『蘭』

あらすじ

山本周五郎の『蘭』は、江戸時代末期の武士社会を背景に、友情、愛情、そして義理と人情が交錯する人間ドラマを描いた短編小説です。物語は、平三郎と生之助という二人の若き武士の深い絆と、彼らを取り巻く複雑な感情を中心に展開します。

平三郎は、ある秋の夕暮れ、机に向かいながらもの思いにふけています。彼は、自分の心に決着をつけるため、翌日、友人である生之助を訪ねます。生之助は庭で蘭の手入れをしており、二人は蘭の花を前にして話し合います。平三郎は、生之助の養女である松子さんへの思いを打ち明け、彼女との結婚を望んでいることを告げます。生之助は、平三郎の言葉に動じることなく、彼の決意を受け入れます。

しかし、この二人の間には、藩の将来を背負う重圧と、藩内の権力争いが渦巻いています。特に、粗暴で力を誇る脇屋藤六という男が、二人の前途に暗い影を落としています。平三郎は、藤六の暴力に対抗するため、江戸への出府を控えている中、藤六との決闘を避けられない状況に追い込まれます。

一方、生之助は、平三郎の江戸行きを支持し、自らが藤六との対決を引き受けることを決意します。彼は、藩のため、そして友のために、自らの命を犠牲にする覚悟を固めます。生之助は、平三郎に代わって藤六との決闘に臨み、見事に藤六を討ち取りますが、その場で自害してしまいます。

物語のクライマックスは、平三郎が江戸に到着し、生之助の死を知る場面です。彼は、生之助からの最後のメッセージとして、一輪の蘭花を受け取ります。この蘭花は、生之助が丹精込めて育てたものであり、彼の生き様と、平三郎への深い友情を象徴しています。

『蘭』は、武士としての誇りと、人としての情愛が葛藤する姿を描きながら、人間の尊厳と美しさを讃える作品です。山本周五郎は、繊細な筆致で人物の内面を描き出し、読者に深い感動を与えます。友情と愛情、そして死という究極の選択を通じて、人生の意味を問い直す物語は、今もなお多くの人々に読み継がれています。

