『伝四郎兄妹』

伝四郎兄妹 山本周五郎

あらすじ

『伝四郎兄妹』は、山本周五郎による歴史小説で、戦乱の世を舞台に、一族の名誉と家族の絆を守るために奮闘する若菜とその兄、菊池伝四郎の姿を描いています。物語は、天正二年、肥前国大村城での生活から幕を開けます。城は隣国との戦争に備え、男女老若問わず戦に必要な物資の製造に励んでいました。若菜は、この戦乱の中で矢を製造する日々を送っている最中、妹の千浪がいじめられていることに気づきます。妹を守るために立ち上がった若菜は、千浪がいじめられている理由が、彼女の兄である伝四郎が敵に寝返ったという無実の噂にあることを知ります。

伝四郎は大村城の重要な武将であり、家族と共に名誉高き菊池家の血を引いています。しかし、彼が敵に内通したという噂は、若菜の家族を大きく揺さぶります。若菜はこの不名誉な噂を晴らすため、そして真実を探るために、敵の陣地へと向かう決意を固めます。彼女は身を隠して敵地へ潜入し、兄の無実を証明しようとしますが、途中で敵に捕まり、厳しい試練に直面します。

一方、伝四郎は実は密かに大村軍のために働いており、敵軍内で情報を収集し、大村軍の勝利に貢献する重要な役割を果たしていました。彼の行動は家族にさえ秘密にされており、その真実は若菜が敵陣から脱出し、大村軍に重要な情報を届けることで明らかになります。

若菜の勇敢な行動と伝四郎の献身的な努力により、大村軍は敵軍に大打撃を与えることに成功します。物語は、家族の絆、名誉、そして信念の重要性を強調し、どんなに困難な状況でも、真実と正義が最終的には勝利することを示して終わります。

『伝四郎兄妹』は、単に歴史的な出来事を描いた物語以上のものを提供します。それは、信念を貫くことの大切さ、家族の絆の力、そして不当な非難に立ち向かう勇気についての物語です。山本周五郎は、この作品を通じて、人間の尊厳と勇気の本質を深く掘り下げ、読者に強い印象を与えます。

書籍

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本文

若菜わかなはせっせと矢竹をけずっていた。
そのまえの年、天正てんしょう二年の冬からとなりの国と戦争をしているので、この肥前ひぜん(長崎県)大村城のるすをまもるものたちは、鎧甲よろいかぶとのつくろいをしたり、武者草鞋わらじや弓矢をこしらえたり、女も子供も手のあるかぎりは戦に必要な物をつくるのにいそがしかった。
――おや?
若菜はふと手をとめた。
道の方で子供の泣き声がする、それがどうやら妹の千浪ちなみの声らしい。
「若菜、泣いているのは千浪ではないか」
となりの部屋で母がいった。
「ちょっと見てきておやり」
「はい、――」
若菜はすぐに立ちあがった。
表へ出てみると、はたして妹の千浪が泣きながら帰ってくるところだった。いそいでかけよろうとして気がつくと、着物がまるでどろだらけになっている。
