『海浜荘の殺人』
あらすじ
山本周五郎の『海浜荘の殺人』は、湘南鵠沼の海岸に建つ老子爵・中村庄右衛門の別荘を舞台にした緊迫のミステリーです。この物語は、老子爵の孫娘・志津子と、彼女の周りを取り巻く四人の青年たちの間で繰り広げられる複雑な人間関係と、突如として起こる殺人事件を中心に展開します。
別荘には、老子爵と志津子、執事の苅田平吉、そして三名の召使が住んでいます。夏の訪れと共に、四名の青年が避暑に訪れます。彼らは井上一郎、久良啓吉、高野千之、荒木清といい、中村家と親族関係にあるものの、彼らの真の目的は中村家の莫大な財産を狙うことにありました。志津子は彼らの意図を見抜き、警戒を強めていました。
ある日、志津子は荒木から、自分と老子爵を殺害するという脅迫状が届いていると聞かされます。脅迫状は金銭を要求する内容で、すでに五通も届いていたというのです。しかし、志津子はこれを悪戯と断じ、荒木の言葉を信じません。その後、井上からも同様の話を聞かされるも、彼女は青年たちを疑い、彼らの言葉を信用しませんでした。
事件は深夜に起こります。老子爵が自室で何者かに殺害され、金庫からは大金が盗まれていました。犯人は窓から侵入し、老子爵を鉄棒で撲殺した後、逃亡したと見られていました。志津子は青年たちを犯人と疑い、警察に通報します。しかし、彼らは事件の時刻には別荘におらず、アリバイが成立していました。
警察の捜査が進む中、高野千之が犯人を特定する重要な手がかりを見つけます。それは、老子爵が最近使っていなかった足台が、事件後に元の位置に戻されていたことでした。この事実から、犯人は別荘の日常に詳しい人物であることが示唆されます。そして、その疑いの目は執事の苅田に向けられました。
苅田は岡山にいる兄の病気を理由に別荘を離れていましたが、事件の夜に帰宅していました。高野は苅田が犯人であると断定し、彼が使ったとされる一番列車が実際には遅延していたという事実を突きつけます。しかし、これは高野の策略であり、苅田が真犯人であることを自白させるための罠でした。
最終的に苅田は犯行を認め、老子爵の死と財産を狙った計画が明らかになります。事件の解決後、志津子と高野は互いの誤解を解き、新たな関係を築くことになります。『海浜荘の殺人』は、緻密なプロットと人間心理の洞察を駆使した、山本周五郎の傑作ミステリーとして読者を魅了します。
書籍
朗読
本文
「エル、まだかい」
ベランダから無遠慮に覗きながら、高野千之が声をかけた。鏡台に向って日灼け予防の白粉を塗っていた志津子は吃驚して、
「厭アよ千ちゃん、そんな処から覗いたりして、お化粧してるとこなんか男が見るもんじゃないわ」
「僕は別に構やしないがね、みんな門のとこで待っているぜ」
「先へ行っててよ、あたしお祖父さまに御挨拶してからでなくちゃ行けないわ。――それからねえ千ちゃん、あたしをエルって呼ばないで頂戴」
「承知致しました、エル」
「あたしを嘲弄うの?」
志津子は屹と振返った。――高野千之は苦笑しながら、
「僕が呼ぶとそんなに気に障るのかい。みんなそう呼んでいるじゃないか」
「誰にも呼んで貰いたくないの、亡くなった父さまだけよ、あたしをエルって呼べる人は。……父さまは良い方だったわ、あたしが母さまに似ているので、彼女のようだという意味から仏蘭西語で、『彼女』と呼んだんだわ。あたし母さまとは小さい時死別れたのでお顔を覚えていないけれど、父さまからエルや――って呼ばれる時には、あたしの中に母さまが生きているような気持になったものだわ」
「御免よ、しいちゃん」
千之は眼を伏せながら云った。
「そんな訳があるとは知らなかった。是から気をつけるよ――」
「皆にもそう云って頂戴、四人ともあたし好きじゃあ有りませんって。貴方たちはみんな不良よ、嫌いだわ!」
「僕もそう思うよ」
呟くように云って、高野千之はくるっと向直り、大股に庭へ下りて行った。
ここは湘南鵠沼の海岸、中村庄右衛門という老子爵の別荘である。――広大な庭を持った白堊の洋館には、長年の痛風症に悩む老子爵と、十八になる孫娘の志津子、それに執事の苅田平吉と三名の召使が住んでいた。
