『蛮人』

蛮人 山本周五郎

あらすじ

山本周五郎の『蛮人』は、過酷な労働環境下で生きる人々の苛烈な生活と、彼らの間で生じる激しい情動を鮮烈に描いた作品です。物語は、貝殻を焼いて石灰を作る工場を舞台に展開します。

この工場は中堀から荒地へとはみ出る場所にあり、建物は古びて朽ちている。高い位置にある小窓からは、絶えず灰煙が溢れ出ており、工場とその周辺は白い番瀝青で塗りつぶされたかのように灰まみれです。工場では、ほとんど裸で働く七人の労働者たちが、灰にまみれながら鈍重に作業をしています。

彼らの中には、過去に殺人罪で服役した男も含まれています。この男は工場に雇われる際、自身の身分を隠しており、その過去が後に刑事によって明らかにされます。

工場労働者たちの中には、身体的にも精神的にも過酷な環境に耐えながら生活する人々がいます。彼らの中には、相手の気持ちを理解するために大きな身振りを使うしかないほど、感覚が内向きに閉じ込められてしまう者もいます。こうした環境は、彼らの感情を暗く歪め、互いの間に深い断絶を生じさせます。

特に注目すべきは、工場労働者の一人である殺人犯と、彼に惹かれる若く美しい女性、お房の間に生じる複雑な関係です。お房は、自らの魅力を使って男を惑わせ、その不健全な愛情を受け入れます。

二人の関係は徐々にエスカレートし、最終的には暴力的な事件へと発展します。この事件は、お房の夫である茂吉が重傷を負い、加害者である男が逮捕されるという悲劇で幕を閉じます。

『蛮人』は、人間の極限状態における生の実存を描き出しています。この作品を通じて山本周五郎は、過酷な労働環境が人間の精神に及ぼす影響、そして、そこから生まれる歪んだ愛情や憎悪などの暗黒面を深く掘り下げています。

人間が置かれた環境によっていかに変貌するか、そして、その中で見出される人間性の光と闇を、彼は鋭い筆致で浮かび上がらせています。

読者は『蛮人』を通じて、人間の内なる野蛮性と文明のはざまで揺れ動く姿を目の当たりにします。山本周五郎は、この作品で人間存在の根源的な問題を、力強くかつ繊細に描き出しているのです。