「まあ千浪、どうしたの」
「――お姉さま」
姉の姿をみつけると、千浪はもっと大きな声で泣きだした。
「どうしたの千浪、もう七つにもなるのに、ころんだくらいでそんなに泣くひとがありますか、戦場へ行っているお兄さまのことを考えてごらんなさい」
「――ころんだのじゃないわ」
「ではどうしたの、こんなにどろだらけになって」
「みんながぶっつけたのよ」
千浪はくやしそうにいった。
「お兄さまの悪口をいって、お兄さまが裏切者なんですって、卑怯者ひきょうもので不忠者ですって、そして千浪がそんなことうそよっていったら、みんなでどろをぶっつけたんだわ」
「――まあ!」
若菜はおどろいて向こうを見た。
侍屋敷のつじのところに、五、六人の少年たちがこっちを見ながらはやしたてている。みんな身分のある武家の子たちだった。
「千浪、おまえは家へ帰っておいで」
そういって若菜はずんずん少年たちの方へ行った。
兄の菊池伝四郎きくちでんしろうは、やり組の五十人頭として戦に出ている、菊池家は吉野朝の勤王家として名だかい、肥後ひご(熊本県)の菊池の血統をひいているもので、大村城でもすじ目の正しい家柄として人々からうやまわれていた。
若菜は十五歳の少女であったが、
――裏切者、不忠者。
といわれることが、武士にとってどんなに大きなはじであるかということはよく知っていた、ことに菊池家は勤王の血統で、大義名分を命よりもたいせつにする家柄である。
――そんなうわさをするものはゆるしてはおけない。
そう思って近寄っていった。
少年たちは意地の悪い眼つきで、腕をくんだり胸をつきだしたりしたまま、へいぜんと立っていた。
「いま千浪を泣かしたのは誰です」
若菜はしずかになじった。
「おれたちだ」
十五、六になる少年が答えた。
「おれたちみんなだ、悪いかい」
「男のくせに小さい子をみんなでいじめるなんて卑怯だとは思いませんか」
「へ! 卑怯とはそっちのことだろう」
「なぜわたくしが卑怯です」
「卑怯者の妹なら卑怯にきまっていらあ。裏切者の伝四郎の妹なら、やっぱりおまえたちも裏切者じゃないか、ほんとうなら菊池の家のものはみんなこの大村からほうり出されるんだぞ」
「おだまりなさい!」
若菜は身をふるわせながらさけんだ。
「ほかのこととは違います。武士に向かって裏切者などといえば、どんなことになるか知っていますか」
「知っているさ、へん」
少年はあざ笑っていった。
「おまえの兄の伝四郎はな、敵軍の方へねがえりをうって味方の陣地のことをしゃべってしまったんだ、そのために味方は釜伏山の陣地を敵軍にとられてしまったんだぞ」
「うそです、そんなことはうそです」
「うそだと思うなら、侍大将の玄蕃げんば様の家へ行ってきいてみろ、伝四郎はいま敵軍のなかで働いているんだ、裏切者なんだ!」
「…………」
若菜の顔はすっかりあおくなった。
そして、しばらくその少年の顔をにらみつけていたが、やがて侍大将の家の方へ走っていった。