ところが、暑中休暇になると共に、四名の青年がこの別荘へ避暑にやって来た。井上一郎、久良啓吉、高野千之、荒木清と云って、みんな中村家とは親族関係の者だが、――志津子には四人の青年たちが何を目的に此処へ来ているかよく分っていた。一言にして云えば、彼等は中村家の莫大な財産がめあてなのである。どうかして老子爵のお気入になって、志津子と結婚し、この中村家の巨万の財産を手に入れようと企んでいるのだ。
――うむ、そうかも知れん。
老子爵は志津子の考えを聞いた時頷いて云った。
「だが少しくらい不良に見えるような奴に、却って天才がいるものだよ」
しかし志津子には、老子爵の言葉がよくは分らなかった。高野千之はまだしも、他の三人はだらしの無いうえに乱暴者で、中学時代には警察の厄介になった事さえあるような連中だ。
――あたし油断しないわ。
とひそかに決心していたのである。
高野千之が去ると、志津子は急いで化粧を済まして祖父の部屋へ入って行った。――老子爵は安楽椅子に深々と掛けて、新着の仏蘭西雑誌を読んでいた。
「お祖父さま、御機嫌はいかが?」
「うん、有難う、――」
老子爵は振返って、
「たいそう綺麗だね、海へ行くのかい」
「ええ、このケープ新調なのよ」
「よく似合うよ、どれ其方へ向いてごらん。おお実に綺麗だ。不良共がさぞ吃驚することだろう」
「厭だわ、お祖父さま」
「まあ早く行っておいで、――ああ些っとお待ち、済まないがまさやに葡萄酒を出さして置いて貰おうかね」
「あら珍しいこと、召上りますの?」
「昨日からばかに具合が好いんだ。足台も片付けさせたし、久し振に一杯味わってみようと思う」
「嬉しいわ、直ぐそう云って来ましょう」
「酒蔵の鍵は苅田の部屋にある」
「そう云えば苅田はまだ帰りませんのね」
執事の苅田平吉は、岡山市にいる兄が急病だという電報で、三日まえに岡山へ帰ったが、もう戻らなければならぬ筈なのである、――老子爵は卓子の上を見やって云った。
「さっき電報が来たよ、もう二三日滞在させて貰うという事だ。なに屈竟の若者が四人もいるんだからこちらは大丈夫さ」
志津子が祖父の用を果して浜へ出ると、四人の青年は既にひと泳ぎした後らしく、大きな海岸傘の蔭へ寝転んでいた。
「やあ姫君のお出ましだ」
「遅かったですね」
「さあ此処へお入りなさい」
千之は黙っていたが、他の三人は馴れ馴れしく、まるで手を執らん許りに起上って来る。志津子は冷やかに、
「有難う」
ケープを脱いで、
「あたし先に泳いで来ますから」
と活溌に汀の方へ立去った。すんなりと円みをもった、若鹿のような美しい体に、ぴったりした純白の水着が描きだす曲線はすばらしいものだった。――鵠沼でもその浜はブルジョワ地帯で、青年も令嬢たちも粒選りの洒落者揃いだったが、その中でも志津子の美しさは群を抜いているので、
――白の姫君
と専らの評判であった。
「――今日は、令嬢」
「見ろ、王女様のお通りだ」
「今日こそ負けるな」
四辺にいた青年たちは、そんな事を云いながら、志津子の後から海へ入って行った。志津子は美しさ許りでなく、泳ぎにかけてもその浜で続く者がなく、毎も海へ入るなり、ぐんぐんと抜いて、遥かに遠い沖へ独りで行って了う。――そして追って来た連中がやっとその辺へ着く時分には、大廻りをして別の方からさっさと浜へ帰っているという有様だった。
今日もその通り、水際立ったクロールで沖へ沖へと驀地に進んでいると、
「――志津子さん、待って下さい」と後で呼ぶ者がある。
「大変なお話があるんです」
「……?」
振返ると荒木清だった。――彼は志津子が速度をゆるめた隙に、抜手を切って近寄って来ると、並んで泳ぎながら、
「老子爵と貴女を殺して了うという脅迫状を寄来した者があるんです」
「悪戯でしょう?」
「現金一万円を出せば宜し、さもなければどんなに警戒しても駄目だと書いてあります。今日までに五通も受取りました」
「そんな話ならお祖父さまになすってよ」
そう云うなり、志津子はピッチをあげてぐんぐん荒木から離れて了った。
志津子は荒木の話をてんから嘘だと思った。そんな事を云って自分の御機嫌を取る積りに相違ない、そうで無ければこんな海の真中で云い出す訳がない、そう思っていた。――然し、大廻りに浜へ帰って、海岸傘の下へ体を休めに入った時、又しても同じような事を聞かされたのである。
