『亡霊ホテル』
あらすじ
山本周五郎の『亡霊ホテル』は、一見普通のホテルで起こる不可解な出来事を軸に、スリリングな間諜活動の暴露を描いた物語です。物語は、九州大学の研究生である伊藤豊治が、恩師の鹿谷弘吉博士の後を追って東京のホテルに宿泊することから始まります。
しかし、彼の隣室からは一晩中、女性の悲しげな呻き声や紙を引き裂くような音が聞こえてきます。翌朝、伊藤は給仕からその部屋が「亡霊の部屋」と呼ばれ、以前に起きた殺人事件のために客を受け入れていないことを知らされます。
物語はさらに複雑な展開を見せます。伊藤の妹、みどりが突然行方不明になり、伊藤と鹿谷博士は彼女を探し始めます。その過程で、彼らはホテルが実は外国の間諜によって秘密の通信基地として使われていることを発見します。
亡霊の部屋の奇妙な音は、赤外線を使った間諜通信の記録装置の音だったのです。みどりは間諜たちに捕らえられていましたが、彼女の行方不明がきっかけで、伊藤と博士はこの陰謀を暴くことに成功します。
『亡霊ホテル』は、ただの怪談話ではなく、科学と機転を駆使して国家の危機を救う物語として展開します。伊藤と鹿谷博士の勇気ある行動、そしてみどりの不屈の精神が、読者に強い印象を与えます。
山本周五郎は、この作品を通じて、見えない敵との戦いにおける知恵と勇気の重要性を描き出しています。また、亡霊の部屋という設定を利用して、人々の恐怖心を操ることの危険性にも警鐘を鳴らしています。
最終的に、伊藤兄妹と鹿谷博士は、間諜たちを警察に引き渡し、事件は解決に導かれます。しかし、この一連の出来事は、彼らにとって忘れられない経験となり、読者にも深い印象を残します。『亡霊ホテル』は、山本周五郎の巧みな筆致で描かれた、スリルとサスペンスに満ちた作品です。
書籍
朗読
本文
伊藤豊治青年が洗面を済まして着換えをしているところへ、制服を着た給仕が朝の珈琲を運んで来た。
「お早うございます」
「ああお早う」
「好くお寝みになれましたか」
伊藤青年はネクタイを結びながら、給仕の支度する珈琲の卓子に向って掛けた。――あまり機嫌の好い顔つきではない。
「よく眠れなかったよ君、一体この向うの部屋にはどんな客が泊っているんだい? ひと晩中へんな音をたてたり妙な声をしたり、実に閉口したぜ」
「向うの部屋と申しますと?」
「廊下の向うさ、この翼屋で、向うと云えば此室と廊下の向うと二部屋しか無いじゃないか」
給仕はなにか思い当る事があるらしく、サッと顔色を変えながら眼を外らした。
伊藤豊治は九州大学の工科研究室に籍のある研究生で、恩師の鹿谷弘吉博士が、或る研究報告をするため上京した後を追って、その助手を勤めるために昨夜東京へ着いたのである。――ところがこのホテルへ来てみると、博士は研究上の用務を帯びて仙台へ出張したということで、伊藤青年はゆうべ独りでホテルへ泊ったのであった。
彼の泊った部屋はホテルの翼屋で、そこには廊下を隔てて二つの部屋が向い合っている。その向う側の部屋から、――ゆうべひと晩中、女の呻くような悲しげな声や、長い紙を静かに引裂くような物音が、絶えては聞え絶えては聞えして来るので、妙に苛々と寝苦しい思をしながら一夜を明かしたのであった。
「――矢張りお聞きになりましたか」
給仕はやがて声をひそめて云った。
「矢張りって? 何かあるのかい」
「あの部屋には何誰も泊ってはいらっしゃいません。もうずっと以前からお客様をお入れしない事になっていますので、――と申しますのは、実は極く内々のお話なのですが、彼室は『亡霊の部屋』と云って、私共仲間でも怖がって近寄らないくらいです」
