『其角と山賊と殿様』

其角と山賊と殿様 山本周五郎

あらすじ

江戸時代、俳諧師の榎本其角は、友人の小川破笠と共に、江戸の茅場町の裏店で質素な生活を送っています。彼らは貧しさにもめげず、俳諧の道を精進していました。ある日、其角の貧しい生活を心配した同門の親友、服部嵐雪が、主君である井上相模守に相談します。相模守は、其角に自分の邸での出入りを提案しますが、其角は大名のために俳諧を詠むことを固辞し、提案を拒否します。

この拒否の後、其角は深川松川町の佐野屋喜左衛門から俳諧の会に招かれます。会が終わった後、帰路についた其角は突然、山賊に襲われます。山賊たちは其角を脅して全財産を奪い、更には彼を裸にして駕籠に乗せ、未知の場所へと連れ去ります。

連れ去られた先は山賊たちの隠れ家で、其角はそこで生贄として祭るための儀式の準備が進められていることを知ります。しかし、彼には最後のチャンスとして、何か芸を披露する機会が与えられます。其角は自分の得意とする俳諧を選び、一句を披露します。その句は頭領に気に入られますが、彼の処刑が決定されてしまいます。

その後、其角は意識を失い、気がつくと茅場町の裏店で目を覚まします。彼は全てが夢だったのではないかと疑いつつも、真相を追求します。そして後日、芭蕉の家で井上相模守と再会し、その夜の出来事が相模守の計画の一環であったこと、そして実は将軍家綱の命で行われた「百鬼夜行」の一部であったことを知らされます。

『其角と山賊と殿様』では、俳諧師としての生活、意外な運命に翻弄される人々の物語が描かれています。貧困の中でも創造性を失わない人々、人間の尊厳を求める旅、そして身分や地位を超えて結ばれる人々の絆が、この作品を通じて表現されています。山本周五郎は、俳諧という芸術形態が持つ精神と、時代を超えた人間の普遍的な価値について、読者に問いかけています。