志津子が軽く疲れた体を、快く砂上にさし伸べていると、井上一郎がそっと、素早く近寄って来て、
「志津子さん、大変な事があるんですよ」
と側へ坐った。
「今日まで内証にしていたんですが、実は四五日まえから脅迫状を寄来す奴がいるんです。初めは誰かの悪戯だと思ってたんですが」
「一万円出すか、でなければお祖父さまとあたしを殺すって云うんでしょう、――?」
「も、もう御存じなんですか?」
「たった今、荒木さんから聞いたわ」
「荒木が?」
井上一郎はさっと顔色を変えた。――ただ顔色を変えた許りでなく、拳で空を打つ真似をして呻くように、
「そうか、それで分った」と云いながら振返った。
「志津子さん、それで分りましたよ、荒木です。荒木の仕業に違いありません」
「何が荒木さんなの?」
「脅迫状の事を知っているのは僕と久良の二人です。二人だけで何とか善後策を講じようと相談していたので、荒木にも高野にも話してないのです。然も――ですね、然も僕たちの見るところでは、脅迫状の筆跡はたしかに荒木のものらしいんです」
「それがどうしたって云うの?」
「分りきってるじゃア有りませんか、奴は貴女と中村家の財産を狙っていたんですが、迚も駄目だと思ったので一万円脅迫しようとしているんです。――僕たちしか知らぬ事を奴が知っていた、それから筆跡、この二つが証拠です」
「でも、その脅迫状をどうして井上さんと久良さんだけしか知っていないんです?」
「貴女を驚かせたく無かったからです」
「有難う、ではどうぞ是からも驚かさないで頂戴。あたしそんな話聞くのも厭ですわ」
そう云って志津子は立上った。
志津子はすっかり感情を昂らせていた。
一万円の脅迫状! 金を出さなければ老子爵と共に殺して了う、――本当にそんな脅迫状が来たのかしら? 井上一郎も云い、荒木清も云うのだから、恐らく嘘ではあるまい。
では何者がそんな怖ろしい事をしたのだろう?
――井上さんはああ云っていたけれど、よく考えてみれば彼の人もあたしと財産とを狙っているし、あたしが彼の人を嫌っている事も承知の筈だ。
――若しあたしと財産を手に入れる事が出来ないためにそんな脅迫状を寄来したのだとすれば、誰彼と云うより四人とも疑わしいといわなければならない。
そう考えると何も彼も分らなくなる。
「こんな時苅田がいて呉れたら」
志津子はふと呟いた。
執事の苅田平吉はむっつり屋の四十男で、何処かに底知れぬようなところも有るが、七年来というもの、全く忠実一方に勤めている模範的な執事だった。
「苅田ならこんな時相談する事が出来るかも知れないのに、いつ帰って来るのかしら」
「しいちゃん、入っても宜いかい?」
扉の外で高野千之の声がした。――夕食から二時間も経って、もう時計は九時に近い。いけません、と云おうとする間に、千之は扉を開けて入って来た。
「淋しい晩だね、エル……いけな、口癖になってるものだから。御免よ」
「千ちゃんでも淋しい事あるの?」
「有るさ、ほんの時遇だがね、淋しくて堪らない時があるよ、――殊に今夜はね!」
「どうして今夜なの!」
「君は嗤うかも知れないが」
千之は窓の近くへ歩寄って、暗い庭を昵と見やりながら云った。
「なんだか今夜は変なんだ。些っとも落着かない。後から絶えず追いかけられているような気持だ。前にもこんな気持を感じたことがある。慥に、そしてよくは覚えていないが、不吉な事が起ったようだ」
「不吉な話なんて沢山よ」
「――僕もさ。……厭な気持だ。ねえしいちゃん、一緒に藤沢へ行ってみないか」
「厭よ」
「そう云うと思ったよ」
千之は淋しそうに笑って、二三歩部屋の中を歩き廻っていたが、やがて、
「堪らない、是じゃア迚も今夜は眠れそうもないし、――藤沢の由村の処へ行って将棋でも指して来よう」
独り言のように呟くと、
「じゃアおやすみ」と云って静かに出て行った。
――あの人どうしたのかしら。
脅迫状の噂で心配している時も時、いつにない高野千之の妙な素振を見て、志津子の不安は一層強くなった。
――いっそお祖父さまにお話してみようかしら?