「ふふふふ今どき亡霊とは古風だな」
「お笑いになりますが、現に昨夜、貴方様がそれをお聞きになったではございませんか」
伊藤青年はふっと笑い止めた。――ゆうべ深夜に聞いた、悲しげな女の呻声を思出したのである。給仕は更に声をひそめて、
「そうなんです、――此処だけのお話ですが、二年まえの冬の或夜、あの部屋へ泊ったお客様……御老人の方とその若い美しい夫人でしたが、お泊りになった晩、御老人が若い夫人を短刀で刺殺したうえ、御自分も自殺なすったという事件がございました。精しい事情は存じませんですが……お部屋は血でいっぱい、寝台から這いだした夫人が、扉の握を掴んだまま血みどろになって、さんばら髪で死んでいたその凄さ、――今思い出しても慄と……」
給仕はぶるっと身を震わした。
「それ以来、あの部屋へお客様をお泊め致しますと、定って変な事がございますので、――今では使わない事になっているのです。然しどうか……この話は決して御他言下さいませぬように、なにしろこんな事が広まっては客商売のことですから」
「その点は安心し給え、僕なら決して誰にも饒舌りはしないから」
「有難う存じます。若しお望みでしたら早速お部屋を変えましょうか」
「否ここで宜いよ」
「然し若し貴方様に間違いでもありましては」
「まあそれ程の事もなかろう」
給仕は会釈して出て行った。
厭な話である、ゆうべ慥に聞いた女の呻声や、あの長い紙を静かに静かに引裂くような物音が、まざまざと耳に甦って来る。――扉の握を掴んだまま血みどろになって死んでいたという、若い夫人の姿も、どうやら眼にちらつくような気がする。
「ちぇ! 厭な話を聞いた」
舌打をしながらがぶりと珈琲を飲んで、煙草に火を点けようとした時、卓上電話がジリジリと鳴りだした。――受話器を取ると、いきなり活々した少女の声で、
「あら、お兄さまね?」
と叫ぶように云う。牛込若松町に母と二人で住んでいる妹のみどりだった。――伊藤青年とは七つ違いの今年十八で、みどりの下の二字だけ取って「ドーリイ」と呼ばれているお侠な女学生だ。
「なんだ、ドーリイじゃないか」
「ひどいわ、東京へいらしったのにどうして家へ知らせて下さらないの?」
「君は又どうして僕の来たことを知ったんだ」
「ゆうべホテルのロビイでお友達がお兄さまを見かけたんですって、慥かにお兄さまらしいからって知らせて来たのよ、どうして家へいらっしゃらないの?」
「矢張りそうよ」
みどりは電話を切って母の方へ振返った。
「で、一体どうしたんだって?」
「なんだか秘密を要する研究報告のために、鹿谷博士と御一緒に上京したんですって、だからそれが済むまでは家へ来られないって」
「そう――じゃあおまえ、福岡の方へ送る積りで用意しといたズボン下やシャツを持って行ってお上げな」
「そうね、どうせ学校の帰りに麻布の村上さんを訪ねるお約束だから行くわ、そして汚れ物があったら持って来るわね」
一年ぶりで兄に会えると思うと、みどりはもう心も浮々として来るのだった。
学校の退けたのが午後四時、それから片町の友達を訪ねたところが、無理に引留められて、六本木の近くにある「山手ホテル」へ着いたのは午後七時を過ぎた頃だった。――受付で部屋の番号を訊くと、若い給仕がいて三階の六号だと教えて呉れた。
「御案内を致しましょう」
と云うのを断って(不意に行って驚かせてあげよう――と思ったのである)とんとんと階段を登り、右の翼屋の方へ曲って右側の扉、六号と書いてあるのを見て、そっと握を廻してみた、鍵はかけてなかった。
――いるわ。