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本文

秋の日はすでに落ちていた。
机にむかって筆を持ったまま、もの思いにふけっていた平三郎は、明り障子の蒼茫そうぼうと暗くなっていくのに気づいて、筆をおきながら、しずかに立って窓を明けた。
北に面した庭にはダケの荒れたやぶとまだ若木のスギ林がひろがっている。その樹下のもやのたちこめたような暗がりから、障子の明く音におどろいたのだろう、一羽のウズラが荒ら荒らしい羽音をたてて飛びたった。すると樹下の暗がりが、いっそう暗くなるように思えた。
「そうだ、会ってはっきり云おう」かれは低い声で、そうつぶやいた。「……もう、そうしても早すぎはしない」
その時の印象はずっと後になるまで、あざやかに覚えていた。たそがれの鬱々としたスギ林も、ひっそりと垂れていた女ダケの葉むらも、飛びたったウズラの荒ら荒らしい羽音も、そして、ひとりごとのようにつぶやいた自分の低い声も……
平三郎はその明くる日、須川生之助いくのすけをおとずれた。生之助は、庭で蘭の手入れをしていた。さわやかな日光が、やわらげた黒土をぬくぬくと暖め、やや膚寒い風が、生垣のイバラの枯葉をふるわせていた。ここのほうが話しよい――平三郎はそう思った。生之助は、土まみれの手をこすり合わせながら立って来た。
「ことしはたしかだ。つぼみのつきが、しっかりしている。一輪はきっと咲かせてみせるよ」
「話があるんだ」平三郎は友の目を見まもりながら云った。「……いや、このまま聞く耳のないほうがいい。じつは松子さんのことなんだ」
そして平三郎は話しだした。できるだけ、ことばや感情をかざらないように、自分の弁護をしないようにつとめながら……生之助は、だまって聞いていた。かれもいつかは、こういう時の来ることを予想していたのだ。びんのあたりが、やや青くなっただけで、思ったほどおどろいたようすはなかった。
「いちおう相談というかたちにすべきだが、おたがいの仲では、ゆずりあいになりそうだ。それでは気持が割りきれなくなる。どちらかが苦しまなければならないとしたら、初めから、いさぎよく、はっきりするほうがいいと信じた。これだけは、わかってもらいたいと思う」
生之助はうなずいた。そして、手の土をはたきながら、しずかに空をふりあおいだ。雲のながれる高い空を、ゆっくりと渡っていく鳥がある。その鳥と雲との距離の渺々びょうびょうたる深さが、油然ゆうぜんとかれの心に悲しい思いをかきたてた。
「松子には、おれが伝えようか」生之助は足もとへ目を落しながらこう云った。「……それとも自分で云うか」
「自分で云うほうがいいと思うけれど、あまり無作法だし、機会もないだろう。やっぱり、よい折をみて、そこもとから、話してもらうほうが自然ではないだろうか」
「そうかもしれない。いま風邪ぎみで寝ているようだから、起きたら……」
ふたりはそれぞれの気持で口をつぐんだ。平三郎は心のよろめきを感じた。すべてを投げだしてしまいたい、自分のことばをとり消して生之助にゆずりたい、そういう衝動に駆られた。かれはそれに負けなかったが、それ以上そこにいることには耐えられなくなり、では頼む、と云いおいて別れを告げた。
生之助は門まで友を送って来ると、また庭の一隅にあるかこいの前にかがんだ。そこには、いく種類かの蘭が植わっている。そのなかに、「寒蘭」というめずらしい一株があった。琉球から渡来したもので、冬の初めに咲くという。かれは、三年まえから丹誠しているが、これまでは花が咲かなかった。こんどは、しっかりした、よいつぼみがついたので、どうかして咲かせてみたいものと、怠らず手入れをしているのであった。
「どちらかが苦しまなければならない」風を入れるためにやわらげた蘭の根もとの土を、しずかに押しかためながら、生之助はそうつぶやいた。「……そうだ、どちらかが」
数日のあいだ、かれは力のない目をして、城中でも屋敷でも、だまりながらときをすごした。二十二になる今日まで、いささかの汚点も残さなかった平三郎とのまじわりが、吹き来たり吹き去る風のように脳裏をかすめた。黒沢も須川も、おなじ老職の家柄だった。ふたりは、その父親たちのまじわりを受けついで、四五歳のころから往来するようになった。水と魚、チョウと花、そういうように人々は、ふたりのしたしさをたとえた。気性もよくにていた。平三郎のほうが、いくらか勝ち気だったかもしれない。藩校での成績もそろって群を抜き、十二歳のときから五年、いっしょに江戸へ行って、いっしょに昌平黌しょうへいこうでまなんだ。これは主君能登守正陟のとのかみまさのぶが、ふたりの質と、ふたりの能力を合わせたところに嘱望したからだと云われた。たしかにそういう評判がたってもよいほど、正陟のふたりにたいするちょうはあつかった。口には出さなかったが、このことは、生之助も平三郎も早くから気づいていた。自然、日常の挙措きょそも、こころがまえも、ほかの青年たちとは違ったし、なにを見、なにを考えるにも、藩の将来と結びつけないためしはなかった。
しかし、やがてこういう濁りのない、まれな友情をもってしても、どちらかが傷つかなければすまない事が起った。
それは中原松子というむすめの登場に始まる。