書籍

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本文

貝殻を焼いて石灰をつくる工場が中堀から荒地へ出はずれたところにあった。
建物は百坪ばかりの高い二階建でもうすっかり古び、羽目板はみんなひどく乾割れているし、外側から二階へ通ずる段無しの足場も危なかしく朽ちていた。そして屋根から下どこもかしこも白い番瀝青れきせいで塗りつぶしたように灰まみれで、高いところにある小窓やそこここの隙間からは、絶えず濃霧のような灰煙があふれ出で、それが建物を中心にたち舞っているところは、まるですさまじい吹雪のなかに取残された廃屋のように見える。
工場の前は荒地へ続く道を隔てて河になっている、つつみから埋立がつき出ていて貝殻の山が類別に積まれてある、その端のほうに石炭の山があり、また荒薪や松の枯枝といった燃料が防風壁のように積重ねてある、これらがすべて灰まみれだ、そればかりではない建物のほとんど一丁四方ほどは、道も雑草もみんな死灰にまみれ、それが日光の下でひどく匂っている、稀塩酸きえんさんを朽木にませたようにせっぽい酸い匂いだ。近くへ寄ってみるとごく微小な霧粒のようなものがちりちりと舞いながら落ちてくるのが見える。
工場の中では七人の労働者が働いている、彼らは裸である、わずかに恥部を三角巾で隠しているだけだ。それから頭髪をりつけている。まるで囚徒のようにくりくり坊主に剃っている、日にやけた赤銅色のたくましい体はすっかり灰まみれだ、眉のなかまで緻密ちみつに灰が忍びこんでいるのであたかもマスクのようにぶきみな無表情な顔つきをしている、――肉の盛上った肩の上にあるこの坊主頭は、見る者の心をぞっとさせるほど野蛮な感じであった。
彼らのうち四人は男で、あとの三人は彼らのなかの妻たちであった(男の一人は独身であったから)。彼女たちも同じように裸である、髪も刈り込んでいる、もしもその大きく張出た乳房や運動につれて豊かに揺れ動く腰の肉付がなかったならば、ほとんど男たちと見分けつかぬようすである。恥部をおおっている三角巾もけっして男のものより広くはなかった。
トルコの風呂の中へはいったような、濃密な灰煙のいっぱい立こめている建物の内部で、この灰まみれの蛮人たちは鈍重に黙々と動き廻っている、高い天床から吊下つりさげられた電燈が灰の噴霧のゆれるたびにぼんやりと明暗をつくる――かがんだ背中だの振り上げた腕の筋肉の隆起がゆれかえる霧の中に見えたり隠れたりする、みんな黙っている、誰も彼も石のように黙っている、懲役人のようにむっつりとして重苦しく焜炉こんろ焚口たきぐちのぞいたり屑灰をき出したりしている、絶対に沈黙の労働なのだ、口を利けば遠慮もなく灰屑がとびこんでくるから……。
こんな環境にあっては人たちの感情が黙しひしがれゆがめられるのは避けがたいことだ。彼らの感覚は内部へ内部へと逐いこまれる。それでなくてさえ肉体のあらゆる表面が灰に蔽われているので眼配せをすることさえできない、意志を伝えるには大きなひどく鈍い身振りをするよりほかにはないのだ、そこでますます彼らの感情は暗くなりねじ曲げられてしまう。――通りかかった誰かがそちらを見ると、彼らは石膏像せっこうぞうのような硬い仮面をふり向けてわずかにその濁った眼を動かす、なんという気味悪い顔であろう、説明しようのない罪悪の匂いが見る者を強くうつ、今にも骨張った拳をあげて跳びかかってきそうな野獣のような感じなのだ。