と思って、首を竦めながらそっと明け、跫音を忍ばせて入った。其処は寝室と前部屋と垂帷一枚で仕切られていて、前部屋には仕事卓子と椅子が数脚置いてある、――その卓子の側に立って、此方へ背を向けて一人の男が何かしていた。
――お兄さまだわ。
疑ってみる迄もなくそう信じたみどりは、いきなり後へ駈け寄って、
「お兄さま今晩は……」
と叫んだ。不意を打たれて相手は、
「あっ!」
と云いながら振返った。――意外にもそれは兄ではなかった。全く見知らぬ人である、みどりは吃驚して二三歩退り、「まあ、済みませんでした、あたくし……」
と詫びようとした時、相手の男は凄じく歯を剥出したと思うと、いきなり扉口へ飛鳥のように跳ついた。そしてスイッチの音がしたとみる刹那、部屋中の電灯がぱっと消えて四辺は真暗闇になった。――これは凡べてあっと云う間の出来事だった。
「あ、あれ!」
闇の中からみどりの悲鳴が聞え、荒々しい争いの気配がした。然しそれは直ぐに鎮まって、間もなく、――何処か部屋の隅の方から、コトンと金具を合せるような物音が聞え……それっきり森閑として人の様子もなくなって了った。
伊藤豊治青年が鹿谷博士と共に帰って来たのは、それから凡そ一時間ほど経って後のことだった。――伊藤青年は夕食前に、仙台から帰るという博士の電報を受取ったので上野駅まで迎えに行って来たのである。したがって留守中にそんな事件のあった事などは知る由もない。
「君の部屋は何号だね」
「翼屋の六号です」
「ははあ、――ではゆうべ何かあったろう」
博士は眼をしかめながら訊いた。
「御存じなんですか、先生」
「うん、僕も初めあの部屋へ入ったよ、どうやら一番静かそうだから望んだのだがね、前の部屋に亡霊が出て少し怖いから引移った訳さ」
「先生まで亡霊を怖がるんですか」
「君だって怖くない事はあるまい、――が、兎に角それに就て少し考えている事があるんだ、まあ……後で僕の部屋へ来給え」
二階の階段で二人は別れた。
伊藤豊治は三階へ上って、扉の鍵を(それはいつかもうちゃんと閉まっていた)開け、中へ入って電灯を点けた。――そして、部屋を温めるために煖房器の栓を捻った時、卓上電話がけたたましく鳴りだした。受話器を取ってみると、牛込の母からだった。
「ああお母さんですか」
「豊治かえ、東京へおいでだってね、御用が済んだら牛込へも寄ってお呉れよ」
「ええ一週間ほどしたら伺います」
「待ってますよ。それからみどりは未だ其方にいるかえ、余り帰りが遅いからどうしたかと思って」
「ドーリイが来たんですか」
「行っていないのかえ」
「否え、――尤も今まで此室を留守にしていましたが、些っと帳場へ訊いてみましょう」
そう云って伊藤青年は呼鈴を押した。
「ふーむ」
博士は深く眉を寄せた。
「母の話では、新しいシャツやズボン下を持たせて寄来したと云うんです。片町の村上という友達の家へ問合せたら、六時頃に出たそうですから、どんなに遅くとも来ない筈はないと思います」
「帳場では何と云ったね」
「その時分丁度みんな食事中で、帳場には若い給仕がいたそうですが、それがもう帰ったあとで分らないと云うんです。――然し来たものなら着換えの包みを預けるくらいの事はして行く筈ですから……」
博士は黙って何か考えていた。白いものの混っている眉毛がひどく顰んで、額に深い立皺が寄っている。
「うむ、うむ、なるほど」
凡そ十分ほども、何事か考えていたのち、博士は急に眉をひらいて呟いた。
「先生、僕ちょっと家へ帰って来たいと思うのですが、妹の身上がどうも心配で」
「まあ待ち給え」