「若菜……おまえどうかしたのかえ」
夕飯のぜんに向かいながらはしもとらずにいる娘のようすを見て、母親は心配そうにたずねた。
「――お母さま」
若菜は涙のたまった眼をあげた。
「わたくし今日、いやなうわさをききましたの」
「なにをきいたの?」
「お兄さまのことなんです」
母親は少しあわてて眼をふせたようだった。若菜はそれを見のがさなかった。
「お母さまもごぞんじなんですのね」
「――おまえ、……」
「お兄さまが敵軍へねがえりをうったので、釜伏山の陣地をせめとられたということ、お母さまはもうごぞんじだったんですのね」
「――知っていました」
母親はかなしげに眼をふせた。
「知ってはいたけれど、そんなうわさをとりあげておまえを心配させてはわるいと思って」
「いいえうわさではありません、わたくし玄蕃様のお家へ行ってきいてまいりました、裏切者とまではおっしゃいませんでしたけれど、お兄さまがいま敵軍のなかではたらいていることはほんとうだといいました、釜伏山の陣地を敵にとられたのもほんとうだとおっしゃいましたわ」
「――それで」
と母親はうたがわしげに娘を見やった。
「おまえそれで、どうお思いなの?」
「どうってお母さま」
「世間のうわさや玄蕃様のお宅できいてきたことをほんとうだとお思いですか、伝四郎が裏切者だということを信じるのですか」
「――お母さまはお信じになりませんの?」
「若菜、ちょっとこちらへおいで」
そういってたちあがると、母親は娘を仏間へつれてはいった、そしてしずかにすわりながら、
「御先祖のお位牌いはいのまえで、あらためておまえにききますが、――もしおまえが戦争に出て、味方が負けそうになったときはどうしますか、自分の命がおしさに敵軍へ降参しますか」
「いいえ、味方といっしょにりっぱに討死をいたします」
「ではもしきずをおって敵軍にとらえられたとしたらどうします」
「捕虜になるくらいなら、舌をかんででも自殺します」
母親はうなずいていった。
「女のおまえでもそれだけの覚悟はありましょう。若菜伝四郎は菊池家の主人です、おまえは女だけれど伝四郎は武士ですよ、おまえのからだにながれている血と、同じ血をもっているのですよ」
「…………」
「女のおまえでさえそれだけの覚悟をもっているのに、男の伝四郎が裏切などをすると思いますか」
「…………」
「世間でなんといおうと、玄蕃様がどのようにおっしゃろうと母は伝四郎を信じています。おまえにはまだ信じられませぬか」
「……いいえ、いいえお母さま」
「それならつまらぬ心配はおやめなさい、そして兄さまを信じているのです。世界中の人たちが悪口をいっても、わたしやおまえは信じていなければいけません、わかりましたね」
「……はい」
若菜はおとなしくうなずいた。
けれどそれで心配が消えてしまったわけではなかった。母や自分がいくら信じていても、裏切者という世間のうわさはどうしようもない。このままでおけばやがて、母や自分たち姉妹はこの城下からおわれるかも知れない。いやそれよりもたいせつなことは菊池家の名誉だ、武時たけとき公からこのかたけがれなき家名を、不忠不義とよばせておいていいだろうか。
――いけない、いけないわ!
若菜ははげしく首をふった。
――たとえ一日だってそんなけがらわしい名でよばせてはおけないわ!
ではどうしたらよいか。
若菜はいろいろと考えた。寝所へはいって枕についてからも、どうしたら不名誉なうわさを消すことができるか、どうしたら兄の汚名をそそぐことができるかと、ふけわたる夜のやみを見すえながら考えめぐらせた。そしてたった一つの方法のあることを思いついた。
――そうだ、敵の陣地へ行こう。
戦のなかではあるが若菜は少女のことだし、身をやつして行けば敵陣へはいれぬことはあるまい、そして兄をさがしだしてほんとうのことをきくのだ。
――そのほかにしようはないわ!
若菜はけなげにも覚悟をきめた。
夜のしじまをぬって、法念寺の八つ(午前二時)の鐘がきこえてきた。若菜はそっと夜具のなかからぬけ出ると、母の寝息をうかがいながらしずかに書置の筆をとった。
――母上さま若菜は兄上のもとへまいります、そして……。