男たちのなかに実際ひとりの懲役人がいた、彼は四十あまりのせた骨太の体つきで鈍く光る細い眼をもち、その背骨は醜く前へかがんでいた。彼の身上は他の男たちと同様にまるで知られていなかったが、殺人罪で二十年近くもどこかの刑務所にいたとかいうことである。この工場へやって来たのは一年ほど前のことで、むろん身分を隠して雇われたのだが、何かの事件で二三度そこに刑事がやって来たことから懲役人であることが分ったのだ。
彼は黙々として働いた。食事休みで仲間が河岸へ出るときにも、仕事をしまったあとの雑談にも彼はけっしてみんなと一緒にならなかった、いつも独りで工場裏のあしの生えた沼地のへりに立っているか、または工場主の鶏舎の前にかがみこんでにわとりの動作をつくねんと見戍みまもっているらしかった。
彼は奇妙に生ものを愛した、もっともそれにはひとつの癖があって、釣って来た魚を沼地へ仕切りを作って活かしておくとか、よしきりを捕えて手製の籠の中で飼うとかするのである。猫とか犬とかいう放ち飼いのものには眼もくれないのだ。――そしてもっとも彼が愛していたのは鶏舎の中にいるせた老鶏で、小さな虫類や食い残りの飯粒などを持ってはよくその老鶏のところへでかけて行った。
「こここここほらよ、ここここほらよ」
彼は虫を老鶏だけに与えようと苦心しながら云う、「ここここほらよ、ここここ」
それから鶏舎の前にかがみ、両手でひざを抱えながらじっと相手のようすを見戍っている。――あるとき工場主が、その痩せた老鶏をつぶしてみんなに振舞をしようとしたことがあった、すると彼は工場主のところへ行って自分がそれを買取ろうと申し出た。
「どうするんだ」
と工場主が訝しげにいた、「あんな老ぼれを自分のものにしてどうしようというのだ」
「その――欲しいんです」
「でもやつはすぐにくたばっちまうぜ、もう青虫を喰べることもできやしないんだ、ふた月も生きちゃいないぞ」
「一両だしますから」
彼はその老鶏を買い取った、そしてべつに自分で小さな鶏舎を作ってそれを飼い始めた。
仲間の男たちは、彼がどんな殺人を犯したか知りたがっていた。そこで誰かがときどきそのことを訊いた、けれど彼は黙って肩を揺り上げ、相手から外向きながらほとんどつぶやくような声で、
「そんなことを訊いて――」
と云うのである、「それでどうしようと云うんだ、人をあやめるてえことは、なみたいていなことじゃねえ、もしもおめえが……」
結局なにものも彼は語らなかった。
女たちの中におふさというのがいた、茂吉もきちという男の妻でいちばん年若く、そのとき二十三四だった。
彼女はすばらしい体をもっている。ルウベンスの描く女のように広い逞しい腰で、脇腹には厚い脂肪のひだがくくれて骨盤の上へ垂れかかり、双の乳房は少したるんではいたが強く張出て、力の籠った揺れかたをするし、陰部の筋肉は男のように盛上って、かがんだり歩いたりするたびにさまざまの隆起をつくるのであった。頭は(まる坊主の)茄子なすのようになめらかで、まるで不道徳を表徴するような単純なかたちをしている、頬肉は高くふくれ、唇は厚くおまけに外へまくれて、唇尻はいつもぬめぬめと濡れていた。
みんなは少し以前からあの痩せた男が、いつも彼女にすばやいぬすみ視をくれているのに気付いた。――彼女が肥えた体をゆすりながら立ったりかがんだりするとき彼の細い眼がどこかで針のさきのように光る、彼女が石灰俵を担ごうとして良人おっとを探していると、すぐに彼がやって来て手伝う、そして重い荷物をかきあげるために女の体が逞しく筋肉の波をうつと、彼は唾をのみながら慌てて眼を外らせる、――女が不浄場から戻ってくる。不謹慎に三角巾の具合を直しながらくる、すると立籠めた灰煙のなかで彼の眸子ひとみが獣のようにきらめき、なにかを床へ取落す重苦しい物音がする。
始めのうちは控えめであったが、しかしだんだん彼のようすが変ってきた、絶えず口のなかで何かぶつぶつ呟きながらその辺をうろつき廻ったり、突拍子もなく足踏みをしたりする、ひどく悲しげな眼つきをしていたかと思うと、すぐに荒々しい態度で外へ出て行ったりするのだ。そして彼女を眺める眼つきは次第に無遠慮になり執拗しつようなものになってきた。
みんなはそれを知った。ときには誰かが我慢のならぬようすで、たしなめるように見かえすかせきをしてみせた、すると彼は反抗するように肩をつき上げ、挑みかかるようにそこらへ唾を吐きちらすのだ。
「なにか文句があるのかね」
と彼の眼つきが語る、
「文句があるなら云ってもらおうじゃないか、どうせおれは人殺しの懲役人だ、え――? どうだね」
みんなは黙って彼から外向いた。
ある種の女たちが不健全な男や犯罪者に強く心を引かれることは知られている、そしてお房もまたそうした女たちの一人であったに違いない、彼女は痩せた男に執拗しつこみつめられたり、体の隅々までめるような視線に会ってもべつだん不快な顔をせず、むしろときによると身のこなしをことさらみだらがましくして相手の注意にこたえるようでさえあった。
食事休みで河岸へ出ているとき、彼女はどこかの隅から自分を眺めている眼を感ずると、放恣ほうしなかっこうに両足を投出し、のどをくっくと鳴らせながらけらけらと笑ったり、仲間の女の肩を抱緊めながら、
「どこからどこまで浮気で、どこからどこまで本気か、おまえとわたしがよく知っている」
というような唄をうたったりした。
石膏像のような仲間うちで、彼女のそうした態度がみんなに気付かれぬはずはない、ことに茂吉は不安な眼で妻をけ廻し、一方では彼の動作を鋭い憎悪で監視し始めた。

