『秋風不帰』

「秋風不帰」山本周五郎

あらすじ

五年間の剣の修行を終え、信濃国西条藩の城下に帰ってきた狩谷夏雄。しかし、城下町に足を踏み入れると、何者かに襲われる。間一髪で逃げ延び、幼少期に仕えていた下男・嘉右衛門の娘「お高」に助けられる。お高は父の墓を守りながら、夏雄の帰還を待っていた。彼女から、夏雄の父・狩谷与右衛門が城中で乱心し、主君に刃を向けたとして討たれ、兄・伊兵衛も切腹させられたことを知らされる。さらに、夏雄自身にも「放し討ち」の命が下されていた。

父の死の真相 夏雄は、信頼する旧友・七沢吉郎兵衛に事情を聞こうとするが、彼は何かを隠している様子だった。さらに、許嫁だった町子が筆頭家老・小野儀兵衛の息子・欣弥に嫁いだことを知り、衝撃を受ける。しかし、それでも父の「乱心」が真実であるとは思えず、事件の真相を探ろうと決意する。

七沢の手引きで、事件の鍵を握る井上銀之丞に会おうとするが、その直前、町子が現れる。彼女は、父の死の真相を探るために小野家に嫁ぎ、ついに核心を掴んだのだ。実は、夏雄の父は乱心したのではなく、小野儀兵衛の不正を追及し、切腹を勧めた。しかし、小野の側近が後ろから斬りつけ、それを井上銀之丞と七沢吉郎兵衛が仕留めたのだった。すべては、小野儀兵衛の陰謀だったのだ。

町子は、この事実を伝えると同時に、夏雄の目の前で自害する。夏雄は悲しみにくれながらも、彼女の想いを受け取り、復讐を決意する。

銀之丞との対決では、一瞬の隙を突いて彼を討ち取る。さらに、かつての友でありながら父を裏切った七沢吉郎兵衛とも剣を交え、これを斬る。真相は明らかになったが、夏雄はもはや藩に戻ることはできない。

町子の兄・若林善之助の助けを得て、夏雄はお高とともに藩を離れる。故郷を捨て、行く先の定まらぬ旅へ。霧の中、新たな未来へと向かう二人の姿が、物語の結末を飾る。

本作は、冤罪と陰謀に翻弄された武士の悲劇を描くとともに、剣の道を究める者の誇りと信念を描いた作品である。主人公・狩谷夏雄の孤独な戦いと、最愛の人を失いながらも新たな人生へと歩み出すラストは、読者に深い余韻を残す。