書籍

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本文

その頃榎本其角えのもときかくは、俳友小川破笠おがわはりゅうと共に江戸茅場町かやばちょうの裏店に棲んでいた。
芭蕉の門に入ったばかりで、貧窮のどん底時代だった、外へ出る着物も夜のよぎもひと組しかなく、それを破笠と共同で遣っている有様だった。
同門の親友、服部嵐雪はっとりらんせつは、その時分井上相模守いのうえさがみのかみに仕えていたから、其角の貧乏を心配して、絶えず金や衣服を調達してやるのだが、性来酒好きな上に恬淡てんたんな其角は、たちまち何もかも酒に代えてしまうのだった。
或時、其角の貧乏を聞かれた井上相模守侯が、
「榎本にも邸へ出入をするよう、言ってみたらどうか」
と嵐雪に相談した。勿論、嵐雪は非常に悦んで、すぐに茅場町へとんで行った。ところが其角は一向に嬉しくなさそうで、
「まあお断りをしよう」
と言う。
「何故だ、こんな貧乏が続いては、ろくな勉強もできぬではないか」
「ばかなことを――、天地自然が金で購えるか、春秋四季変化の妙諦を極めるのに、貧乏で悪い理由はあるまい、それに」
と其角は苦笑しながら、
「私は大名の為に俳諧はいかいをよむのは御免だ」
「――――」
嵐雪もそう言われては致方がないので、侯の邸へ帰ってその通り復命した。井上侯はもとより蕉門の俳諧に通じ、芸道に理解のある人であっただけ、其角の言葉がかちんとかんに障ったらしい、
「そうか、大名の為に俳諧はせぬと言ったか――」
と少々不愉快な顔をした。
そんな事があって間もなく、深川松川町の佐野屋喜左衛門さのやきざえもんという材木問屋の隠居所で、俳諧の催しがあるのに其角は招かれた。喜左衛門は似相じそうという俳号をもって、蕉風の俳諧では、すでに旦那芸の域をぬきんでていた。
興行は七つ(午後四時頃)から始まって夜の五つ(午後八時頃)に終り、それから酒が出たので、其角が佐野屋の邸を辞したのはもう四つ(午後十時頃)を過ぎた時分だった。
駕籠かごを雇いましょう」
と喜左衛門がすすめるのを断って、
「春寒の夜風で、酔をましながら参るのも妙でしょう」
そう言って外へ出た。
浅春二月中旬の、どこかうるんだ空に、もうろうと薄月がかかっていたし、川面を吹渡ってくる風も、潮の香を含んで快かった。歩きだしてからかえって酔を発した其角は、相川町を右に折れて、蹣跚まんさん蜆河岸しじみがしへさしかかった。すると片側町の暗がりから、
「待て待て、町人待て!」
と声をかけられた。吃驚びっくりして振返ると、手に手に大刀を抜いた五六人の覆面の武士が現われ、ばらばらと其角を取囲んだ。
「何か御用か」
其角も若かったし、未だ酔が充分に廻っているから、弱味を見せまいとして、傲然ごうぜんと相手を見廻しながら言った。
「ふふふふ大分強そうな口を利くな、如何いかにも御用だ、気の毒だがここへ通り合せたのが貴様の不運、身ぐるみ脱いで置いて行け」
「文句を吐かせば遠慮なく斬って棄てるぞ、早く裸になれ!」
一人が白刃で其角の頬をぴたぴたと叩く、其角すっかり毒気をぬかれたが、
「冗談おっしゃってはいけません、私は御覧の通りの貧乏俳諧師、逆さにふるったってびた一文ありゃしません、この襤褸ぼろを身ぐるみ脱いだところで――」
「ええ、ぐずぐず申すか!」
気早な一人が、いきなり其角の胸倉を取って、刃をどきどきする喉元のどもとへ突つけた。
「網にかかった獲物なら、大名乞食の差別はない、尾羽根まで※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしるが我等のおきてだ、脱がぬとあればおのれ――!」
「お、お待ちください、脱ぎます」
すっかり酔の醒めた其角は、手早く帯を解いて着物を脱いだ。
「何だ、未だ残っているではないか」
「これは襦袢じゅばんです!」
「いかん、そいつも脱げ」
ふんどしひとつになった其角、浅春とはいえ二月の内、川から来る風はまだ素肌には冷たかった。さすがに其角中っ腹になって、
「こんな姿では歩いて家へは帰れません、何とかして頂かなければ困ります」
「よしよし、良い工夫をしてやる」
賊の一人がそう云って向うへ行った。丁度そこへ戻りとみえるつじ駕籠が一挺、何も気がつかずにやって来るのを、
「駕籠屋」
と呼止めた。見ると手に手に白刃を提げた怪しい者達、吃驚して逃げようとするのを、早くも前へ廻って引戻した。
「へえ、どうか生命ばかりは――」
「生命を貰おうと言うのではない、この裸を一人乗せて行くのだ」
「そんな事ならお安い御用で」
「早くしろ」
其角はその駕籠へ乗った。
