『日本婦道記 忍緒』

日本婦道記 忍緒

あらすじ

『日本婦道記 忍緒』は、山本周五郎による短編小説で、関ヶ原の戦いの前夜を舞台に、沼田城主・真田信之の妻・松子の忠義と苦悩を見事に描き出した作品です。

物語は、信之が徳川家康の上杉討伐に出陣し、松子が幼い二人の子供を抱えて沼田城に残されたところから幕を開けます。ある日、信之の父・昌幸と弟・幸村が沼田城を訪れますが、松子は二人を城に入れることなく、一夜の宿を城下に設けます。昌幸は手紙で、老いた身で孫に会いたいという切実な思いを訴えますが、松子は戦時中であることを理由に、これを拒絶するのです。

その後、石田三成が秀頼を擁立して挙兵したとの報せが届きます。松子は城下の婦女子を城中に呼び入れ、いかなる変があろうとも武士の妻子たる道を踏み外さぬよう諭します。これは家臣たちの離反を防ぐための策でもありました。

一方、信之は宇都宮で妻からの知らせを受け取ります。そして旬日後には秀忠の軍に従って、弟・幸村らの守る伊勢崎城を攻め落とすのです。

松子は夫を思い、子供たちの安否を案じながらも、武将の妻として毅然とした態度で留守城を守り抜く覚悟を固めていきます。彼女の行動は、戦国の世を生きる武家の女性の生き様を象徴しているのです。

作品は、松子の心情を丁寧に描写しながら、戦乱の世における武士の妻の忠義と苦悩を浮き彫りにしています。松子の強い意志と覚悟は、読む者の心を打つと同時に、戦国時代の女性の生きざまを鮮やかに伝えています。

『日本婦道記 忍緒』は、激動の時代を生き抜いた一人の女性の物語であり、日本の武家社会における女性の在り方を問いかける秀作と言えるでしょう。山本周五郎は、松子という人物を通して、困難な状況下でも自らの役割と責任を全うしようとする武家の女性の姿を見事に描き出しているのです。

書籍

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本文

はたはたと舞いよって来たちいさなが、しばらく燭台しょくだいのまわりで飛び迷っていたと思うと、眼にみえぬ手ではたかれでもしたようにふいと硯海けんかいに湛えた墨の上へおち、白い粉をちらしながらむざんにくるくると身もだえをした。松子は筆をとめてそれを見た、ふだんは部屋にひとついても身ぶるいのするほど嫌いな虫だったけれど、そのときはどうしてかいたましく哀れに思え、と書き反古ほごの紙をとって、しずかに墨しるの中から救いあげてやった。なかばは無意識でしたことだったが、さてその墨にまみれた蛾をどうしたらよいかとあたりを見まわしたとき、ふと自分の心をかえりみてどきっとした。――あらぬものにたよった。自分で自分の心にそれを感じたのである。いけない、気持がみれんになっている、つねのままの自分ではない。そう思い、おのれの気をひきしめるように、蛾をのせている紙をそのまま柔かくまるめて反古箱へ捨てた。