否えいけない、折角御気分が好くなっていらっしゃるのに、こんな事をお聞かせするなんて法はないわ。強く頭を振った志津子は、やがて小間使のまさやを呼んで寝衣に着替え、読みさしの本を持って寝台へあがった。
十一時を聞くまでうつらうつらしていたが、いつか眠ったらしい。何処かでずどーんと無気味な物音がしたのではっと眼が覚めると、丁度壁の時計が一時を打った。
――妙な音がしたようだけど。
寝台の上へ起直ると、続いて何処かでばたんと扉の閉る音がした。
――お祖父さまのお部屋だわ。
そう思ったので、寝衣の上から寛衣を引掛け、寝室を出ると急いで老子爵の部屋へ馳けつけた。
「お祖父さま、お眼覚め?」
扉を叩きながら呼んだ。
「…………」
「お祖父さま、まだお眼覚め?」
「…………」
返事は無かった。――若しや? と思うと矢も盾も堪らず、扉を押開いて中へ入った。部屋の中には電灯が明々と点いていた。そして老子爵は、安楽椅子と一緒に床の上へ倒れている。
「あ! お祖父さま!」
叫びながら走寄ったが、然し彼女は慄然と其処へ立竦んで了った。血! 血! 老子爵の後頭部から溢出る血が、床にべっとりとひろがっているではないか。
「まさや――」
志津子は絶叫しながら部屋からとび出した。
下男の六助爺やとまさやと、老女中とが駈けつけてきて、すぐに医者と警察とへ電話をかけた。然し井上も久良も荒木も家の中にはいなかった。――むろん高野千之も……。
警察からは署長はじめ腕利きの刑事たちが時を移さずやって来た。――調査の結果は左の通りであった。
即ち、犯人は窓から侵入し、安楽椅子で読書していた老子爵を、鉄棒で殺害し、金庫の中から六千円余りの現金を盗んで逃亡した。是が事実のあらましである。
恐るべき事件は遂に行われた。
「あの人たちを捉えて下さい」
志津子は狂気したように叫んだ。
「久良と荒木と井上、それから、それから高野さん。この四人を捉えて下さい、犯人はきっとその中にいます」
「お嬢さんどうか落着いて下さい」
「否え、あたし知っています」
志津子は署長の言葉を遮って叫んだ。
「あの人たちは此の家の財産を狙ってました。でもあたしは皆を嫌っています。皆はそれで脅迫状だのなんだのとあたしを脅かしていました」
「脅迫状ですって――?」
署長が思わず乗出した。――そして志津子から昼間の話を精しく聞取ると、
「そうですか、それは重大な事件だ。――そして四人ともいま此処にいないのですね」
「お夕飯の時は揃っていましたが、高野さんは九時頃、藤沢の友達を訪ねると云って出掛けましたし、あとの三人は居るものと許り思っていたんです」
「おい、直ぐに手配して呉れ」
署長が振返って叫んだ時、――久良と井上と荒木の三人がその部屋へ入って来た。
「――ああ!」
志津子は跳上って叫んだ。
「来ました、あの人たちです」
「ど、どうしたんですか」
三人が此場の異常な光景に眼を瞠りながら近寄ろうとするのを、署長が前へ立塞がって、
「待ち給え、説明は僕がする。――子爵は殺害された。犯人はその窓から侵入し、子爵を殺して金庫の金を盗んだうえ逃亡した」
「ほ、本当ですか、――」
三人はさっと顔色を変えた。――署長は冷やかにそれを見やりながら、
「それで訊くが、一体君たちはこんな時間まで何処へ行っていたのかね」
「は、……何処って、その、――」
「はっきり云い給え!」
三人とも蒼白になって眼を伏せた。――それを見ると志津子は堪り兼ねたように、
「云えないでしょう、お祖父さまを殺したのは貴方たちです。脅迫状の話など拵て他人の事のようにごまかしたうえ、お祖父さまを殺してお金を――」