「どちらまで……」
「黙っていてくれば分る」
賊が答えた。其角が駕籠の中から、
「茅場町へ帰るのだが」
と言ったが、誰も返辞をしない、駕籠は調子よくあがった。
駕籠は右へ曲ったり左へ折れたりしながら長いこと進んで行った。左右には例の賊がついているらしく、お頭がどうしたとか、昨夜は若い娘の生胆をぬいたとか、今夜の生贄いけにえは五人だが、丁度これで五人目だから、これで役目も終った、あとはさらって来た例の女をさかなに朝まで呑み明そう――などと、不気味なことを低い声で話し合っている。
――これはどうやら賊の家へ連れて行かれるらしいぞ。
と思ったから、折があったら救いを呼ぼうと、外の気配を伺っていると、番所へでも来たらしく、とがめる声がした。
「これこれ、この夜陰にいずれへ参られる」
「はい、実は急病人でございまして、医者のもとへ参る途中でございます」
其角が伸上って、助けてくれ! と叫ぼうとしたとたん、駕籠の垂の間から、すっと白刃が出て、其角の脾腹ひばらへぐいと差しつけられた。あっと言っても刺殺さん気配――其角はそのまま身動きもできなくなった。
こうして、三五度も木戸や番所で咎められながら、遂に救いを呼ぶ機会もなく、やがて一刻あまりも乗り続けた後、駕籠はどしんと荒々しく下へ置かれた。
「出ろ!」
と言う声に、其角が恐る恐る駕籠を出て見ると、鬱蒼うっそうと常緑樹の茂った深山のような中で、向うからひげだらけの面をして松火たいまつを持った、異装の荒くれ男が二人やってきた。そして茫然としている其角の手を両方からひっつかむと、物も言わずに引摺ひきずって行く。
樹立をぬけると立派な玄関構え、そこにも熊の皮の胴巻を着け、山刀をぼっこんだ大男がいて其角を受取った。玄関から廊下へ出て、幾曲りもした後、やがて煌々こうこうと燈火の輝く大広間へ導かれた。そこは岩屋の一部へ造りつけたと見え、正面はぐっと刳込えぐりこんだ洞窟で、槍、長巻、山刀、矢鉄砲、掛矢なんど、見るも恐ろしい武器が置並べてある。
上段には面をおおった男が一人、七八人の女達に囲まれて傲然と構えているし、広間には髭、月代さかやきを伸ばした異装の男達が、これも女達に酌を執らせてい並んでいた。女達はいずれも誘拐されてきた者と見え、衣服も髪かたちも区々まちまちであったが、みんな眼を泣腫なきはらして、ぶるぶるふるえている様子だった。
「これ、そこの裸の男」
其角が末席に座ると、上段にいる頭領らしい男が声をかけた。
「貴様は幸運な奴じゃな、今宵はわしの祖先の百回忌で、女三人、男五人を生贄いけにえに祭る日じゃ、貴様が男では五人め――最後の贄になるのじゃ、名誉であろうが」
其角は胴顫いの出るのを止めることができなかった。
と――その時、
「ひ――!」
と言う若い女の悲鳴が聞えてきた。すると上段にいる頭領は愉快気に、
ふすまを明けろ、贄を肴に呑もうぞ」
「はっ」
手下の二人が立って、次の間の襖をさっと左右へ引明けた。其角はひと眼見るよりあっと叫んで眼をつむった。
次の間には大きな炉が切ってあって、火が烈々と燃えている、その火の上へ、天井から鉄の鎖で縛りあげられた半裸体の女が、逆さりに吊り下ろされているのだ。
「ひ――!」
喉も裂けよと悲鳴をあげて、白い手足を蛇のようにのたうつ女。烈火のかがりに形相変じて、今にも悪鬼に化するかとばかり、そのままの地獄図絵だった。
「はははは、よいざまじゃな」
頭領はあざみ笑いながら盃をあげた。
「裸の男、どうだ、よい心地であろうが、貴様もすぐにあのようにしてやる、ま酒でも参るが宜いぞ」
手下共は女を急きたてて、其角の前へ酒と山海の珍味を並べ、厭がるのを無理強いにぐんぐん呑ませた。
「ところで裸坊主、我らの慈悲として、気に入った芸をして見せる者は、生贄の責を免じてやる定だが、貴様何か芸はできるか」
「はい」
其角は顫えながら、
「私は俳諧師でございますから、俳諧をよむことはできますが、外に芸と申しまして別に何も――」
「俳諧――? 俳諧とは何じゃ」
「深く説明致しますとむつかしゅうございますが、発句の例をとって申しますと、十七字の中へ森羅万象をみこみまするもので、和歌よりやや狂体に転じた一種の――」
「面白い、それをひとつやって見ろ、気に入ったら生贄を免じてやるぞ」
「はい」
其角はおぼれんとしてわらを掴んだ気持、ひざを正して句案にかかった。しかし先刻から顛倒てんとうしている心気は頓に鎮まらず、なかなか名句が浮んでこなかった。
「どうした、ときがうつるぞ」
「は、唯今」
苦案に苦案を重ねて一句を得た。
「一句浮びました」
「よしよし、そこで披露してみろ」
其角は厳かに手を膝へ置いて詠んだ。