書籍

朗読


山本周五郎YouTube朗読チャンネル

本文

「ねえお侍さん、乗っておくれよ」
「しようのない奴だな」
狩谷夏雄は苦笑しながら振返って、
「何度も云う通り拙者は城下まで行くのだ、ここはもう柳繩手の町外れではないか、ここから馬に乗ってどうするのだ」
「それでも、……ねえ乗って下さいよ、……じゃなければ草鞋わらじを一足買っておくんなさい、お侍さんのは、もう緒が切れそうだよ」
年は十六か七であろう、まっ黒に日焼けのした顔に似合わず、頬冠りの下からのぞいている眼は、人懐こい艶々つやつやとした光を帯びて、かぬ気らしい唇許くちもとも、娘のようにしっとり湿っている。……畦道あぜみちのかかりから痩馬やせうまいて、しつこく従いて来るのだが、その調子がどこかしら普通の馬子でないものを持っているということに、夏雄はすこしも気付かなかった。
「ねえ、草鞋を買っておくれよ」
「うるさいな馬子、拙者は城下に家があってそこへ帰るのだ、五年の旅を終えていま家へ帰るんだから、草鞋だっていりはしないよ」
「じゃあ、お侍さんは御家中の人かい」
「そうだ」
「それじゃあねえ、若しや……」
馬子が、と側へ寄ろうとした時、
「おい、その馬ぁ空いているのか」
と後から声を掛けた者がある。
……馬子と一緒に夏雄も思わず振返った。町人風の眼の鋭い男が二三間後からこっちを見ていた。
「急ぎの用なんだ、空いているなら、ちょいとやってくんな」
「それ客だ、行ってやるがいい」
そう云って夏雄は道を急いだ。
信濃国西条の城下町、小山備前守四万石のお城が夕日に赤々と映えている、……六年め、本当に五年振りで見る故郷だった。
狩谷夏雄の父は与右衛門と云って、西条藩の槍奉行を勤めて三百二十石、夏雄はその二男で伊兵衛という兄がある。……兄は実直一方の男で早くから御側へ上り、二十歳の時には御書院番として、役料五十石を貰っていたが、夏雄は武芸好きで既に十歳の頃から、藩の進武館へ入り、十九歳で筆頭の札を掲げるほど才分に恵まれていた。
進武館で認められた者は、江戸へ遣わされて柳生家の稽古を受けられるのだが、夏雄はそれを嫌っていた。
――もう柳生の剣法は古い。伝統の型にかれて本来の魂を失っている、自分はもっと広く世間を見て、自由に大きく伸びたい。
慢心ではなく、極めて謙虚な気持でそう思っていた彼は、二十二歳の春、父を説き主君の許可を得て兵法修業の旅に出た。
……以来五年、出来るだけ山間僻地へきちを廻っては隠れた剣人を尋ね、剣法を職業としない人々のみが持っている純粋なものだけを学んで来た。
莫遮さもあらばあれ、夏雄の胸はいま帰郷の感動でいっぱいである。帰路は駄馬の脚がはずむという。五年相見ぬ家がもうそこに近づいているのだ。父を思い、兄を想い、友の誰彼を思う心は、そのまま足に表われて、一日路には無理な山路を元気いっぱいに歩き通して来たのだった。
お城の天守を染めている西日が落ちた。
晩秋のあわただしい黄昏たそがれが、町外れのごみごみした家並の軒にい始めて、帰り惜しむ童たちのけざわしい唄声が、裏街の方からもの哀しく響いて来る。
――あの角を曲れば家が見える。
樽屋町へかかって、二三丁先にある四辻よつつじの大松をみつけて彼が、ふっと胸を熱くしながらそうつぶやいたとき、
「……狩谷氏ではないか」
と、うしろから声をかけられた。
夏雄は知人の誰かだろうと思って、不用意に振返る、その面上へ、意外にもいきなりぱっと抜打ちをかけられた。
意外と云って、このくらい意外なことはないだろう、五年振りで帰る家を近にして、こっちは気もそぞろに急いでいるときだ。……それをうしろから呼止められて、物も云わず抜打ちを掛けられたのだから、不意も不意、全く絶体絶命の一刀だった。
しかし、相手も焦っていたらしい、間合が僅かに外れて、あっと反った夏雄の面上を、一寸遠く白刃がすべった。
「なにをする!」
仰天しながらも、さっと左へ跳ね退いて、
「拙者は狩谷夏雄、人違いするな!」
と喚きながら、見廻す。
わっと逃げ散る往来の人々の中から、充分に身拵みごしらえをした武士たちが十二三人、道の上下を断ってじりじりと詰め寄るのが見えた。
「待て、どうするのだ」
夏雄は再び叫んだ。