ここは上野こうずけのくに沼田城の奥どのである、城のあるじ伊豆守真田信之は、徳川家康の上杉征討軍に従うため兵馬をそろえて数日まえに出陣していった。城には妻の松子が六歳になる仙千代と三歳になる隼人のふたりの子をまもって留守をしていた。松子は本多平八郎忠勝のむすめで、内大臣家康の養女ぶんとして信之に嫁してきた、うじからいっても育ちからいっても、武将の妻として留守城をあずかる覚悟にいまさらおくれのある筈はない、ことにかの女はおとこまさりの生れつきで、小太刀、なぎなた、馬術などで鍛えた堅固な志操をもっていた。たとえ良人がいなくとも、守兵が百騎に足らぬ数でも、幼い二人の子をかかえていても、万一のときの心そなえはきまっている、そこに微塵みじんのゆるぎもないことは自分によくわかっていた。――そう信じていたのに、やはり心のどこかにはみれんなものがひそんでいたのだ、かの女は書いていた文の上にじっと眼をそそぎながら自分をかえりみた。――いま蛾をすくいあげた時、ただ哀れだと思うだけでなく、良人おっとの無事わが子の息災を托す気持があった。つねには身のふるえるほど嫌いな虫のいのちに、われ知らずおのれの幸運をたのむ心がうごいたのだ、このように小さなとるにも足らぬことのなかにこそ「覚悟」のほどがあらわれる。こんなことではいけない、もっともっと気をひきしめなければだめだ。松子は自分をむちうつような気持で、眼をつむり唇をみしめながらじっと息をひそめていたが、なかなか胸がしずまろうとしなかった、それでそっと机の前を立ち、子供たちの寝所をみにいった。
仙千代も隼人も、乳母たちに添ってよく眠っていた。有明のかげにふたりの子の寝顔を見まもっていると、やがて温かなおちついた気持がわいてき、それがしぜんと良人のうえにつながるのだった。
――留守の心得をおきかせ下さいまし。
出陣のまえにそうたずねたら、信之はいつもの穏かなこわねで、――忍緒しのびのおを切った心でいよ、と云った。かぶとのしのびの緒を切るとは、討死ときめたときのことである、ふだん意味のはげしい言葉を嫌う良人にしては、めずらしく強いひびきをもっていた。しかも平常と変らない、穏かなこえ、温かいしずかな眼もとだった、松子はいまそのときの良人のおもかげを偲びながら、――そうだ、手紙を書いてしまわなければ、と思いつき、そっと立ちあがった。するとそれを待ってでもいたように、「おたあさま」と仙千代の呼びかける声がした。ふりかえると眼をあいてこちらを見ていた。
「どうしました、お眼がさめましたの」
「いまおじいさまが来たでしょう」
はっきりした口調でそう云った。
「おじいさまとは、どのおじいさまです」
「おじいさまですよ、お髪の白い、お背の小さいおじいさまですよ、仙千代を抱きに来たと仰しゃったのに、おたあさまは……」
そう云いかけて、言葉が切れたと思うと、仙千代の眼はそのまま閉じ、すぐにやすらかな寝息をたてはじめた。松子はどういうわけかぞっと背すじが寒くなった、今しがた自分が紙にくるんで捨てた蛾のことを思いだしたのである、けれどそれはほんの一瞬のことで、すぐにかの女はきつく頭を振った。――
――仙千代はねぼけたのだ。
そしてしずかにそこをたち去った。