「違うよ志津子さん」
荒木が恟りとしながら遮った。
「その疑いはひどい、――では申上げましょう。実は妙な事があったんです。夕飯のあとで部屋へ入りますと、脅迫状と同じ筆跡の手紙が置いてあって、午前一時までに西浜の一本松の下へ来いということが書いてあったのです。重要な話で決して危険はないということですから、行ってみますと、久良と井上が待っていました」
「僕たちも同じ手紙を受取ったのです」
井上一郎が側から云った。
妙な話である、署長は真偽を確めるために、厳重な訊問を始めた。……そして、両方で受取った手紙を調べたり、西浜の一本松へ刑事をやって、本当に三人がそこで何時間かを過したかどうかを調べたり(事実、そこには夥しい煙草の吸殻や燐寸の燃さしが落ちていた)しているうちに、すっかり夜が明けはなれて了った。
時計が六時を打った時、旅行鞄を持って執事の苅田平吉が帰って来た。――彼は下男に事件を聞いたらしく、すっかり取乱した様子で志津子の側へあたふたと走寄りながら、
「お嬢さま、――お嬢さま」
しどろもどろだった。志津子も涙ぐみながら咽ぶように、
「苅田、どうしておまえ早く帰って来て呉れなかったの。おまえさえ居て呉れたら、こんな事には成らなかったかも知れないのに」
「申訳ございません。兄の病気がはかばかしくなかったものですから、……して、犯人はもう捉ったのですか」
「君はここの執事だね?」
署長が近寄ってきて訊いた。
「はい、左様でございます」
「岡山へ行っていたそうだが、いま帰って来たのか?」
「はい、午前五時三十分藤沢駅着の列車で帰って参りました」
「間違いないだろうな?」
「決して嘘は申し上げません」
苅田平吉がはっきりと答えた時、――客間の方から扉を開けて、高野千之が悠々とした足取で入って来た。――そして、署長はじめ一同が唖然としている中を、部屋の中央まで進んで来ると、両手をひろげながら云った。
「皆さんは僕を捜していらしったのでしょう。僕も子爵を殺害した嫌疑者の一人だということで急いでやって来ました。――おっと待って下さい。僕に少しのあいだ饒舌らせて頂きたいんです。宜いでしょうな? 署長さん」
「事件の経過はもう御承知の通りです。そして僕と久良、井上、荒木の四人は最も疑われる立場にいます。――実は、僕はさっきから次の部屋で聞いていたのですが、井上君たちが西浜の一本松の処に数時間いたという事は、事実として正確ではありません。そこに煙草の吸殻や燐寸の燃えさしが有ったとしても、それが確に昨夜のものだという証拠がないからです」
「君は我々を犯人だと云うのか」
井上が呶号した。
「君こそ今まで何処にいたか分らないのに。僕たちを呼出した手紙も或は君の仕業じゃないのか!」
「まあ聞き給え、本論はこれからだ」
千之は静かに笑って、署長の方へ振返った。
「署長さん、この部屋の物には誰も手をつけてないでしょうね」
「何一つ手を触れては居らん」
「あの足台もですね」
皆は千之の指さす方を見た、――倒れている老子爵の足の方に、子爵が常に痛風症に悩む足を載せて居た足台が転げていた。
「むろんあれも彼処に在ったままだ」
「ねえしいちゃん」
千之は志津子の方へ振返った。
「子爵はこの三四日ひどく具合が好くて、足台は片付けさせた筈だね」
「ええそうだわ」
「妙だ、――僕がゆうべ来た時も、こいつは卓子の隅に片寄せてあった。――署長さん、此処にいる者は、みんな足台が片付けてあったのを知っています」
「一体それがどうしたのかね」