赤沢龍重あかざわたつしげはもと海賊の出であった。
元亀げんき、天正とうちつづく戦国時代のことで、彼もまた一国一城の主になる野心をもったのであろう、多くの海賊なかまをひきつれて有明ありあけの海から島原しまばらへと入り、大村領の西岸へ上陸するとともに、村々へ火を放ったり良民をおったり、無慈悲のかぎりをつくしながら破竹の勢で大村城へと攻めよせてきた。
壱岐守純忠いきのかみすみただはすぐ兵を出してこれをふせぎ、ひとたびはこれをおっぱらったのであるが、赤沢軍は海賊であるだけに鉄砲と火薬をたくさん持っていたので、いつか大村軍ははんたいにおしかえされ、ついには釜伏山の要害をも敵にうばわれてしまった。――そこは一番高いところが標高千米あまりある山脈で、大村城下を東方二十四キロの近さに見おろしている、そしていま敵は更にそこへかたいとりでをつくっているのだ。
大村軍はあいだ十二粁をへだてて陣をかまえ、すきがあったら攻めかかろうとおりをねらっているが、なにしろすぐれた鉄砲にさまたげられて動くことができない、――若菜が兄をさがしにでかけたのはこういうありさまのときであった。
若菜はまずしいみなしごというすがたにやつし、いちど有馬領へはいって大まわりに釜伏山の西がわへやってきた。もうそのあたりは赤沢軍の勢力のなかで、いたるところに陣屋や木戸があり、土はこびの人足や、さくを建てほりをほる人たちが行ったりきたりしているし、そのあいだを騎馬の武士が走ってゆくかと思うと、列をつくった兵たちが、かわいた道にもうもうと土けむりをあげながらすすんできたりする。――若菜は五日ほどのあいだ、そのこんざつのなかにまぎれこんでいたが、いつか陣屋の兵たちとしりあいになった。
――戦のために家を焼かれ、親兄弟ともわかれわかれになったみなしご。
そういう身の上の者は少くなかったし、ことに少女だということが敵をゆだんさせたのであろう。しばらくすると交代の兵といっしょに釜伏山の陣地へ行くことができるようになった。
しごとは弾つくりである。
いよいよ釜伏山の陣へ近よることはできたが、ここはさすがにきびしく、若菜は陣の外にいて弾をつくったり、兵たちの用事をしてやったりするだけで、なかなか砦のなかへはいることはできなかった。
しかし若菜はあせらなかった。
おとなしく、みんなのいうことをよくきいてせっせと働いた。
そしてそのあいだにいろいろなことを知った。兄がいま赤沢軍の本営にいるということ、釜伏山をせめとる手引をした手柄でやり組の百人頭になり、大将赤沢龍重の参謀格だということなど。
――では、うわさはほんとうなのだ。
きくにつれていまわしいうたがいがほんとうになってくる。
――ほんとうにお兄さまは裏切ったのか。
――いいえそんなことはないわ、お兄さまは武士よ、あってたしかめるまでは信じていなければいけないわ。
うたがいとまどいとがこもごも若菜の胸をくるしめた。
こうして更に十日ほどたったある日のこと、若菜はつくった弾を砦のなかへ運ぶようにと命じられた。――待ちに待った時期である、若菜は大勢の人夫や兵たちにまじって、火薬や弾を砦のなかへ運んでいった。
火薬も弾も驚くほどたくさんなかずだった。
「いよいよ大決戦がはじまるそうだ」
「この弾薬で大村勢をひとうちにせめやぶるのだ、みごとな戦がはじまるぞ」
「赤沢軍の鉄砲陣は天下無敵だからな」
そんなはなし声が耳についた。
すっかり運びこむのにはいく日かかるだろう、ちょうど三日目の日暮れのことであった。人夫たちがべんとうをつかっているすきをうかがって、若菜はすばやく本営の方へしのび出ていった。
かねて兄のいる陣屋はきいてあったのだけれど、いざさがすとなるとそうたやすくはわからなかった、そのうちにすっかり暮れて夜になった。戦のなかのことでむろん篝火かがりびはたかない、時折そのあたりを松火たいまつを持った兵がゆききするほかは、どちらへ向いても壁のような闇でふさがれている。
――どうしよう。
途方にくれてたちどまった時、すぐかたわらにある小屋のなかから、ききおぼえのある声がもれてくるのに気づいた。
――お兄さまだ!
すぐにそうわかった。
あらけずりの板をうちつけただけの羽目へ、そっと耳をあててきくと、いましも声高に話していた二、三人の者が外へ出てくるらしい。
若菜はぴたっと身をかたよせた。
「ではこれで、お造作をかけました」
「失礼いたします」
そういう声がして、戸口があくと、ほんのりさしてくるほかげのなかを四人の武者が立去ってゆく、――兄の姿はみえない。若菜はすべるように戸口の前へ走りよると、いま、しめようとしているところへ、ひらりと身をひるがえしてとびこんだ。
「――誰だ!」
といって身をひいたのは兄であった。