居間へもどった松子は、次ぎの間にひかえている侍女たちにもう寝るようにと云い、ふたたび机に向ってふみを書きつづけた。それは良人へおくる詫びの手紙だった。出陣の前夜だったが、かの女は良人にむかってこういう意味のことを云った。「おんなの身でかようなことを申上げるのは僭上せんじょうではございますけれど、お父うえ安房守あわのかみさまの御心底はいかがでありましょうか、世のありさまを思いあわせますと、親子兄弟の仲とてなかなか心ゆるせぬように存ぜられますが」と。けれど信之はなにも云わなかった、不快そうな顔もしなかったし、もっともだという表情もみえなかった、まるでなにも聞かなかった人のように、黙って燭台のあたりを見まもっていた。
こんどの出陣には信濃のくに上田城から真田昌幸とその子幸村が加わることになっていた。安房守昌幸は信之にとって父、幸村は弟にあたる、父子兄弟は箕輪みのわでいっしょになり、徳川軍の旗下へ参加する筈だった。松子は実家にいるころ、真田氏のことはしばしば耳にしていた。安房守昌幸は軍師としては当代ならぶ者なしという評をもっていたが、その行蔵こうぞうにはかんばしからぬ多くの過去がある。かれは初め甲斐かいの武田晴信(信玄)に仕えていたが、武田家のゆくすえをみきって織田信長に貢し、やがて上杉景勝の幕下へついた、ついで北条氏直に臣下の礼をとり、転じて徳川氏の属となった、しかし間もなく沼田城の去就について、上杉景勝に二男幸村を質として庇護ひごをたのみ、徳川氏にほこをかまえた。かくて豊臣秀吉が天下を平定するや、しるべの案内を乞うて恩顧をたのみ、上杉氏に質としておくった幸村をとりかえした。北条氏ほろびて徳川家康が関東を領することになり、沼田城もその管下にはいったとき、昌幸はあらためて長男信之を質としたので、家康はこれに沼田城の本領を安堵あんどさせたのである。戦国の世のことゆえ向背こうはいのつねならぬはさしてとがむべきではないにしても、一世の軍師とうたわれる人にしてはあまりに節操のない経歴である。関白秀吉が薨じて、今また世間はなんとなく風雲をはらんできた、にわかにその存在の大きさをはっきりさせはじめた徳川氏と、太閤の遺児秀頼を擁する勢力とが、眼にみえぬ怒濤どとうとなってあいせめいでいる。いつどこから火を発するかもしれない。ことに今度の上杉討伐のいくさは徳川氏がその全勢力をあげて東征している、関西のまもりはがらあきなのだ、秀頼を擁する人々が事をおこすにはうってつけの機会である、これを思いかれを想うとき、松子には安房守昌幸がどこまで徳川氏についてくるか案じられた、いざという場合にはまた敵にまわるのではないか、そういう不安が良人への苦言となってあらわれたのである。
信之はついになにも云わずに出ていった、そして松子はそのあとで自分の言葉を悔いた。たとえ父昌幸がどうあろうと良人の徳川家に対する志操に変りのある筈はない、それは妻である自分が誰よりもよく理解している。理解していながら念を押したのはあさはかな疑いになるし、疑いと云わなければさかしらだてである、松子はそう気づくとともにあのとき黙ってなにも云わなかった良人の心が、いかにもたのもしくゆかしく思いかえされ、すぐにびの手紙を書く気持になったのである。
思うことをまさしく伝えようとするには文字ほどたのみにならぬものはない、書いては消し、綴ってはやぶりして、ようやく文をむすんだのは短い夏の夜がもうしらじらと明けそめる頃だった。――ああもう夜が明けるのか。ほんのりとあかるみだした障子の色に気づいて、そうつぶやいたかの女は、手紙の封をするとしずかに立って庭へ出ていった。
城下の街はまだ暗く、刀根川の流れも濃い朝もやの下に眠っていたが、赤城山のみねはすでにあかねに染まり、高い空のどこかで鳥のさえずりが聞えていた。この城は山地につづいているので、夏の朝のさわやかな風には、樹々の葉のあまい匂と爽やかな花の香がほのかにしみこんでいる、松子はふさがれていた胸がひらけるような気持で、奥庭から外曲輪のほうへあるいていった。すると城の正門を見おろす台地へかかったとき、大手の広場を城門のほうへと疾駆して来る二騎の武者があるのをみいだした。――こんな時刻になにごとであろう。そう思ってよく見た、二騎ともこの城の者でないことはたしかである、朝霧のなかを、いちど城壁の蔭へはいり、それからまさしく城門へかかるようすだった。――良人からの急使ではあるまいか。
松子はそう思い、すぐに屋形へもどった。水をつかい髪をくしけずり、着替えをしているところへ、老職の斎藤刑部の伺候をしらせて来た、出て会うとはたして二騎の使者のことだったが、しかし良人からではなかった。
「安房守さまおたち寄りとの前触れにござります」
「安房さまが……」
松子は聞きちがいではないかと思った。