霜を見る蛙は百舌もずの沓手かな

「なる程」
頭領は頷いた。
「百舌の早贄にかかったので、蛙が霜に逢うというのだな、面白い」
と盃をあげたが、
「だが、百舌の早贄などとは、この座に当つけた心持があって不愉快だ、折角だが助けることはできないぞ」
「な、何故でございます」
「何故も風もない、それ、そやつを生贄にかけるのだ」
言下に立上る賊共。
「ま、待ってください」
立上る其角、四五人の荒くれが取って押えると、いきなり頭から黒い布を冠せた。脱れようと必死に争ったが、ずるずると引摺って行かれる其角、かっかと燃える烈火のほてりを感じたまま、遂に気を喪ってしまった。

それから随分ながい刻が経った。夢から醒めるように、其角は自然と目覚めた。
「おや!」
と思って起上ると、自分は茅場町の裏店のひと間に、破笠と並んで寝ている。夜の衾も共同の物だし、着物も佐野屋へ出掛けた時のままである。悪夢か――狐狸に化かされたのか、余りの不思議さに、
「破笠、破笠ちょっと起きてくれ」
と友達を揺り起した。
「おれは全体どうしてここに寝ているのだ」
「何を寝呆ねぼけているのだ」
破笠は眼をこすりながら、
「ひどく酔って帰ってきて、家の前のところでぶっ倒れたじゃないか」
「何刻頃のことだ」
「大分おそかったぞ、何でも浄願寺の鐘が九つ(十二時頃)を打って暫くしてからだった」
「一人で帰ったのか」
「そうさ」
其角はうーんと唸った。
あの山塞さんさいをどうして脱出したろう、どうして生贄にならずに済んだろう、それともあれは何も彼も夢か。
――分らない。
破笠がいぶかしがって、どうしたんだといたが、話したところで信じてもらえるものでもなし、其角は黙って横になった。
それから三日後のこと、其角は芭蕉の家で偶然四五人の客と同座した。柳田出雲守やなぎだいずものかみ倉持但馬守くらもちたじまのかみの二人は顔見知りだったが、あとの二人は初めての客だった。
すると未知の客の一人が、
「こういうのを一句、最近得たのですが」
と言って筆紙を取り、すらすらと一句認めて芭蕉に差出した。芭蕉は暫く口の内にその句を誦していたが、
「どうだ」
と言って其角に渡した。
「拝見致します」
其角は膝を正して受けた。見ると意外! 墨痕ぼっこん美しく書かれた句は、(霜を見る蛙は百舌の沓手かな)。
「あ! これは※(感嘆符疑問符、1-8-78)
と見上げると、相手は微笑しながら、
「名乗り申そうか、拙者は井上相模守」
「や」
振返ると芭蕉も顔をほころばせている。相模守はにこにこしながら、
「大名の為には俳諧をせぬという尊公に是非一句んでもらいたかった悪戯じゃ、許せ」
「ではあの山賊の頭領が――?」
あきれる其角。
「いや!」
侯は頭を振って、
「拙者は手下の賊で、尊公に酒を呑ませた方だ、ここにいる三人は、尊公を生贄にしようと手籠にした賊じゃ」
「はははは、ま許せ!」
三人も高く笑った。其角は膝をすすめて、
「ではあの、上段にいた方は?」
「他言無用だぞ」
相模守は声をひそめた。
「当上様だ」
「え? 将軍家」
其角は愕然がくぜんと眼をみはった。
将軍家綱が、戯れに催した『百鬼夜行』の酒宴は有名である。其角の導かれたのはその内の『山賊』の催しであったらしい。市中から有ゆる芸人を誘拐し、それぞれ懸命の芸をさせて楽んだものである。井上相模はそれを良い機会に、若い其角を一ぱいはめたのであった。