若菜はうしろ手に引戸を閉めながら、
「わたくしです」
「……?」
「若菜です、お兄さま」
場所も場所、おまけにすっかり身なりが変っているので、すぐにはそれとわからなかったらしい、――しかしそこに立っているのが妹だと知ったとき、伝四郎は夢ではないかとうたがうように眼をみはった。
「おまえ、おまえ、若菜か」
「――お兄さま!」
「まて、どうしてこんなところへきた、なんのためにきたのだ」
「おわかりになりませんの?」
若菜はじっと兄の顔をみつめながら、そういってひと足まえに出た。
「わたくしお迎えにきたんです、これからすぐ若菜といっしょにお帰りくださいまし、大村へお帰りくださいまし、そして……裏切者だという汚名をそそいでくださいまし」
「だまれ! 兄に向かって裏切者とはなんだ」
「わたくしが申すのではありません、大村城下の人たちがそういうのです。子供たちは妹にどろを投げつけます、お兄さま! 帰ってみんなに裏切者でない証拠をみせてやってくださいまし」
「――いやだ、帰る必要はない」
「なぜですの、どうしてお帰りになりませんの、母さまや千浪やわたくしが、犬のように大村からおわれてもいいのですか」
伝四郎はぐっと妹の手をつかんだ。それは他人同志のようなえんりょないつかみかたであった。若菜はふりはなそうとして、そのいたさに思わずあっと声をあげた。
「お兄さま!」
「さわぐな、いま思いついたがおまえはいい時にきてくれた」
「――?」
「おれは人質が欲しかったのだ」
伝四郎は唇だけで笑った。
「おれはまだほんとうに赤沢軍に信用されているわけではない、おれはどうしてもここでみんなにおれの心を信じてもらわなくてはならないのだ。どうしても、五十人や百人の足軽頭になるつもりでここへきたわけではないからな」
「それは……どういういみですの?」
「おれは出世をするんだ、一方の旗頭になるんだ」
「――お兄さま!」
「こっちへ来い、さわぐといたいめにあうぞ」
若菜はふるえあがった。
兄はもうまえの兄ではない。顔つきも眼の光も、かつて見たことのないほどあらあらしくかわっている。そして骨もくだけるような力で若菜の手首をつかんだまま、ずるずるとひきずりながら小屋の外へつれだした。
「お兄さま、あなたはわたくしを!」
「なに、しばらくのしんぼうだ」
伝四郎は妹のさけびをひややかにさえぎって、
「おれが出世をすればまた自由の身になれるさ」
「――はなしてください」
若菜は全身の力をこめてさからった、しかし伝四郎はもうなにもいわず、恐しい力でひきずりながら、石塁にそって五十歩ばかり行ったが、やがて番所といえる小屋の前まで来ると、
「――番頭ばんがしら殿はおられますか」
とよびかけた。
「誰だ」
「菊池伝四郎でございます」
「よろしい、はいれ」
へんじをきいて伝四郎はなかへはいった。雑兵が三人ほど、ほかにひげをたてた鎧武者よろいむしゃが一人、燭台をひきよせてなにか書いていた。
「……なにか用事でもあるか」
「大村軍の者がここへしのびこんできていました」
「なに!」
鎧武者は筆を投げだしてぎろりと眼をあげた。
「この娘です」
伝四郎は若菜をつきはなして、
「大村城の武士の娘です、どうやら人夫共にまぎれこんできたようです」
「どうしてそれがわかったのか」
「拙者の妹です!」
鎧武者はむろんのこと、そこにいる雑兵たちまでがあきれて眼をみはった。――伝四郎はむしろそれをほこるかのように、
「妹ではございますが、赤沢軍の百人頭である拙者にはもう他人も同じことです。お引渡し申しますからよろしくおはからいください」
「――そうか、りっぱなしかただ」
鎧武者はにやっと笑っていった。
「逃がせば逃がせるものを、よくうったえて出たな。じつはいま……貴公の小屋の外で貴公たちの問答をきいていた者があるのだ。しかしこれでいままでのうたがいはすっかりとはれるだろう」
「そうなればありがたいと存じます」
「――お兄さま!」
若菜はのどもさけよとばかりさけんだ。
「あなたはほんとうに裏切者だったのですか、あなたは妹まで……」
「この娘をひいてゆけ!」
鎧武者が若菜のさけびをさえぎってどなった。
「そして牢屋ろうやへおしこめろ」