「たしかに相違ございません、左衛門佐さえもんのすけ(幸村)さま御同伴にて昨夜は渋川にお泊りなされ、今朝こちらへ御発向との口上にございました」
「使者の者はいかがしました」
「口上を申しのべますとすぐ引返して去りましたが……」
刑部をさがらせ、屋形へもどった松子の胸は疑惑のためにふさがれていた。安房守昌幸は良人と箕輪で会い、ともに江戸へはせ参じた筈である。それがいまごろ沼田へ来るというのはどうしたわけか、なにがあったのか、良人もごいっしょなのか。使者の口上だけではなにもわからない、一夜ねむらずに明かしたあとだったが、もう寝所へはいる気持もおこらず、松子はつぎの知らせを待ちかねていた。
二番めの使者が来たのは二時すぎだった、これは一行の先駆で、海野十郎兵衛という真田家では名のあるさむらいだった、松子は城の大玄関まで出てかれに会った。安房守が久呂保くろほまで来ているからという口上で、出迎えを促すような口ぶりでさえあった。
「安房さまには江戸へおくだりのことと存じていましたに、いま沼田へおいであそばすとはいかなる仔細か、それを承わりたいと思います」
口上を聞いたあとで松子はそう反問した。十郎兵衛はすぐには返答ができなかった。かさねて問われると、そのことについては別になにも承わっていないと云った。松子は使者の顔をじっと見まもっていたが、「伊豆守(信之)も御同列ですか」とたずねた。
「いえ伊豆守さまには江戸へおくだりにございました」
「では沼田へおたちよりなさるのは安房さま左衛門佐さまおふた方ですか」
「さようにございます」
そう聞いたとき松子の心はきまった。
「それでは安房さまへはかようにお答え申すほかはありません、沼田へのおたちよりは御無用にねがいます、城への御接待はあいなりませんと」
「おそれながらそれは、いかなる思召にござりますか」
「仔細は申すに及ばぬことです、すぐたち戻って安房さまへさようお伝え申すよう」
云い終るとすぐ、まだなにやら問いたげな十郎兵衛にかまわず、松子はさっさと奥へはいってしまった。
昌幸父子が沼田へ来る理由はまだわからない、しかし良人が江戸へいったのに二人だけこちらへ来るというのは不審である、なにか起ったに違いない、よしまた、なにごとがなくとも今は戦時である。良人の留守に客を迎えるのはたしなみではない、ことわるのが留守のやくめとして当然だと信じた。午後四時まえ、ふたたび海野十郎兵衛が馬をとばして来た。かれは汗まみれになっていた。
「かさねて申上げます、安房守さまには上田へ御帰城ときまり、途中わざわざ道をまわって留守をお問い申すとの口上にございます。べっして御接待には及び申さず、ただ一夜の泊りをおたのみ申すとのことにござります」
「さいぜんお答え申したとおり」松子は冷やかに云った、「当城へのおたちよりは御無用です、かたくおことわり申します、それにしても安房さま御父子にはなにゆえ江戸へおくだりあそばしませんのか、どうして信濃へおかえりあそばしますのか」
云いながらかの女はするどく使者の眼をみつめた、十郎兵衛の汗まみれの顔がちょっとあおくなったように思えた。かれは松子の不審には答えないで、昌幸のたのみを押し返して述べた、松子はきっぱりと拒んだ、
「いま大戦がおこっているおりから、なにびとに限らず留守城へおいれ申すことはあいなりません、たってお望みなれば銃火をもってお迎え申すばかり、かようにお伝えなさい」
そう云うとともに松子は斎藤刑部を呼び、兵に武装をさせてやぐら、木戸、門の警備につくよう申付けた。とりつくしまもなく十郎兵衛は馬をかえして去ったが、城門を出るときには、早くも、銃をとった兵たちが城壁の上にあらわれるのを認めた。
奥へはいった松子は、城兵のまもりをきびしく申し付け、自分も※(「巾+白」、第4水準2-8-83)はく(はちまき)をつけ、著長きせながを着た。刑部にはすべてがなぞのようだった。
「おそれながら安房さまお使者への御挨拶、また城兵に戦備をお申付けあそばす思召のほど、いかなる御思案にござりましょうや、お申聞けねがいとう存じます」
「こうするのが留守をあずかる者のやくめです、わたくしの申付けるとおりにして貰います」