松子は中原良太夫のむすめだった。中原は須川家の遠縁にあたるので、良太夫とその妻が、あい前後してなくなるとすぐ、生之助の父兵左衛門が、かの女を家にひきとった。不幸な境遇のためだろうが、はじめは口数の少い陰気な子だった。十三四になるまで、いつもひとりで、べそをかいているというふうだったが、やがて背丈の伸びるにしたがって、顔だちも明るく身ぶり声つきも、きわだって美しくなった。
平三郎と生之助が、その変化に気づいたのはほとんど同じころである。同時に、おたがいが引きつけられている感情のふかいこともわかった。こういう関係はまれでもなく、しばしば愚かしい結果をまねく例も知っているので、ふたりは必要以上に慎みとおした。もちろん、そういう状態が永くつづくものでないこと、いつかは苦しい瞬間に当面しなければならぬということは、わかっていた。なぜなら、ふたりはそれほど深く強く松子を愛していたからである。
生之助の心はしずまらなかった。平三郎から自分が嫁にもらうと告げられたときは、むしろ心の緊張をとかれたようにさえ思った。まったく平静ではなかったにしても、たしかに一種の安堵あんどに似た気持を感じた。それが時のたつにしたがって苦痛が強くなり、もう取りかえしがつかないという絶望的な悲しさが、はげしく胸をしめつけるのだった。事は、すでに決定している。どうもがくすべもない。奇跡でもおこらないかぎり、松子は手のとどかぬ存在になってしまうのだ。「ああ」生之助は、いく百たびうめいたことだったろう。「ああ……」
かれが松子にその事を話したのは、苦痛と絶望に耐えられなくなったからである。その時、かの女は病床から起きて、初めて髪をあげたところだった。風邪をこじらせた程度のわずらいなので、やつれるというほどではなかったが、みずみずしく髪をあげているためか、ほおから首筋のあたり、膚が薄くすきとおるようだし、うるみをおびた目もとや、どこかしら力なげな身ごなしなど、全体に、なまめかしいほど、ろうたけてみえた。それでなくとも、生之助は毒をのむような気持でいたが、常にない松子の美しさと、話を聞いたときのにおうような恥じらいのしなとは、むざんなほど、かれをうちのめした。
「わたくしには、お返辞の申しあげようがございません」かの女はまつげの長い目を伏せ、ひざの上で、かたく両手の指をからみあわせながら、おののくような声でこう答えた。「……おじさまや、おばさまのおっしゃるように、そしてあなたさまのおぼしめしどおりにいたしたいと存じます」
もちろん、否定の色はいささかも見えなかった。すべてが終った。これ以上は未練だ。心のうちで、そう自分に云い聞かせながら、しかしおそらく顔は青ざめたことだろう。生之助は追いたてられるような気持でそのへやを出た。
明くる日のことだった。城中で昼げの休息に平三郎の詰所へ行くと、近習番の者が五人ほど集まって、何か論じ合っていた。みんなかたい表情で、けわしく目を光らせて、ひざを突き合わせるような姿勢をしていた。平三郎だけは、いつもの端正さを失わず、目を伏せ、口をひき結んで、かれらの云うことを聞いていたが、はいって来た生之助を見ると、手をあげて話をとめ、「少し、とりこんでいるから下城の時……」と云った。生之助はうなずいて、そのまま引き返した。……午後からにわかに冷えはじめた。少しおくれた平三郎を待って、いっしょに城をさがって来ると、空は薄日になり、重畳とうち重なる四方の山なみの上に、雪を思わせるネズミ色の雲が、おしつけるように、じっとのしかかっていた。
「脇屋藤六がまたやった」追手門を出ると、すぐに平三郎がそう云った。「増島三之丞と中原又作を馬場へ呼びだして、仲間でとり詰めて、中原は腕を折り、三之丞は頭を割られたそうだ。こまった」
生之助は、だまってまゆをひそめた。法恩寺山から吹きおろす風は、武家町の広い乾いた道にほこりを巻きたて、樹々の枝に散り残った枯葉をひきちぎって行った。
「悪いことには、若い者の間に、だんだん脇屋の勢力が広がっていく。粗暴と慷慨こうがいが、わけもなく壮烈にみえる年ごろだ。捨てておくと、とり返しようのないことになる」
「たしかに、あれは将来きっとがんになる」生之助は低い、ささやくような声でこう云った。
「……なんとかしなければならない。心から藩家を思う者は、そう考えているのだろう。けれど、こういうおれ自身でさえ、やはり手をつかねているのだから」
「脇屋はそれを見とおしている。刀の柄に手をかけることが自分の存在の強大さだということを、そして、人が暴戻ぼうれいにたいしてたやすく起つものでないということを。――かれは、そこを根にして伸びあがるんだ。悪はそれ自身では、けっして成長しないものだ」
「だが……」と生之助は云いよどんだ。
「……だが、正しさを守るために、払う代価は必ず大きい。したがって支払う時期と方法は、よほどたしかでなければならない」

