『家常茶飯』

あらすじ
守屋君は、二流銀行の貸付係を務めるサラリーマン。彼には美しく聡明で、貞淑な妻と、一歳四か月になる愛らしい息子俊一がいる。家庭は穏やかで、経済的にも安定し、誰が見ても幸せな一家だった。しかし、結婚生活も五年目を迎え、守屋君の心には次第に倦怠が忍び寄る。毎日変わらない生活、当たり前のようにそばにいる妻――それらが物足りなく感じられるようになっていた。
そんな折、守屋君は仕事の付き合いで通う酒場**「エトルリア」で、女給のひとみと知り合う。彼女は奔放で魅力的な女性であり、彼の心に一種の刺激をもたらした。そしてある日、守屋君はひとみと関係を持ってしまう。たった一度の過ちのはずだったが、それをきっかけに彼の心はさらに揺れ動き、次第にひとみに惹かれていく。やがて彼は、ひとみと鬼怒川へ小旅行をする計画を立てる。準備も整い、あとは出発を待つばかりだった。
しかし、旅行前夜、思いもよらぬ事態が起こる。息子の俊一が突然高熱を出したのだ。守屋君と妻は夜中に医者を求めて町を駆け回るが、最初に訪ねた樫田の医院では冷たく門前払いをされてしまう。絶望的な気持ちの中、ようやく名医と評判の桜井の診察を受けることができた。桜井は慎重に俊一の様子を診察し、単なる知恵熱である可能性が高いと告げる。その言葉に、夫婦はようやく安堵するのだった。
守屋君は、必死で子どもを守ろうとする妻の姿や、弱りながらも笑顔を見せようとする俊一の姿を見て、胸を締めつけられるような思いを抱く。そして、自分が今まさに捨て去ろうとしていたもの――かけがえのない家族の温もりに気づくのだった。彼は、ひとみとの約束を破ることを決意する。そして、旅行資金として準備していた大金を、妻への贈り物に使うことにした。
翌朝、ひとみが待つ上野駅には向かわず、守屋君は静かに日常へと戻っていく。彼の心はもう揺らいでいなかった。家族の大切さを再認識し、守屋君は再び平凡でありながらもかけがえのない、「家常茶飯」の日々を歩み始めるのだった。