博士は椅子から立って、西側の窓の鎧扉をがらがらと明けた。――外は初冬の寒い風で、高台の街々はもう大方は灯が消えている。然しホテルの建っている場所から、谷を隔てた処に在る第×聯隊のモダン営舎だけは、支那事変のための夜間訓練でもあるか、まだ灯火が美しく燿めいていた。――博士は暫く外の冷たい風を吸ったのち、再び鎧扉を下ろして戻った。
「君はねえ伊藤、――今度の僕の研究が、軍事上の機密に関するものだと云うことを知ってはいないだろうね」
「存じません。ただ厳重な秘密研究だということだけは伺いましたから、此方へ来ても誰にも知らせなかったのです。然し――ゆうべこのホテルへ着いた時、ロビイで妹の友達にみつかったそうで、それで妹が」
「否々、僕はそれを責めているんじゃない、寧ろ妹さんの行方不明になった事が、僕のためには重大な役に立った事を感謝したいくらいなんだ」
「――と、仰有いますと」
「妹さんは必ず無事に帰るよ」
博士の言葉は伊藤青年を愕かした。
「それは本当ですか、先生」
「科学者は根拠の無い事は言わんさ、――だから安心して僕のする事を見てい給え」
博士はそう云って時計を見た。
「まだ九時前だね。宜しい、――君はお家へ電話をかけて、妹さんは此方へ泊ることになったと知らせてあげるんだ。お母さんに心配をかけると不可んからな、それが済んだら暢くり寝て宜しい」
「それで妹の事は……?」
「僕が引受けたと云っているじゃないか、それより君は亡霊に喰われぬ要心でもするが宜い。――じゃあお寝み」
何か仔細ありげな博士の様子を見て、伊藤青年は兎も角云われた通り自分の部屋へ戻った。
母に偽りの電話をかけて置いて、寝台へあがったが中々眠れる筈はない。――妹は一体どうしたのか、どんな変事があったのか、それも何より気懸りであるし、又ゆうべ聞いた向うの部屋の亡霊の声も妙に頭へひっ掛って来る。
――何だか厭な事ばかり続く。
それからそれへ考え廻らしているうちに、それでも朝からの疲れに負けたとみえて、いつかうとうとと眠りはじめた。
――どのくらい眠ったであろうか、ふと耳許で、
「――起き給え、伊藤……」
と囁く声にはっと目覚めると、鹿谷博士が闇の中に立っていて、
「音をさせぬように起きるんだ。支度が出来たら是を持って……」
「――あ、拳銃ですね」
「叱ッ、黙って跟いて来給え」
何が始まるのだろう、急いで身支度をした伊藤豊治は、渡された拳銃を持って、博士のあとからそっと部屋を出た。――すると、意外にも博士は、例の亡霊の部屋へ入って行くのである。
「先生、どうなさるのですか」
「亡霊を退治するのさ」
博士は闇の中でにやりと冷笑したようだった。
――その部屋はひどく埃臭かった。勿論電灯は消えていたが、両側の窓の鎧扉が下りていないので、硝子窓から星空の光が入って来るため、部屋の様子は朧気ながらもよく見ることが出来た。
「此方へ来給え、静かに……」
博士は伊藤青年を北側の隅へ引張って行って、其処に在る卓子の蔭へ身を隠した。
「黙って待つんだ、音をさせては不可ん。亡霊は人のいる気配でも嫌うからな、――なるべく楽にして、僕が合図するまではどんな事があっても動かないように」
博士は耳へ口を寄せて囁いた。
この深夜、殺人の行われた部屋で、亡霊の現われるのを待つ、――他人が見たらそれはまるで中世紀の伝奇物語のような光景だと云うだろう。だがいま伊藤豊治にとっては実に切迫した、実に現実的な気持だった。正直のところ彼は、闇の中に息を殺していたその夜の数時間を思うとき、いまだに不快な、襲われるような恐怖を感ずるくらいである。――夜は更けて行った、そして、やがて階下のロビイの時計が午前二時を打ち始めた。