真夏のことであった。
午すこし前に、茂吉が焚口を見ようとして焜炉のほうへ近づくと、蒙々もうもうたる灰煙の中に誰かかがんでいる者がある、なおも近寄ってみるとそれはあの男で、床の上へうようにして何かをじっと覓めている、茂吉が覗きこむようにするとその気配に気付いて彼は振返ったが、慌てて何かを隠そうとするように両肱りょうひじを曲げた、しかし茂吉はそれより早く、床の灰を染ている二三滴の赤いもののあとをみつけてしまった。
茂吉は自分の妻が二三日前から具合の悪い体であることに気付くと、何ともいえぬ恥辱と怒りを覚え、かっとしながら我知らず拳を握緊めて彼のほうへ突出した。しかし彼はふてぶてしく茂吉を見上げ、あざけるように下唇を反らせながら、さあどうにでもしてみろというように一歩前へ踏だした。――茂吉は胸を大きく波打たせ、剥出むきだされた眼で相手を鋭くにらみつけていたが、やがてくるりときびすをかえし、逃げるように裏手へ出て行ってしまった。
食事休みのとき、茂吉はそのことを仲間の者に話した、みんなは黙って聞いていたが、誰の顔にも苦しげなしわが寄り、けがれたものに触でもしたように唾を吐いた。
「きゃつは気狂いだ」
やがて一人が低く呟いた、
「そんなものを独りでこそこそ見るなんて、どういうつもりかわけが知れねえ」
「だが気をつけなくちゃいけねえ、きゃつはそのうちに何かしでかすぞ」
「みんなでよく見張るんだ」
と別のが誰のほうをも見ずに云った、「それから、女房たちにもきゃつの側へ寄らねえように云わなくちゃいけねえ」
それはお房の軽はずみな態度を云っているのであった。茂吉は重たく眼を伏せながら足の爪先で地面の灰を掻いていた。
その夕方。仕事をしまってから彼は工場裏の自分の鶏舎の前へやって行った。この頃めっきり衰弱した老鶏は、自分の体にわいた羽虫をせせる元気もなく、隅のほうにじっと居竦いすくんで白い目蓋を閉じたり明けたりするばかりである。
「こここここほらよ」
彼は飯粒を投げながら呼んだ、「こここここほらよ、こここここ」
いくら投げてやっても老鶏は動かない、もうほとんど死にかけているのである。
彼もそのことはとっくから知っていた、――実際、ものを喰べなくなればそれで生ものの死期がきたのだ。
彼はあぐねたように太息をつき、それからどかっと腰をおろして遠くのほうを見た、――よく晴れた日で荒地の雑草は活々と伸び、沼や灌漑溝かんがいこうの水は黄昏たそがれの光りを浴て鈍く光っていた、彼は両手でひざを抱え、眼をまぶしそうに、しかめながら遠い遠い空のかなたを見やっていた。
流れる雲や風に揺れる木葉は、人の胸に隠れている幻想をかきたてるものだ、彼の眼には数々の追憶がうかびあがる。
「――ふしぎだ」
と彼は放心したように呟く、「どうして、こんな遠い所へ来たんだろう、もしかしてこれがながい途方もない夢ででもあったら――女房があそこの道から夜業の弁当を持ってやって来るとしたら……家には子供が待ってる、窓框まどがまちの壊れたところを直すはずだった、たしかそのためにくぎを買ってきた日だった――あの極道野郎めが、あの……」
彼は突然その両手で頭をつかみ、絞りだすような声でうめいた。
「あら、この鶏は死にそうだわ」
ふいに後で声がした、彼はぎょっとして振返るとそこにお房が立っていた。
「もう駄目らしいわねえ」
「――うん」
彼は狼狽ろうばいしながら外向いた、女はその横顔から眼を放さずにからかうような口調で云った。
「どうせ駄目なら今のうちにつぶしちゃったらどう、あたしが絞めてあげるよ、羽根でふわふわした首をぎゅっと絞めるのは良い気持だわ――」
「そんな……罪なことを云うものじゃねえ、商売でもおめえ――」
「気が弱いのねあんた」
女は眼を光らせながら云った、「それでよく人殺しなんかできたもんだ、ねえ――やったのは男? それとも……」
「おめえ何のためにそんなことを訊くんだ」
そう云って彼が鋭く見上げると、女は裸の腹を波打たせながら喉で笑った。――彼はその顔をしばらく覓めていたが、やがてものに襲われでもしたように身顫みぶるいしながら外向いた。
日が暮かかってきた、荒地には鼠色の夕靄ゆうもやい、沼地にはけたたましく河鵜かわうの飛立つのが見える。
「今夜は堀のお縁日だ」
女がしばらくして云った、「みんなは行かないって云うから、あたしゃ一人で行くんだ……でも帰り道が暗くて怖いからね」
「茂さんは……茂さんは行かねえのかい」
彼がおそるおそる訊いた。
「どうだか、あの人は意久地がなくって、飯がすめば死人のように寝てしまう、まるで年寄みたいだから――」
「――なあ」
彼はふっと声をひそめた、しかし喉をごくりとさせただけであとを云わなかった。女はいらだたしげに太息をついたり頭を掻いたりしていたが、やがてだるそうな足取で風呂場のあるほうへ立去った。
「どこからどこまでが浮気でどこからどこまでが本気か、おまえとわたしがよく知っている――」
女は鼻にかかる声で唄いながら行った。
その明る日の午後のことである。もうもうとゆれかえる噴煙の中で不意に鋭く女の喚き声が聞えた。
「き――、この!」
灰煙の中を誰かがとんで行った。
「ど畜生、おれの……」
そういう声と同時に、どしんと誰かの倒れる響きが、ひどく迫った調子でひと言ふた言叫ぶと、烈しく咳き入るのが聞えた。そしてみんながそっちへ駆けつけたとき、ごつんという低い(ちょうどそれは土鍋どなべを割るような)鈍い音につづいて、ああああと誰かの弱くひきのばされた悲鳴が起り、揺れ動く濃密な灰煙の中から一人の男がひどく咳きこみながら、鼠のように背をまるくして裏口のほうへとび出して行くのが見えた、外へ出てからもその男の咳く声は続いていたが、やがて荒地のほうへ消えて行ってしまった、――それは彼であった。
みんなは倒れている男を工場の外へ担ぎ出した、それは茂吉だった。裸の妻ははこび出される良人の血だらけの頭を、双つの乳房のあいだに強くひき緊めながらぞっとするような声で泣き喚いた。草の上へ寝かされた茂吉は知覚を失った大きな瞳孔どうこうを瞠いたまま、
「あああ、ああああ」
と痴呆のように呻き続けた。