暗い牢屋のなかである。
外は恐しい暴風雨である。
あれからまる一日たつ、若菜は運ばれてくる食物にも手をつけず、ひと口の水も飲まない。
牢屋のすみにじっとすわったままだ。
――兄は裏切者だった。妹さえも敵の手へつき出した。そして侍大将に出世しようとしている。もうなにもかもおしまいだ。
――生きてはいられない。
そんな言葉が、頭のなかでうずのようにぐるぐるとまわる、若菜はほんとうにいくたびか舌をかみ切ろうとした。しかしそれはできなかった、母を思い妹の千浪を思うと、
――このままでは死ねない。
という気がする。
ではどうしたらよいのか、たとえ生きてここをぬけだすことができたとしても、大村へ帰って兄が裏切者だということを母に話すことができるだろうか、あんなに兄を信じている母は恐らく生きてはいまい、それくらいならここで死んでしまう方がいいのではないか、そうすればいくらかでも母の悲しみをのばすことができる。
とつおいつ、考えふけっていた若菜は、妙な物音を聞いてはっと我にかえった。
「……若菜どの、――若菜どの」
誰か人の呼ぶ声がする、そして、まもなくがちりとかぎのあくひくい音がした。
「若菜どの、どこにいますか」
「――どなたです?」
「早く、早くこっちへきてください」
若菜はすぐには立てなかった、しかしやがて誰か助けにきてくれたのだと気づいた、そしてからだじゅうの血がいちじに動きだすのを感じながら声のする方へはせよった。
「――しずかに、あわててはいけません」
「はい」
「これをきて、このかさをかぶって」
やみのなかで、男はすばやく若菜にみのをきせ笠をかぶらせると、
「おちついてください、足もとに気をつけて」
そういって手をひきながら牢屋の外へ出た。
なぐりつけるようなはげしい雨と風だった。若菜は男のみちびくままにむちゅうで歩いた、石塁にそっていくたびかまがり、さくへくるとかねてつくってあったらしいぬけ口からくぐり出た。
「――あなたは、どなたですの」
若菜はそこまできてやっとそうきいた。
「私は大村から隠密としてこのとりでへはいっていた者です、――こっちへきてください、馬が用意してありますから」
「どうしてわたくしが牢屋にいたのをごぞんじですの?」
だん!
だん!
とつぜん、すさまじい銃声がおこった。
「――城ぬけだっ」
「みんな出ろ、城ぬけだ――」
烈風をぬってよびかわす声がきこえた。
「いけない、みつけられました」
男は若菜をつきとばすようにして走った。そして馬のつないであるところへくると、すばやく若菜をおしのせ、自分ももう一頭の馬にまたがると、くつわをならべて走りだした。
このあいだに城兵は松火たいまつをかかげ、石塁の上に銃口をそろえて、いっせいにねらいうちをはじめた。
だん! だあん※(感嘆符二つ、1-8-75)
豪雨をつんざく銃声とともに、びゅっ、びゅっ、と弾が二人の左右をかすめ飛んだ。
「あぶないからだをふせて」
男はさけびながら、自分の馬を若菜のうしろへまわして、あおりたてあおりたて走った。しかし道はひどいくだり坂である、うっかりすると人馬もろともとがった岩へたたきつけられるだろう、――もうひといきかければまがり道になる。
と思ったとき、
「あっ――」
とさけんで男は前かがみに馬首へたおれかかった。
背中から胸へ一弾、射抜かれたのである。悲鳴をきいて若菜がふりかえると、男はさっと馬をよせながら、――ふところから一通の書状を取出して若菜の手へにぎらせた。
「これを、本陣へ、とどけてください」
「――はい」
「この道を左へ、くだるとくらやみ谷です、あとは大村まで一本道、たのみましたぞ」
「でも、あなたは?」
若菜がさけんだ時、男は大剣をぬいて若菜の馬のしりをさっとなぐった。むろん峰打みねうちである。しかしおどろいた馬は、ちょうど、ややなだらかになった坂道を矢のように走りだした。
それを見送って、男はぐっと手綱をしぼった。
暴れくるう風雨のなかを、砦からくりだしてきた追手の馬蹄ばていの音が近づいてくる。
だん! だん! だん!
めくらうちの弾が飛ぶ。
「――よし」
男は重傷の身をくらのうえにおこすと、最後の力をふるって若菜の去った道とは反対の方へ馬首を向けた。――若菜を完全に逃がすために、彼は自分のからだをなげ出して敵を逆の方へさそったのである。
追手の騎馬ははたしてそのあとをおっていった。
烈風は木々をもみたて、豪雨はやみの山道にしぶきをあげている。暴風雨、暴風雨!