二時を打った時計の余韻が、寝静ったホテルの廊下にたゆたいながら消えて行った、――そのとたんであった、静かな闇の何処からともなく、
「あああああ、ううううう」
と云う女の呻声が聞えて来た。――それは悲しげな、息詰まるような、聞く者を慄然とさせる、死に瀕した者の呻きであった。
「――先生」
「黙って、黙って!」
博士は強く制した。伊藤青年は脇の下に冷汗の流れるのを感じながら犇と拳銃を握緊めていた。――女の呻声は低くなり、やがて又高くなりつつ断続した、と……間もなく、東側の壁のあたりでカチリ、と云う低い音がしたと思うと、丁度床から七呎あまり上の壁に、ピカリ! ほんの微かな火花のようなものが閃めいた。そして同時に、
ビリリリ、ビリリリリ。
と云う、まるで長い紙をそっと引裂いているような、静かな低い物音がし始めた。
凡べてがゆうべの通りである、――瀕死の女の悲しげな呻き、紙を引裂くような奇妙な音、伊藤青年は総身に水を浴びたように、慄然として息をのんだ。
「そうか、――」
不意に博士が低く囁いた。
「そうか、そうだったのか、――遉にそこ迄はこの鹿谷も気付かなかったぞ、ふふふふ」
「どうなすったのですか、先生」
「叱ッ……誰か来る、――」
慌てて博士が抑えた、――と、いつ何処から現われたか、右手の闇の中に白い被衣を頭から被った亡霊のようなものが、ぼーっと幻の如く現われて来た。伊藤豊治は恐怖のあまり、我を忘れて拳銃の引金に指をかけた。と博士はその手首をぐいと強く掴み、動くな! と云うように押えつけた。奇怪な亡霊の姿が闇の中に現われてから、凡そ二十分も経ったと思う頃……例の紙を引裂くような物音がぴたりと止んだ。――然しまだ、怪しい女の呻声は、断末魔の苦痛を訴えるように続いている。
亡霊は闇の中を辷るように、東側の壁の方へゆらめいて行った。――そこで何かしているらしい、カチリと云う音がして、暫くすると今度は、再び辷るように右手へ去って行く。博士は卓子の蔭から半身を出して見送ったが……亡霊の姿は煖炉の処で、急に掻消すように見えなくなって了った。
「待ち給え、まだ早い」
出ようとする伊藤青年を抑えながら、そのまま約三十分ほど息を殺していた博士は、もう誰の来る様子もなしと見極めがついたか、静かに卓子の蔭から出て、
「さあ愈々虎穴を探るんだ」
と囁いた。「今度は殊に依ると拳銃を使わなければならなくなるかも知れんぞ。だが撃つにしても足を狙い給えよ、決して足の外は撃っちゃ不可んぜ、――来給え」
博士は煖炉の前へ進んだ。亡霊の消えたのは其処である、――博士は跼みこんで、根気よく二十分あまりも煖炉の周囲を撫廻していたが、やがて指先が、煖炉棚の一角に触ったと思うと、火床が音もなく滑って、人一人が抜けられるほどの穴が、其処にぽっかりと口を明けた。
「あ! こんな所に抜け穴が」
「左様、こんな抜穴を使うなんて、亡霊にしては不便極まる話さ。だが、この建物は数年前から煖房器式になっているので、絶対にこの煖炉は使わないのだから、秘密の通路には持って来いの場所だね、――さあ入るんだ」
「大丈夫でしょうか」
「虎穴に入らずんば虎児を獲ずさ」
身を跼めるようにして、博士から先にその抜穴へと入った。――入口は狭いが、入った処は梯子口になっていて、楽に立ったまま下りられる。二人は拳銃を握ったまま静かに、一段一段跫音を忍ばせながら下りて行った。
梯子を下りきった処に扉があった。博士は扉へ耳を当てて暫く様子を窺った後、そっと押明けて中へ入った、とたんに、