逃げた彼はすぐにつかまった。
荒地の葦の中にひそんでいるところを、消防組の若者たちに狩出されたのである。彼はなんの抵抗もせずおとなしく繩をかけられ、そのまま駐在所へいて行かれた。
巡査の調べに彼はこう答えたという、
「わたくしは間違いをしました、わたしはあの牝豚の畜生をやっつけるつもりでした」
「なぜ女を殺す気になったのだ」
「あの男には何も恨みはなかったのです、あの阿魔こそ……」
どうして女に危害を加える気になったか、彼はついに云わなかった。――そして間もなく遠くの裁判所へ連れて行かれた。
茂吉は三月ばかり病院に入っていたが、彼のためにショベルで破られた頭は結局もとのようにならず、病院を出てからしばらく工場主の持家でぶらぶらしていたが、やがて妻と一緒にどこかへ行ってしまった。
村の人たちはこの事件の原因を知ろうとしてずいぶん根気よく根掘り葉掘りしたが、工場の者たちはいつも黙って、灰まみれの坊主頭を横に振るばかりだった。そこでいろいろ憶説がうまれた、途方もない情事がこねあげられたり、彼らの奇怪な生活の秘密がこしらえられたりして、それが真しやかに伝わった。
彼らはしかしそんなうわさにはかかわろうともせず、やはり黙々として灰煙のなかに動き廻っている――乳色の濃い死灰は一日じゅう建物から溢れだし、霧粒のように草や地面を埋めながら、ちりちりと空中に舞っている。