須川の屋敷は下元禄にある。別れ道へ来たとき、平三郎は町屋のほうへ足を向けた。まだ、なにか言いたりないようだった。つま先あがりになっている道を、ふたりは九頭竜川くずりゅうがわのほうへくだっていった。町の軒に、たそがれの色が濃くなり、凍るような風が、家々のひさしや、樹立や、枯れた道草を飄々ひょうひょうと鳴らしていた。……暮れていく光のかなたに、ぞっとするほど冷たく川の流れの見えるところまでいって、ふたりは元へひき返した。
「松子へは話をした」別れるとき、生之助はそう言った。「……異存はないようだ」
平三郎は友の顔を見るに耐えなかったのだろう。わきを向いたまま、ありがとうと云った。
生之助は、つとめて脇屋藤六の問題に考えを集めた。藤六は老職のひとり脇屋七郎右衛門の子である。少年のころからからだはすぐれてたくましかったが、頭は単純で、どちらかといえば愚かなほうだった。老職の子で、からだがよくって、愚かだという条件は、しつけが十分でないかぎり、それだけで結果は察しがつく。まして七郎右衛門は子に甘かった。愚かな子ほどという親の弱点がむきだしだった。藤六は育つにしたがって親の威光と、自分の腕力のねうちを知った。そしてこの二つのものは、自分の愚かさを償う上に、権力をさえ与えてくれるということを……では権力を持とうではないか。しだいによれば、筆頭家老にもなれる身の上だ。藤六は、そういう欲望にそそられる年齢になった。それは自然、対立するものに気づくきっかけとなる。
かれは藩の人望が、生之助と平三郎を結びつけた将来にかかっていることを発見した。かれはいきりたった。かれはまず、主家百年のために忿怒ふんぬの声をあげた。かかる文弱の徒に政治を渡しては、勝山一藩の運命は見るべきのみ、と叫んだ。それはやがて、妄執もうしゅうのごとき信念となり、かれみずから、おのれを壮士なりと確信させた。
なにがし会とやら、ものものしい結盟の旗をあげたのは、去る冬のことだった。かれは士風作興という名目をふりかざし、腕力だけで頭のない、サルのように単純な若者たちと組んであばれだした。柔弱者だといってなぐり、結盟に加わらぬといって凌辱りょうじょくした。人々はかれらを避けた。かれらのすることに目をつむった。かかる無知と暴力に対抗することは愚かであると信じて……藤六はこういう状態の上へ、今や底のしれぬ自信をもって、傲然ごうぜんと腰をすえた。そしてあきらかに、かれは平三郎と生之助とに正面からいどみかかる気勢を示しはじめた。