「理由を話せ、次第に依っては手向いはせぬ。訳を聞こう、狩谷夏雄と知っての事か」
「問答無用!」
初めに抜打ちを掛けたのが喚いた。
「おのおの、討ち洩らすな」
「心得た!」
刃の垣は見る見る縮まって来る。
――ふしぎだ?
夏雄はまだ夢でも見ているような気持である。なんのための討手だろう、何事が起ったのだろう、若しや彼等は五年間の修業の腕を試みに来たのではなかろうか?
「……えいッ」
気合と体と白刃が一つになって、左手から一人が火のような打ちを入れて来た。
夏雄は、右足を縮めて身をひねりざま、背負っていた袋を解き木剣を抜出しながら、左へ左へと体を移した。……僅かのあいだではあるが、取巻く人数の殺気が、のっぴきならぬものだということを知った。
――唯事ではない。
夏雄は、ようやく事の重大さを感じ始めた。なにかあったのだ、留守中になにか事件があったのだ、そう気付いた。
また一人、うしろ右手から、
「えいッ、とう!」
絶叫と共に突を入れる刹那せつな
「かあっ」
と、真正面から上段へ叩きつけて来た。
丁度挾殺きょうさつのかたちになった、しかしその瞬間の隙を截って夏雄の体が躍動し、かつ! という響と共に一本の剣は空へ叩きあげられ、正面から踏み出した一人は烈しくのめって行って、町家の障子ごと家の中へ顛倒てんとうした。
脈数にして二つ。
夏雄の両足は元の土を踏んで寸分も動かず、木剣は青眼、鼻梁びりょうの上にぴたりと静止していた。
手強てごわいぞ、油断するな!」
「脇を詰めろ」
「待て、逸まるな、助勢が来る」
短い叫びだが、夏雄の耳には、一語々々針のように突刺さった。
――事情が分るまでは、一人も斬りたくない。
そう思ってはいるが、必死を期しているらしい人数に、しこのうえ助勢が来たらこのままでは済まなくなる。
――切り抜けるなら今のうちだ。
覚悟を決めたとき、すさまじいひづめの音がして、町外れの方から一頭の放れ馬が狂気のように疾駆して来た。正に天のたすけである。
「危い、馬だ!」
「馬だ」
呼び交わして刃襖の一方が割れる。
――隙だ。
夏雄は猛然と踏み出しながら、
「行くぞ、えいッ、えいッ」
初めて絶叫する、と同時に、だあっと疾駆して来た放れ馬のうしろを飛鳥のように、南側の町家の露路口へとびこんだ。
「逃げたッ」
「やるなッ」
声は夕闇のなかに、千切れ飛んだ。
三尺そこそこの露地である、表の騒動をこわごわ覗いていた町人たちが、悲鳴をあげつつ家の中へ逃げ込むのを、眼の隅にまざまざと見ながら夏雄は一気に走り抜けた。
裏の草原は空地だった。
本能的に右へ行こうとしたが、その方には武家屋敷のあることに気付いてきびすを返す、とたんに右足の草鞋わらじの緒がぷつりと切れた。
――しまった。
と、思ったが追手の足音はせまっている、足に絡まる草鞋をそのまま左手へ脱兎の如く走りだす、とすぐ家裏の暗がりから、
「その方には手が廻ってるよッ」
と、呼びながら夏雄の前へとび出して来た者があった。
「ここへ隠れな、早く」
「誰だ」
「誰でもいい早くッ、そら来るよッ」
云いながら夏雄の手を取って、鼠のように家の蔭へと引摺ひきずり込んだ。
貧乏長屋の裏手で、薪小屋とまゆし場の並んでいるあいだに二尺許りの隙間がある、二人がもぐり込んだのはそこだった。息をつく暇もなく外を走り過ぎる追手の足音が聞えた。……際どい、ほんのひと足違いのことであった。
「黙って、……おいらのする通りにしてな、大丈夫逃げてみせるから」
――さっきの馬子だ。
夏雄は、そう気付いた。
――では今の放れ馬もこの少年の……。
「よし、さあこっちだ」
少年は夏雄にささやくと、静かに外の様子をうかがってから、薪小屋の蔭へととび出して行った。
草原の向うで、追手たちの呼び交わす声が、濃くなった夕闇を揺るように聞えていた。