「あ、ドーリイ」
低く叫びながら、伊藤青年が博士を押除けて中へ跳込んだ。――正にみどり、妹のみどりが、狭い物置部屋の中に椅子へ堅く縛りつけられたうえ、無残に猿轡を噛まされていたのである。
「待ち給え!」
駈寄ろうとする伊藤を、何故か博士は急に押止めた。
「まだ手を触れては不可ん」
「だって先生こんなに縛られて……」
「宜いから待ち給え、妹さんにはお気毒だが、もう数時間この苦痛を堪忍んで貰わなければならぬ、この事件は生やさしい問題ではない。国家の重大な機密に関係しているのだ、――斯う云えば恐らくみどりさんも暫しの苦痛を忍んで下さるだろう」
椅子に縛られたまま是を聞いたみどりは、雄々しくも眼を輝かせながら、力強く頷いてみせるのだった。
「みどりさんは承知して呉れたよ。さあ是からもうひと働きだ」
博士はそう云うと、まだ渋っている伊藤青年を促しつつ元の部屋へと戻って行った。
それから博士と伊藤青年がどんな活躍をしたかは分らない、――翌る朝十時、ロビイでお茶の時間が開かれた時、博士と伊藤豊治の二人は、さっぱりと身装を改めて、片隅の卓子で熱い珈琲を啜っていた。
その日はばかに客が多く、朝食だけ喰べに来たらしい紳士や、面会人と見える人々が、それぞれ珈琲を啜ったり、トーストと塩豚・卵をつついたりしていた。――十時が十五分過ぎた頃だった。ホテルの表に一台の高級車が着いて、三人の欧羅巴人がロビイへ入って来た。この三人は毎朝ここへ朝食だけを喰べに来るので、毎も奥の方に定って卓子が用意されてあるくらい馴染の客だった。
入って来た三人は、訛りのある仏欄西語で口やかましく話しながら、自分たちの卓子に就いて煙草を取出した、――もう毎日のことで注文は分っているらしく、やがて給仕(――伊藤青年に亡霊の話をした給仕である)が銀盆の上へ、珈琲やトーストやサラダを載せて運んで来た。
「お早うございます」
「ヤアオ早ウ、宜イ天気デスネ」
「左様でございます、――今日は特にベーコン・エッグスを致しましたからどうかお試し下さいまし」
そう云って給仕が、卓子の上へ銀盆を置いた時である。突然うしろから訛りのない流暢な仏欄西語で、
「失礼ですが、そのベーコン・エッグスは私の方へ頂きたいですね」
と声をかけた者がある、――三人の外人が恟りとして振返ると、そこには鹿谷博士がにやにやしながら立っていた。――否、博士だけではない、意外にも今まで客のように見せていたロビイの人たち、凡そ十七八名の紳士が、ぐるりと周囲を取巻いているのだ、然も手に手に拳銃を持って――。博士は冷やかに続けた、
「×××国の特務機関員諸君、もうじたばたしても駄目だよ、この通り網の口は締められたんだ。亡霊のからくりは暴露したぜ」
「あ! うぬ――」
「手を挙げろ! 動くと射殺するぞ」
がんと喚きながら進出たのは、老紳士とみせた警視庁の高野刑事課長だった。三人の外人は一瞬、紙のように血気を喪って、両手を挙げながら椅子から起った。
その隙である、例の給仕は影のように身を退らすとまるで弦を放れた矢のような勢で地下室の方へ逃げだした。と見た博士が、
「伊藤、みどりさんを檻禁したのは彼奴だ、逃がすな!」
叫ぶより疾く、伊藤青年は、
「くそっ」
と一声、弾丸のように走って、いま正に石の階段を半まで駈下りた給仕の背中へ、だっとばかり跳躍した。思切った奇襲である。もんどり打って二人は、重り合ったまま地下室へ転げ落ちる。
「――衆生!」(支那語で「畜生」という意味)
給仕は獣のように喚くと、いきなり右手に短剣を抜いてはね起きた。刹那伊藤青年は下から、だっと蹴上げて置いて、素早く寄身になると、力任せに右手の拳で相手の顎を突上げた。