どうたずねてもそれ以上は云わなかった、そしてすっかり城がため(といっても百騎たらずの兵だった)ができた頃、昌幸父子が沼田の城下そとへ到着し、べつの使者が昌幸の手紙を持って城へ来た。
――そこもと留守の御要慎ごようじんけんごのおもむきあっぱれに存じそろ。手紙にはそう書いてあった。――されどわれは信之の父、幸村は弟なり、舅、嫁、あによめ、義弟とつながるあいだがらに、かほどの要慎はいかにやと存ぜられそろ、われら沼田にたちよる心は、身すでに老い朽ちていつ果つべしとも知れず、信濃にかえりてはふたたびあい逢うおりもおぼつかなければ、せめて一夜を嫁とも語り、孫どもを膝にいだきて老のなぐさめにせんとのねがいのみにござそろ。このほかにいささかの他念なく候えば、げて一夜の宿をたのみいりそろ。
松子の心はよろよろとなった、手紙の文字に偽りはないであろう、ただ嫁に逢い、孫を抱きたいという言葉のなかには、少しの装いもない切実な老人の心がこもっている。ひとの嫁として、子たちの母として、この言葉をしも拒むちからがあるであろうか。――お逢わせ申したい。松子は胸いっぱいうめくようにそう思った、そのとき広縁を踏みならして、仙千代と隼人がはいって来た、仙千代はびっくりしたような眼をみはり、小さな胸をわくわくさせていた、顔じゅうが幼いよろこびにあふれていた。
「おたあさま、上田のおじいさまがおいでなさるのですか」
「しずかになさい」
松子はうろたえて叱った。
「此所はあなた達のおいでになるところではありません、乳母はどうしました」
「乳母はおんなだから御殿へは来られないんです、ねえおたあさま、本当に上田のおじいさまはおいでなさるのですか」
「どうしてそんなことをおっしゃるんです、誰かそのようなことを申しましたか」
「誰も……誰も云いはしませんけれど」
刑部がはなした、松子にはすぐ察しがついた、そして仙千代の眼が疑わしげに自分の顔を見まもっているさまに気づくと、ふと夜半の寝所であったことを思いだした。「おじいさまがいらしった、仙千代を抱きに来たと仰しゃって……」幼いかれはそう云った、そのときかの女は自分がとり捨てた蛾を聯想れんそうし、いいえただねぼけたのに違いないとうち消してしまったのだけれど、いま思いかえすと昌幸の来訪とふしぎに符合する、かれの云った「おじいさま」とは安房守ではなかったろうか、孫を思う昌幸の心が、仙千代の夢にかよったのではないだろうか。
「仙千代、あなたはゆうべなにか夢をごらんになりましたか」
「夢ですか、……夢」
仙千代はちょっと首をかしげたが、夢などはみないと答えた。みたとしても、そしてその夢が昌幸であったとしても、二歳のときいちど会ったきりのかれには、それが上田城の祖父だとわかる筈はない。
――ああお会わせ申したい。
けれど本当に会わせてもよいだろうか、仙千代を去らせてから、松子はもういちど自分の立場をよく考えなおしてみた。「信濃へかえってはふたたび逢うこともおぼつかない」手紙にはそう書いてある、昌幸はまだ五十五歳で老い朽ちたという年ではない、また信濃のくには遠いけれど再会をおぼつかながるほどではない筈だ、それにもかかわらず昌幸が押して逢おうとするのは、なにかそうせずにいられない理由があるのではないか。信濃へかえると、もう二度と逢えなくなるような理由が……松子の心はその一点へきて止まった、くずれかかっていた気持がにわかに立ちなおった。――忍緒を切った心でいよ。そう云った良人の言葉がはっきりあたまによみがえってきた。そうだ、情におぼれるときではない、祖父と孫、舅と嫁のつながりも大切であるが、今は戦いの時である。もし安房守父子を迎えてそのまま城を奪われたらどうするか、仙千代を隼人を、もしも人質として取られたらどうするか、世間にためしのないことではない、ことに安房守のこしかたには信頼をゆるさぬ多くの事実がある。拒むべきだ、それが留守をあずかる者のつとめだ、松子はついにそう思いきった。
まさしく忍緒を切った気持で、かの女は昌幸へ返書をしたためた。そして刑部にそれを持たせてやると、しずかに眼をつむり、心で合掌しながらびた。……孫たちはお逢い申したがっております、わたくしも一夜おとぎをつかまつりとうございます、けれどもそれがかないませぬ、どうぞおゆるし下さいまし。

