問に対しても、「夫の仕事には関心がなく、最近は横笛の稽古ばかりしていた」と、疑念を抱かせない振る舞いを見せた。
順蔵は初めて気づく。巻子の横笛は、単なる気晴らしではなく、家の外に密談の声が漏れるのを防ぐためのものだったのだ。彼女は何も知らぬふりをしながら、ずっと自分を守ってくれていたのだと。
自らを「気楽者」と見せつつ、肝心な時には迷いなく動き、夫を救った巻子。彼女の“静かなる強さ”に、順蔵はこれまでにない深い感動を覚え、初めて妻の真価を理解するのだった。