しぐれの降る日だった。ひる少し前に平三郎が生之助を詰所にたずねて来た。いま国老に呼ばれたのだがと、平三郎はすわるより早く口ばやに言いだした。江戸在府ちゅうの能登守から使いがあって、将軍家より小笠原流礼法を聞きたいという下命だから、しかるべき者を出府させるよう、自分の考えでは、生之助か平三郎がよかろうと思う、そういう意味の墨附が来た。それで老臣相談のうえ、自分に出府するようにと申しつけられたというのであった。
「ともかく考える時間をもらって来たが……」平三郎は、常になく押しつけるような調子でいった。「……これはおれの役ではないと思う。ぜひ、そこもとに出てもらわなければならない。そうお答えするつもりだから頼む」
「せっかくだがことわる。重役がた合議といえば軽くはない。ほかのこととは違ってお家伝統の大事だ。だれの目にも、そこもとだということは動かないだろう。お受けすべきだ」
「だがおれは――」平三郎は、たたみかけるようにこうつづけた。「……おれは、いま江戸へ行きたくないんだ。松子さんとの話もまとめたいし……」
「そんな私事が辞退の理由なら、なおさらだ。よし、それだけでないにしても」と、生之助はわきへ目をやりながら、冷やかに云った。「……御用はさして長くかかりはしないだろう。ふたりのうち、ひとり勝山に残るとしたら、それはおれだよ」
「そのことばには、なにか意味があるのか」
「かくべつな意味はない。ただ何をするにも、そこもととおれとは、力をあわせなければならない。ふたりがいっしょにいて、かたく手をつないでやれば、たいていな困難は打開できる。しかしひとりではいけない。そう云いたかったのだ」
平三郎はうなずいた。生之助がかれを残したくないのは、脇屋藤六とのあいだに、きっとなにか起ると察したからだ。たしかに平三郎は、そのことを考えていた。穏健な生之助がいては果断な手段をとりにくい。江戸へ立たせた後、しかるべき機会を作って、一挙に藤六らを押えてしまおう。そう心をきめて来たのであった。けれども生之助はそれを推察してしまった。そして、推察した以上は動かないことは明白だ。ふたりいっしょに、ということばをこばむことはできない。平三郎はむなしく詰所から出ていった。
出立までに数日かかった。小笠原家における礼式作法は伝承の秘事である。淵源は遠く承安じょうあんのむかしにあった。高倉天皇の御脳おもらせたもう折、信濃守遠光朝臣しなののかみとおみつあそんが、紫宸殿ししんでんの庭で鳴弦めいげんをつとめたところ、めでたく御平癒あって嘉賞され、永く「王」の字を家紋とすべき宣旨をくだされた。以来、三位総領職として宮中、幕府の諸作法をつかさどっているが、それは秘伝として、他には、けっしてもち出さないのである。将軍家の下問であっても、秘伝とすべきくだりは述べられないので、草稿を作るのには、かなり困難がともなった。こうして平三郎の発足がきまったのは、江戸から使者があって五日めのことだった。