谷をくだれば大村の陣まで八粁。
若菜は必死に馬をあおった。やみのなかを真一文字に、畑もやぶも、丘も小川も、馬蹄の下にふみにじりながらかけにかけた。
大村軍の木戸のまえで、
「――誰だ!」
という番士の声をきかなかったら、恐らく馬もろともに木戸へたたきつけられたことであろう。
「とまれ!」
「誰だ、どこへ行く!」
さけびながらばらばらと四、五人の番士がとびだしてきたので、若菜はぐいぐいと手綱をしぼりながら、ようやく馬をとめ、
「釜伏山の、砦へ、はいっていた隠密です」
とさけんだ。
「なに隠密だと?」
「たいせつな手紙を持ってまいりました、いそいで御本陣へおとりつぎください」
そういいながら馬をおり、あずかってきた書状を渡すと、若菜はそのままふらふらとそこへたおれてしまった。
まる一日以上も飲まず食わずのうえに、生死の境をふみこえてきたのだ、十五の乙女のからだにはそこへつくのが精いっぱいだったのである。――どのくらいのあいだ気絶していたかわからない。
「これ、若菜、若菜!」
とよぶ声に、
はっと気づいてみると、自分は本陣の仮屋のなかにいた。燭台しょくだいがあかあかとかがやいて、左右には武将たちがいならび、正面には美々しき出陣のしたくをした壱岐守純忠がいた。
「――あ」
とおどろいてたちあがろうとすると、
「よいよい、そのままでよいぞ」
と純忠が声をかけた。
「今宵のはたらきあっぱれであった、か弱い少女の身でよく大任をはたしてくれたな、――さすがは菊池伝四郎の妹、まんぞくに思うぞ」
「――もったいのうございます」
若菜は悲しげにひれふしていった。
「兄は、兄はお味方を裏切り……」
「まてまて、そのあとは申すな」
純忠は微笑しながらおしとどめた。
「伝四郎は裏切者ではないぞ」
「――え※(感嘆符疑問符、1-8-78)
「敵陣へかけこませたのは余の申しつけだ、裏切者といううわさを立てたのも、こちらへいりこんでいる敵の隠密にうたがわれまいためだ。――玄蕃、わけを話してやれ」
「はっ、かしこまりました」
侍大将俵藤ひょうどう玄蕃は、若菜の方へ向きなおってしずかにかたりだした。
伝四郎は裏切者ではなかった。
純忠の命令で敵に内通するとみせかけ、大村軍はわざと釜伏山を退却したのである、――なぜかというと、赤沢軍はすぐれた鉄砲陣をもっている、火薬も余るほどある、その頃はまだ鉄砲はそうたくさんにない武器で、それをあまるほどもっている赤沢と戦うことはどこまでも味方のそんだ。
そこで釜伏山を敵にあたえれば、非常によい要害だからかならず根城にするにちがいない、そしてあるだけの鉄砲、弾薬をたくわえるだろう、そこをねらってたくわえた火薬を爆発させれば、もう鉄砲は役に立たなくなる、そのうえで一挙にせめほろぼそうというのであった。
「――そして計画は思う通りにいった」
と玄蕃はひと息ついていった。
「この手紙はおまえの兄伝四郎が書いたものだが、弾薬は昨日ですっかり運びこんだそうだ、そしていまその火薬庫へ火をかけるばかりだと書いてある。
――わかったか、おまえを敵に渡したのは、いつも城兵が眼を光らせていたからで、そのときも小屋の外にたちぎきをしていた者があったのだそうだ。……妹にはよく話して、にくい兄だと思わないでくれと書いてあるぞ」
――お兄さま!
若菜は胸のなかでくるおしくさけんだ。
――かんにんしてくださいまし、若菜は知らなかった、知らなかったのでございます。
湯のような涙がはらはらとあふれおちた。
そのときである!
地震かと思われるような、ずずずずんというはげしい地鳴りがしたと思うと、釜伏山の方にあたって百雷のひきさけるような大爆音がおこった。
「それ、やったぞ!」
人々は仮屋の縁先へ走り出した。
ようやく白みはじめた釜伏山の頂上から、紫色の大きな火柱が宙へふきあがっていた。
轟然ごうぜん! 轟然!
火柱はつづけさまに三度天をついた。
「――出陣、出陣」
大将純忠がりんりんとひびきわたる声でさけんだ。
陣鐘がなり、竹法螺たけぼらがほえた、まちにまった時がきたのである。大地をどよもすときの声とともに、第一陣は潮のように進軍をはじめた。
えいえい、おうおう!
えいえい、おうおう!
あかつきかけて暴風雨はゆるんだ、夜あけのなかを堂々と進軍してゆく第一陣、つづいて第二陣、旗差物は万羽の海鳥のごとく、平原を圧してひるがえりひるがえりおしてゆく。
若菜は泣いた、涙がほおをつたって流れるのも知らず、心のそこからわき上るよろこびと、生きかえったようなたのしさに泣いた。
――お母さま、ごらんくださいまし、このすばらしい進軍をごらんくださいまし、これはみんなお兄さまのお手柄なのです。
泣きながらそうつぶやいた。
――お兄さまは裏切者ではありませんでした。いいえそれどころか、大村軍第一の功名をたてたのです。
若菜はたまらなくなってむせびあげた。むせびながら我を忘れて、
「――お兄さまあっ」と山に向かってさけんだ。
「母さまがまっています、千浪もわたくしもまっています、りっぱなはたらきをしてお帰りくださいまし、お兄さまあっ」
若菜の声ははればれと、力強く朝風にのってひびいていった。天正三年五月二日の朝である。