「あ!」
とよろめくところをもう一撃。
「この豚野郎ッ」
とばかり、鼻柱をへし折れよと叩きつけた。妹を苦しめた仇と思う憤怒の拳だ。給仕は鼻から血を迸らせながら仰反って倒れた。
「みごとみごと、――もう堪忍してやり給え」
博士が階段口から愉快そうに叫んだ。
「それ以上やると死んで了うだろう。あとは警視庁の諸君に任せるが宜い、それより早くみどりさんを助けるんだ」
伊藤青年は倒れている給仕(それは実は支那人であった)の脾腹をひとつ、がんと蹴っておいて、物置部屋の方へ駈けだした。
それから一時間の後――。
伊藤兄妹は博士の部屋で、熱い珈琲を啜りながら、事件の謎を解く博士の言葉を聞いていた。
「彼等は×××国の間諜だった。あの給仕は支那人で、勿論彼等の手先なのだ。――亡霊の話は、あの部屋へ人を近寄せないためだったが、その訳は彼処が秘密の連絡に使われていたからだ。どういう方法で連絡を取ったかと云うと、……あの紙を裂くような音、あれがその機械だ。別の間諜が第×聯隊の横に張込んでいて、聯隊の移動状態を探り、それを光線通信であの部屋へ送っていたのだ」
「ですが先生、若し夜間に光線で通信すれば直ぐ発見されるではありませんか、――現にゆうべ僕たちが見張っていたのに、別になんの光も見えなかったですよ」
「だからさ、見えない光線を使ったのだ」
博士は微笑して続けた。
「つまり赤外線だ。兵営の附近から特殊の機械で、この部屋へ向って赤外線を放射する、君も知っている通り赤外線は人間の眼には見えないものだ。然し同じ受感装置には感じるから、光線を受けると同時に自動的に動きだし、眼に見えぬ通信を完全に記録するんだ。――ゆうべ壁のところでカチリと音がして、小さな火花が閃めいたろう。あのとき記録装置が活動を始めたのだ。それから白い亡霊……あれは例の支那人給仕が化けたのだが、あれがその記録を取外し、朝になって彼の三人の外人に給仕をする時、そっと手から手へ渡すという仕組みなのさ……実に敵ながら天晴れ、赤外線を使ったのは間諜戦はじまって以来是が最初だろうよ」
「――ところで、どうして先生は是を間諜事件だとお気付きになりましたか?」
「初めはそこまで気がつかなかったね。ただあの給仕が、得々と亡霊の話をしたので、こいつは怪しいと思ったのだ。何故って、――客商売の勤めをする者が、訊かれもしないのに客の厭がる亡霊の話などをする筈がないからなあ。是は何かある! と睨んだよ、その次にみどりさんの行方不明を聞いたので、慥に此家に何かあると感付いた。そして何の気もなく外の空気を吸おうとして窓を明けたところが、向うに第×聯隊の営舎があるのをみつけたので、――そう、一種の霊感だな、本能的に是は間諜事件に相違ない! と思ったんだ……すると毎朝あの三人の外人が、定ってロビイへ朝飯に来る事、その給仕はあの男に限っている事などがはっきり思出された。斯うなればあとは簡単さ、みどりさんを縛ったままにして置けば、彼奴はまだ自分の罪の暴露した事に気付かず、堂々とロビイで連絡を取るに違いない、――そう思った事が図星に当った。頼んで置いた警視庁の諸君も、なかなか立派に芝居をして呉れたよ」
そして博士は次の様に言葉を結んだ。
「つまり奴等はやり過ぎたのさ。不必要な場合に亡霊を宣伝し、また僕の研究の秘密を盗もうとして、折悪く来合せたみどりさんを檻禁した。この二つが自ら事件を暴く緒口を作ったようなもんだからなあ――諺に云わずや、それ、過ぎたるは及ばざるに如かず、とね、あははははは」