あすは平三郎が江戸へ立つという、その前夜のことだった。夜食を終えて間もなく、当の平三郎が突然庭からはいって、生之助の居間をたたいた。ふたりだけで話がある、家人には聞かれたくないと云って、すわった。生之助は火おけの火をかきおこしながら、友の目を見た。それはきわだって力強い光をおび、寒い夜道を来たにもかかわらず、ほおには赤く血が広がっていた。
「とうとう脇屋をやった」
「どうしたんだ」
「きょう、お城をさがる時、二の丸の枡形ますがたで突っかけて来た。石垣を曲るはずみのようにみせて、はげしくからだをぶっつけた。そして言いがかりだ」
「まさか応じはしなかったろうな」
「かれが、どんな雑言を吐きちらしたか想像がつくだろう。初めからはかってしたことだ。是が非でも、怒らせずにはおかないという態度だった。できるだけ忍ぼうと努めてみたが……」
「あすの御用をひかえているのに、そして、つい先日もおれが云ったのに……」
「あの場にいたら、そこもともわかってくれたろう。おれは決して前後を忘れはしなかった」
「結局、どうしようというのだ」
「つい先刻、藤六から決闘状が来た。あさっての明け七つ、長山の丘で立ち合おうという申しこみだ。須川」と、平三郎は静かに友の顔を見まもった。「……どうしても避けられないばあいだ。頼む、江戸へはやはり、そこもとが行ってくれ」
「それはことわる。考えてみないか黒沢。決闘となれば、相手を切らなければならない。その結果は自分も切腹だぞ」
「もちろんだ。そして、これは藩家将来のために、だれかが必ずしなければならないことだ。だれかが……」
「ああ平三郎らしい。あまりに平三郎らしい。暴を押えるのに暴をもってするのは、無為というべきだ。そこもとの勝ち気は、こんなことにしか役だたないのか。いけない。断じていけない。そこもとは刻限どおり江戸へ立つんだ」
「だが、武士と武士との約束をどうする。この上おれに恥辱を重ねろと云うのか」
「長山の丘へはおれが行く。そこもとは穏健と笑うけれど、穏健にも一徳のないことはない。藤六のことはおれにまかせてもらう」
「そこもとには、これが、おだやかにおさまると信じられるのか」
「火を消すにも法はいくつかある。やけどにかまわず手でもみ消すのも法だ。しかし水をうちかけてすむのに、手を焦がす必要はない。そこもとが帰るまでには、穏健にけりをつけておこう。あとは引きうけた。安心して行くがよい」
大丈夫だろうな。まちがいはないだろうな――いくたびも念を押したのち、なお心を残しながら平三郎はようやく帰っていった。
明くる朝、同僚たちといっしょに、城下はずれまで平三郎を見送った。冬にはいった空は、目に痛いほど碧色に澄みあがり、雲のわたる遠い山なみのなかには早くも雪をかぶったみねがながめられた。平三郎は下僕をつれて、まだ溶けやらぬ薄氷の張った刈田の間の道をまっすぐに、江戸へ向かって去った。……生之助はその日登城を休み、居間にこもって、終日なにかしていた。昼げも居間でたべるというので、松子がぜんを運んでいった。かれは居間いっぱいに書状や冊子や書きほごを広げ、机に向かって、しきりに何かものを書いていた。
「お片づけ物でしたら、わたくし、お手伝いいたしましょう」
「なに、もうすんでしまった」かれはぜんの前に来てすわった。「……久しくなげやりにしておいたものだから、このとおりだ。あとで、ほごを焼くときに手を貸してもらおうか」
食事のすむまで、かれはついに目をあげなかった。
午後になって日が傾きかけたころ、かれは書状やほごや古い日記などを庭へ持ちだした。松子が附木に火を移して来た。菜圃の一隅に穴を掘って、その中で、かれは書きほごから焼きはじめた。風のない、どんよりと曇った日で、屋敷の裏にある雑木林のあたりに、しきりとツグミの鳴く声が聞えた。
「黒沢は江戸から帰ったら」と、生之助は古い日記をひきさいて火の中へ投げいれながら、しずかな温かい調子で云った。「……帰ったらすぐ正式にあの話を申しこむそうだ。松子は迷いはしないだろうね」
「はい……」
われ知らず、かの女は片手で胸を押えた。
「あれは、まれな人間だ。お家のためには、けっして欠くことのできない、やがては勝山藩の柱石ともなる人間だ。夫としてはいうまでもない。松子はきっと、しあわせになるよ」
「でもわたくし、黒沢さまの妻として、恥ずかしくない者になれますでしょうか」
「平三郎は松子を愛している。男らしい清明な深い愛だ。それがすべてを生かしてくれる。かれの愛を信じていれば、松子は、しあわせなよい妻になれるよ」
煙がなびいて来たので、かれは目たたきをしながらせきいり、立ってわきのほうへ位置を移した。
「……ああけむい。すっかり目にしみてしまった」