「お分りになりませんか」千之はにやりと笑って、
「犯人はですね、この足台が片付けてあった事を知らなかったんです。例えばですよ、執事の苅田君は一週間まえに岡山へ立った。その時はまだ子爵は足台を使って居られたのです。だから若し、例えば苅田君が犯人だとすればですね、子爵を殺してから、部屋の中に証拠になるような痕跡を残しはしなかったかと見廻した時、足台の位置が違っているのをみつけ、ふと日頃の習慣で元の位置へ直す――つまり、片付けてあったのを知らずにですね」
「ば、ばかな事を云うなッ」
苅田平吉が喚きたてた。
「怒ったね苅田君、――今のは例え話さ。つまり足台の位置を直した者があるとすれば、ここには君より他に誰もいないと云ったんだ」
「それでは私が犯人だと云うのか」
「僕はそいつを疑いたいんだ。――何故って、君はそこに鍵束を持っているね」
「…………」
苅田は恟としながらチョッキの胸を押えた。
「それは酒蔵の鍵だ。そしてその鍵は、昨日まさやが使ったんだぜ。――子爵が葡萄酒を飲まれるので、君の部屋から此処へ持って来てあったんだ」
「そうよ、そうだわ!」
志津子が思わず叫んだ、――千之はずいと一歩進んで鋭く突込んだ。
「君は昨夜この部屋へ来た。そして老子爵を殺害し、金を奪って逃げたんだ。――何よりの証拠を云ってやろうか、君はいま午前五時三十分着の一番列車で藤沢へ着いたと云ったが、その列車は沼津で脱線して二時間の延着になっているぞ!」
「――あっ」
苅田平吉はよろよろとよろめいたが、
「畜生ッ」
と喚きざま、猛獣のように千之へ掴み掛った。間一髪千之はひらりと体を捻ると、苅田の利腕を逆に取って捩上げ、腰車にかけて、
「やっ」
と其の場へ叩きつけた。――とたんに刑事たちが折重って手錠を掛けて了った。
「苅田は七年のあいだ実直に勤めながら、実は絶えず隙を狙っていたのです」
それから五日めの朝、志津子と千之はベランダで紅茶を啜りながら語っていた。
「そこへ僕たち四人が来た。僕は別として井上や久良や荒木が、ここの財産めあてに貴女と結婚しようと企んでいる事を知り、――自分は偽の電報で兄が病気だと云って、岡山市へ立ちました。むろんそれは表向で実はこの土地に隠れて居り、荒木と井上へ別々に発見されるようにして脅迫状を送ったのです。彼等は貴女に恩をきせようとして、互いに競争するでしょう、それは詰り却って貴女に彼等を疑わせる事になるのです。――事実、貴女は彼等を疑いました。そこで苅田は、偽筆の手紙で三人を一本松へ誘い出し、その留守にあの恐ろしい事をやってのけたのです。
僕も、実は昨夜までは三人が怪しいと思っていました。何か仕出来しはしないかと注意していたんです。若し苅田の方に気がついていたら、子爵をお救いする事が出来たでしょうに、……それを思うと残念です」
「でもお礼を申しますわ。本当を云うとあたし貴方を疑っていましたの、馬鹿でしたわねえ」
「せめてもの慰めは、子爵の仇を其場で発見する事が出来たことです。――苅田も悪人に似合わぬ愚者でした。あの足台と鍵。執事としての日頃の習慣が、彼を自滅させたのです。それからあの一番列車、――」
「一番列車が?」
「沼津で脱線したなんて嘘でした。それは奴が一番列車で本当に来たかどうかを試す罠だったのですよ」
「――まあ」
「ねえしいちゃん」
千之が云いかけるのを、志津子がそっと遮りながら云った。
「エルって云って頂戴」
「え? ――許して呉れるのかい?」
「ええ、貴方にだけ……」
「占めた!」
千之は手を拍って叫んだ。――この悲劇の家に、それが初めての明るい声であった。