風が出たのであろう、裏の竹藪たけやぶが寒々と、葉ずれの音をたてはじめた。
夏雄は、旅装も解かず坐っている。
ひどい家だ。……軒は傾き壁は落ち、柱は危く屋根を支えているというばかり、すすけた古行灯の光に照しだされた家の内は、まるで洪水にでも流されたように家財らしい物は一つもなく、ここに人が住むかと疑われる有様だ。
月昌寺の森をぬけて、大篠山の中腹から杖折峠の裏と思われる谷間の、ここは殆どどん詰りに当っているらしい。……二里近い道をひた走りに逃れて来た夏雄は、いま馬子の口から驚くべき話を聞かされたところである。
彼は正に動顛していた。
一昨年の春、父与右衛門は城中で突然乱心し、主君備前守正治に斬りつけようとして、近習の者に刺殺されたという。
兄伊兵衛は非番で家に居たが、即日切腹を命ぜられて自殺、食禄しょくろく召上げ家名断絶、しかも……旅中の夏雄にも、放し討ちという処断が発せられたというのである。
「……おまえは」
暫くして夏雄は眼をあげた。
「どうして、それを知っているのだ」
「はい、わたくしはお屋敷にいたのです、若さまはお忘れでございましょうか」
「屋敷にいた?」
「下男の嘉右衛門の娘でございます」
夏雄は眼をみはった。……云われて初めて気付いたのである。少年の姿こそしているが、眼許や体つきにどことなく、しんなりしたふくらみがあるとは思っていた。なるほどよく見直してみれば、襤褸ぼろを着た胸元から腰へかけての、円みを帯びた弾力のある線や、短く切って男結びにした髪も艶々と美しい。
嘉右衛門は実直者で、夏雄の少年時代にはよく外出の供をした。娘が一人あったことも覚えている。夏雄が旅に出る頃は、庭の柿の木になど登って、叱られていた乱暴の少女だった。……するともう十七か八になっている筈だ。
「嘉右衛門の娘か、……そうだったか」
「名はお高と申します」
娘は名乗ってから、急に言葉つきまで違って来たし、ゆきたけの合わぬ着物の、えりつまを恥しそうに引合せるのが、男姿だけ余計に、清純ななまめかしさを帯びている。
「旦那さまや、大きい若さまが、大変にお会いなさると、御家来衆は、みんな自分大事にお立退きなされました。父は泣いて口惜しがりました。……旦那様から御生前あんなに目を掛けて頂いた人たちが、一人として御遺骸の始末をして差上げもせず、逃げて了うのですもの、犬畜生の集りだと云って、父は死ぬまで口惜しがって居りました」
「嘉右衛門は死んだのか」
「はい、……お取棄てになった旦那さまと、大きい若さまの御遺骸をそっと運び出し、この谷間へお葬い申しましてから寝つき、わたくしは男装になって馬子をしながら、毎日あなたさまのお帰りをお待ち申していたのですが、今年の春、とうとう死んで了いました」
「……そうか。では……父や兄の墓はここにあるのだな」
「はい、大切にお護り申して居ります」
夏雄はようやく、父や兄の死が実感になって胸へ訴えて来た。
「線香があるか」
「はい、粗末な物でございますけれど」
「出してくれ、お目にかかって来よう」
お高は立って行った。
家を出て、藪を横に廻って行くと、谷の斜面に密生している松林がある。その林の一隅に自然のままの丸石が、二つ並んで据えてあった。……前には一節切ひとよぎりの竹筒に、しきみと線香の灰がこぼれている。
お高が火をつけて来た線香の束を、二つの墓前に立てながら、夏雄はそこへ両手を突いた。
「父上、唯今立帰りました、留守中の大変、なんとも、……なんとも残念に存じます、父上が御乱心などと、夏雄には信じられぬ事でございますが、如何いかなる仔細しさいか、たしかめましたうえで御供を仕ります」
お高のむせび泣く声がした。しかし夏雄は涙を見せず、静かに手桶ておけの水を墓石へそそいだ。
「兄上、御最期に遅れて申訳ありません。夏雄は父上御乱心の始末をただしましたうえお後を追います。それまで父上のお守りをどうぞ」
合掌して暫くのあいだ瞑目めいもくしていたが、やがて振返って、
「お高、嘉右衛門の墓はどれだ」
「……あれにございます」
父子の墓からやや右手に離れて、こぶしほどの石が置いてある、……夏雄は静かにその前へ移ってひざを突いた。
「嘉右衛門や、礼を云うぞ」
初めて、夏雄の眼から涙があふれ落ちた。初めて嗚咽おえつが唇をついて洩れた。
「……武士たる者がみな逃げ去るなかに、下郎の身で主人の遺骸を拾い、世を忍んでよく三年のあいだ墓を守ってくれた、しかも娘の奇智で自分までが、危地を免れることが出来たのだ。……礼を云う、かたじけなかった」