すべてが灰になってしまうと、かれはその穴を埋めた。松子は、夕げの菜をとるのだといって、菜圃のほうへまわったが、そこから、にわかに声をあげて、かれを呼んだ。蘭が咲いたというのである。行ってみると、そのとおりだった。寒蘭が一輪、ひっそりと、花を咲かせていた。濃い紫色の五弁の花で、結い根に近く、あざやかな朱の点がある。――きょうという日に、そう思いながら、かれはかがみこんだ。かこってあるわらの中は、高雅な香りに満ちていた。――きょうという日に咲いた。目に見えぬえにしの糸でもつながれてあるような、かなしい愛着の情にそそられながら、いつまでも、かれはその花をながめつづけた。
その翌朝まだ暗いうちに、生之助は家をぬけだして長山の丘へ向かった。家々の屋根も、道の上も、雪のように白い霜でおおわれ、足にしたがってさくさくと砕ける音が聞えた。長山は城下を東へ出はずれた丘陵で、マツ、スギ、ナラなどの深い林に包まれているが、うしろに講武台のできた背のところには、平らな草地がある。生之助はそこを目あてにして登っていった。……乳白の朝もやが薄くはいたように、枯草のしがみついた地表に垂れ、条をなしてたなびいていた。腰から下を、その朝もやに消されて、草地の一隅に脇屋藤六の姿が見えた。かれにつき添って三人の若侍がいる。生之助はそのようすをながめながら、しずかな足どりで近づいていった。
「よう、来たな」藤六が、しゃがれた声でそういった。「……黒沢はいっしょか」
「おれひとりだ。黒沢は江戸へ立った」
「逃げたか」藤六はひきゆがんだあざけりの笑いをうかべ、ずかずかとこっちへ踏みよって来た。
「……それで、つまり貴公は申しわけの使者というわけか」
「そうではない。黒沢のかわりだ」
「なに、かわりだと……では貴公がおれと果し合いをするつもりか」
「そのとおりだ」生之助は身じたくをしながらうなずいた。「……黒沢は勝山藩に欠けてならぬ人間だ。おれは、かれと幼少のころからいっしょに成長して来て、かれがどのような人物か、だれより、よく知っている。どちらかが死ぬとすれば、かれではなくて、このおれだ。これは友情ではない。勝山藩百年のためだ」
「おれは平三郎に果し状をつけたのだ。貴公との立ち合いはことわると云ったら、どうする」
「そんなことは、ありえないさ」
生之助はすでにはかまのももだちをとり、覆い物をぬいでいた。
「……なぜなら、そこもとが承知するしないにはかかわらない。おれは脇屋藤六を切る」
「と、と、と」こう叫んで藤六は二三間うしろへとびすさった。かれの面上には火がついたように闘志が燃え、双眸そうぼうがにわかに殺伐な光を放ちだした。「……こいつは本気だ。こいつは骨がある。よし、相手になってやろう、抜け」
生之助は右足のつま先でとんとんと地面をたたき、しずかに刀を抜いた。そのとき向うにいた三人の若侍たちが、こっちへ近づいて来た。
×  ×  ×  ×
小笠原家の江戸屋敷は下谷池の端にある。平三郎は着いて三日休息し、四日めの朝、召しをうけて城へ登った。そして主君能登守正陟につれられて、雁の間にはいると間もなく、屋敷から使役つかいやくが追って来て、勝山から急使のあったことを告げた。急使は登城ちゅうでも注申する定めだった。正陟は廊下で使者に会った。
「十月十七日早朝」と、使役は、口ばやに云った。「……城外長山の丘におきまして、須川生之助、脇屋藤六の両名、わたくしの遺恨をもって決闘におよび、生之助こと藤六を討ちはたしましたるうえ、その場を去らず自害つかまつったとのお届にございます」
「生之助が、生之助が……」声を放って、うめくように正陟が叫んだ。
しかし、平三郎の驚きはたとえようもなかった。必ず穏便におさめてみせる、そう云った生之助の声はまだ耳にある。静かな確信ありげな表情も目に残っている。それにもかかわらず……それにもかかわらず、かれは藤六を切って自害した。では、やはり、あのことばはおれを安心させるためだったのか。あの時すでに、こうする覚悟をきめていたのか。それほどの思慮がおれにはわからなかったのだろうか。平三郎はわれ知らず、こぶしをひざにつきたてた。その時、使役が、会釈してこちらへすり寄った。
「殿中でははばかりであるが、殿のおゆるしがござったのでお渡し申す」そう云った使役は、ふくさに包んだ文ばこをさしだした。「国もとからの急使が持参したもので、須川生之助よりそこもとへの文でござる」
平三郎は主君を見た。正陟はうなずいた。それで、かれは座をすべり、しずかにふくさをときひろげた。須川の家紋を散らした文ばこのふたをあけると、こもっていた高雅な香りが、かれの面をうった。……中には一輪の蘭花が、しんとおさめてあった。