城へはお迎え申しかねる、城下へ宿所を設けるから、そこで一夜だけ過し、明朝はやくたち去って貰いたい、あやまちの起らぬよう接待はわざと女どもに命じた。そういう意味の手紙を、読み終った昌幸はわが子の手へわたした。
「さすがに本多忠勝のむすめでございますな」幸村は手紙を巻きながら苦笑をもらした、「西に事のおこったのを知っているのでございましょうか」
「そうかも知れぬ、しかしそうでないかも知れぬ」昌幸はおのれの手をみつめながら、溜息ためいきをつくように云った、「いずれにしても、女にはめずらしい堅固なこころがけだ、信之はまっすぐに小山へ立ってまいったが、なるほどこの妻があればこそ安心してゆけたのであろう」
そう云いながら、昌幸は二日まえのことを思いかえした。
箕輪で会った父子兄弟がいざ出発という前夜になって、治部少輔三成からの密使が到着した。すなわち秀頼公を擁立して挙兵するから味方をたのむというのである、昌幸はその密書を二人の子に示して意見を求めた、信之はいつもの穏かな態度で、自分は徳川家に質となってこのかた家康から特に愛顧をうけ、沼田の本領も安堵されたし、本多忠勝のむすめを内大臣の養女としてめあわされている、さむらいとしてこの義理を忘れることはできない、自分はどこまでも徳川氏と運をともにする、そういう意味をはっきりと述べた。そのしずかな淡々とした口ぶりのなかに、昌幸はかれの動かしがたい決意をみた。……では幸村とおれは上田へ帰る、此処ここで別れよう。昌幸はそういって話をうちきった。故太閤に恩義を感じているかれは、石田三成の挙兵にみかたをするのが自分と幸村との道だと信じた、すなわちそのとき父子は敵味方となって別れて来たのだ。「孫どもに会ってゆきたかったが……」しばらくして昌幸はぽつんと云った、それはいかにも老人らしく、寂しげな、むしろどこやら気ぬけのしたこわねでさえあった。
刑部の案内で城下町に宿所がきまった、かれらを迎えたのはすべて城中の女性たちだった。かの女たちは※(「巾+白」、第4水準2-8-83)をつけ棒を持ってつじを警護し、またかいがいしくゆきとどいた接待で宿所のせわをした。こういう場合にもし男たちを接待に出したとしたらどうだったろう、そう思うと松子の考えのこまかさとその心の用意のたしかさに、昌幸はさらに感嘆のおもいをふかくするばかりだった。けれども到着した兵たちはおちつかなかった、女ではあるが※(「巾+白」、第4水準2-8-83)をつけ棒を持った姿はものものしいし、城壁には篝火かがりびがあかあかと燃えている。――まるで敵地へはいったようではないか。――ゆだんをすると夜駈けをくうかも知れないぞ。そんなささやきが兵たちのあいだに交わされた、そしてかれらはその一夜をついに野陣のまま、ほとんど睡らずに明かしたのであった。
昌幸父子はその明くる朝はやく宿所をしゅったつした。霧のふかい朝だった、沼田の町は台地になっている、急な坂にかかっていよいよ城下をはなれようとしたとき、昌幸は馬をとめてふりかえった。――もうこれが見おさめかも知れぬ。そう思った、城の矢倉のひとつが霧のなかに幻のように浮かんでいた。水刷毛みずはけでさっとでたように、曲輪がまえはおぼろにかすんで見えないが、その矢倉だけがすじをなしてながれる霧をぬいて腰から上をみせている。――あああの矢倉の下に孫どもがいる、仙千代が、隼人が。昌幸はふっと眼が熱くなるようにおもい、だがあの嫁があるかぎり孫たちのゆくすえは安心だと思った。
ちょうどそのとき、城の矢倉の上では松子がふたりの子といっしょにこちらを見ていた、昌幸たちがしゅったつしたと聞いて、仙千代と隼人をつれてここへ登って来たのである。かの女は矢狭間やざまの上へふたりを乗せ、霧にとざされた城下町のほうを指さしながら、
「ごらんなさい仙千代、隼人もよくごらんなさい」と云った、「いまあの霧のなかを、あなた方のおじいさまがおくにへお帰りになっていらっしゃるところですよ」
「おじいさまって、上田のおじいさまですか」
仙千代はさかしげな眼をあげてびっくりしたように母を見た、松子はそのまなざしを受けきれなかった。
「そうです、上田城のおじいさまです」
「ではやっぱりいらしったのですね、おじいさまがいらしったのは本当だったのですね」いかにも不服そうな調子だったが、それはむしろ祖父に対するもののようだった、
「でもそれならどうして、どうして仙千代に会いにいらっしゃらなかったのですか、おじいさまはもう仙千代がお嫌いになってしまったんでしょうか」
「……またすぐに」松子は切なさに堪りかね、そっとふたりの肩を抱きしめながら云った、「すぐにまたいらっしゃるのです、こんどはお急ぎの御用がおありだったのですから、このつぎにおいであそばすときは、おふたりにきっとよいお土産を持って来て下さいますよ」
そうあってほしい、どうぞこのつぎに、すべてが無事におさまって、もういちど孫たちをお会わせ申したい。松子はつきあげてくるなみだをかくしながら云った。
「さあ、おじぎをなさい、おじいさまが御無事で上田へお帰りあそばすように」
だがこれでつとめが終ったのではない、良人が帰るまでにはもっと苦しい悲しいことがあるであろう、これはその初めの僅かな一齣ひとこまにすぎないのだ。松子はおのれの心をひきしめるようにそう思い、しずかに、泪を押しぬぐいつつ額をあげた。

付記 数日して石田三成挙兵の報があった時、夫人はすぐさま城下の婦女子を城中へ呼びいれ、「いかなる変があろうとも騒いではならぬ、自分も伊豆守の妻としてこの城をまもりぬくから、皆も心をひとつにして、あくまで武士の妻子たる道をあやまらぬよう」とさとした。これはひとつには家臣たちの騒動と離反に備えるためだったのである、かくして婦女子はそのまま城中にとめ置いて、留守城安全の由を良人のもとへ云い送った。……信之はこれを宇都宮で受け取った、そして旬日ののちには秀忠の軍に従って、弟幸村らの守る伊勢崎(上田城のとりでの一)を攻めてこれを降しているのである、これを思うと信之夫人のとった態度は、まさしく禍を未然にふせいだものといえよう。