「だが馬を暴れ込ませた智慧ちえはあっぱれだ、あの場合よくあれに考えついたな」
「わたくし馬をお勧め申しましたでしょう。あの時から若さまではないかと思っていましたの。それで隙があったら、お呼び掛けしようとしていましたら後から呼ばれて、あの男はお仕置方しおきがたの手先で、もう若さまだということを察していたらしいのです。ですからお高はすぐ戻って、後をけました、そうすると、あの騒ぎです。おまけに加勢まで来るのが見えましたから、思い切って馬のお尻を小刀で」
「切ったのか?」
「そうするより他に、仕様がございませんでしたもの、でも可哀そうでございました」
夏雄は支度を終えて土間へ下りた。
「では行って来るぞ」
「どうぞ呉々くれぐれもお気をつけて……」
「出ないで待っているのだぞ、昨日のことで恐らくおまえも疑われているだろうから。いいか、出てはいけないぞ」
「はい」
お高はじっと夏雄の眼を見詰めながらうなずいた。
もう黄昏たそがれであった。
昨夜ひと晩考えた末、彼はず第一の手順として七沢吉郎兵衛を訪ねることにした。……ここで云って置かなければならぬ事は、彼には許嫁があった。同藩の納戸役なんどやくを勤める若林善之助の妹で町子、もう十年も前からの約束で年は夏雄と六つ違いの二十一になる。
本来なら善之助とも幼少からの親友だし、第一に彼を訪ねたいのだが、許嫁という縁にかされることがはばかられた。
ゆうべ逃げて来た道を逆に、月昌寺の森まで来ると、もう晩秋の日はとっぷりと暮れていた。……むろん表通は歩けない。裏道を用水堀に添って馬場まで行き、そこから寺町の暗がり伝いに武家屋敷へ出た。七沢吉郎兵衛の家は柳小路の地端れにある。夏雄は見覚えの黒塀くろべいに行き着くと、それを東裏へ廻った、……吉郎兵衛の居間の横へ通ずる木戸があるのだ。
――夜講の戻りによくここから訪ねた。
あの頃は平気で押し明けた木戸だが、今はかすかなきしみも耳に痛い。
入ると直ぐ植込みで、三間ほど先に灯影の明るい障子が見える。吉郎兵衛の居間だ。誰か客があるとみえて静かな話し声が聞える。
夏雄は植込みの中に身をかがめて待った。
話し声はなかなか絶えない。
城のやぐらで打つ八時の太鼓が聞えた。
それから更に半刻はんときも待ったであろうか、やがてにぎやかな笑い声と共に立ち上る気配がして、障子をあけて客が出て来た。……客は二人、それも若い夫婦づれである。
――小野欣弥だな。
蒼白あおじろい細面の顔で男の方はすぐ分った。筆頭国家老小野儀兵衛の二男だ。もう嫁をめとったのかと眼を移した夏雄は、新妻の横顔を見るなり、
――あっ!
と危く叫びそうになった。
夫婦はすぐに廊下を去って行ったので、ほんの一瞥いちべつに過ぎなかったが、女の横顔は焼き着くように眼に残った。
――慥かに、否……まさか。
夏雄は植込みから出た。
廊下を吉郎兵衛が戻って来た。……そのまま障子をあけて入ろうとした時、夏雄はすっと縁先に近寄りながら、
「七沢……」と、声を掛けた。
「…………?」
「拙者だ」
吉郎兵衛は相手を認めると、驚きながら素早く四辺を見廻してから、黙って入れという身振をした。
灯火を片寄せて対座すると、
「挨拶は抜きにする、七沢」
と、夏雄はすぐに切り出した。
「昨夕の樽屋町の騒ぎは聞いたろうな」
「……聞いた」
「まるで夢のようだ。父が逆上してお上へ刃を向けたなど、拙者には到底信ずることは出来ぬ。若し事実なら放し討ちの手を待つまでもなく、むろん割腹して父の後を追うつもりでいるが、……五年振りで帰って、いきなり聞かされても、とてもそうかと信じられないのだ」
「無理はない、それは当然だ」
「くわしい事が知りたいのだ。父はあの通りの人間で理由もなく乱心するとか、しかもお上へ刃を向けるなどという事は有得ない。……拙者は有得ないと信ずる。七沢、なにか仔細があるのではないか、なにか」
「正直に云うが、拙者にはなんとも返答が出来ない」
吉郎兵衛は苦し気に眼を伏せた。
「貴公だけでなく、与右衛門殿の気質を知っている者は、誰しも乱心などということは考えられないだろう。そのために色々とうわさも立った。しかし実否はどこまでも知る法がない」
実否を知る法がない筈はない。

夏雄は膝を進めた。
「父が逆上したという時、御前にいて刺し止めた近習番というのは誰だ」
「一人は井上銀之丞、しかしこれは駆けつけたとき既に与右衛門殿は絶命していたという。他に四人いたのだが、誰々だか分らない」
「どうしてだ、なぜ分らぬ」
「御家老の申付けで秘中されたと聞いた」
「御家老。……小野国老か」
「そうだ」
夏雄はふっと口をつぐんだ。
――果してなにかある。
そう直感したのだ。筆頭家老小野儀兵衛は権望家で、才腕もあると同時に専横をって聞え、藩政は殆どその手に掌握されていた。近年はまるで秘密政治の観さえあったほどだ。……武辺一徹の父は政治向きに就ては全く語らない方だったが、それでも或る時、
――どうにかしなくてはならぬ。
と洩らしたことがあった。
原因は案外そんなところにあるのではないか、夏雄はそう思った、……ただ乱心したというだけで、なにも仔細が分らない、刺し止めた者の名も秘密になっているというのは、それらが公表されると国老に不利な事実が表われるからではないのか。
「七沢、貴公に頼みがある」
「…………」
「明日でも明後日でもよい、銀之丞を拙者の許まで連れ出してくれ」
「それで、……どうする」
「銀之丞は知っている筈だ、いや、事の始末を知らなくとも父を刺し止めた近習番が誰だかということは知っている筈だ。拙者はそれを知りたい、どうしても知らずには置かぬ」
「いま貴公はどこにいる」
「杖折峠の裏に谷があるだろう、大篠山の裾伝いに行ったところだ、あの岩の奥に藪に囲まれた荒屋がある。そこにいる」
「やってみよう」
吉郎兵衛は暫く考えてこう云った。
「ただ昨夕の騒ぎで貴公が帰ったことを知っているだろうから、余り急いでは気付かれると思う、二三日余猶を置いて貰いたいが」
「迷惑をかけて済まぬが、……頼む」
夏雄は膝に手をそろえて低頭した。
谷間の廃屋の位置など、なおくわしく説明した後、茶をと云われるのを辞退しながら立ち上ったが、大剣を腰に差そうとしてふと
「拙者の眼違いかも知れぬが、さっき欣弥と一緒に来ていたのは、若林の妹ではないか」
「……そうだ」
吉郎兵衛は眼を外そうとした。
「矢張り、そうだったのか、……まさかという気もしたが、……そうか」
「しかし狩谷、これは他に仕様のない……」
「いや分ってる!」
夏雄は、さすがに寂しさを隠しきれぬ調子でさえぎった。
「考えてみれば当然だ、拙者はこういう身上になったのだから、もう約束を果すことは出来ないし、許嫁を反古ほごにしなければ若林兄弟も安全ではいられないだろう、……だが、なんだか拙者は、待っていてくれそうな気がした」
「……分るよ、狩谷」
「善之助とは莫逆ばくぎゃくだったし、……あのひとの気持も多少は知っていたと思った、……それで少し意外だったのだ、殊に相手が……小野国老のせがれとは」
吉郎兵衛は答える言葉に窮した。
「愚痴だな、はははは」
夏雄はむなしく笑って、
「しかしここへ来たお蔭で知ることが出来た。知らずに会ったら善之助を困らせることになったろう、拙者もこれで身が軽くなったよ」
そう云って静かに障子をあけた。
隣屋敷から、さびのある声で「鉢の木」を謡いだすのが聞えた。……夏雄は庭に下り、よろっとしたかたちのまま、棒を呑んだようにそこへ立ちすくんだ。
「……六郎左殿が、謡っているな」
ぎゅと、胸が緊めつけられるようだった。
徒士頭かちがしらの木暮六郎左衛門の謡曲は誰知らぬ者がない。殊に「鉢の木」が得意で、夏雄も少年の頃から何十回となく耳に慣れていた。
同じ声調である。
昔の通りの静かなさびのある、謡いぶりである。
恐らく寝る前の一刻を、居間に端坐して心ゆくまで独り楽しんでいるのであろう、……その平和な声調が、自分たち一家の悲運と鮮かな対照をなして夏雄の胸を衝いたのだった。
吉郎兵衛は黙ってその姿を見ていた。

寝苦しい一夜だった。
三日めの朝の光のなかで眼覚めた夏雄は、ようやく悲運を受止める力を盛返していた。……刺殺された父、切腹した兄、そむき去った許嫁、しかも自分も追われている、一時にのしかかって来たこれらの悪運が、三日めの今日になって、ようやく彼のなかに強い反撥力を呼び覚したのだ。
「……御膳ごぜんの御支度が出来ました」
お高の声がした。
「よし、起きよう」
起き上る夏雄の側へ、お高が恥しそうに近寄って来た。
――や。
夏雄は思わず眼を瞠った。
粗末ではあるが、あかのつかぬ着物に替えている。朱の入った帯を緊めている、髪もくしけずって、背へ束ねてある。すっかり娘らしい姿だ、しかし驚いたのはその顔だった。
まっ黒だと思ったのは日に焼けたのではなかった。恐らく谷川で沐浴もくよくをしたものであろう、小麦色ではあるがしっとりと潤いのある肌、触れば黒耀石こくようせきの露となってこぼれそうなひとみに、あくまでも紅いつぼみのような唇、……それはまるで人の違ったような美しさである。
「これは……、まるで、見違えるぞ」
「まあ、なにをおっしゃいますの」
お高はまぶしそうにまたたいた。自分では意識していないのだろうが、じっと見詰めながらまたたきをするその表情には、相手が自分の美しさを認めてくれたことに対する本能的な満足感が表われていた。
「お高、おまえ何歳になる」
夏雄は初めて見るように云った。
「若さまと十違いでございます」
「十七か、……驚いたなあ、昨日までとあんまり違うので、眼が覚めた」
「着替えましたから、それで……」
「そればかりではない、一昨日馬を曳いていた時とはまるで人が違ったようだ。いまのおまえを見ると、あの馬子姿など思い出すことは出来ない。まして柿の木へ登っては叱られたあの頃のおまえを考えると」
「まあ若さま、あんなことを御存じでございますか」
お高はふと眼のふちを染めながら、なにか溢れるような眸で夏雄を見上げた。
そういうあらわな凝視がどんな意味をもつか、まるで知らないらしい。年から云えばもう立派な娘になっている筈なのだが三年このかたの苦辛の生活は彼女の心を身体と一緒に育てる暇がなかったのであろう、……それだけにかえってひたむきな、大胆な凝視は夏雄を狼狽ろうばいさせた。
「さあ、拙者も川へ行って旅の垢を洗って来よう。それから食事だ」
夏雄は自分の感動を隠すような声で云った。
谿流けいりゅうの水は冷たかった。しかしその冷たい沐浴は彼の心を新しくした。寝苦しかった一夜の疲れがさっぱりと抜けて、生死を超脱した気持は清々しいくらい張りを持って来た。
――こんな気持で腹を切りたいな。
平静にそんなことさえ、考えられたのである。その日は一日、谷を見下すがけの上で暮らした。いつ吉郎兵衛が来るのか分らなかったからである。しかしすっかり暗くなって人の姿は見えず、折悪く時雨れて来たなかを夏雄は家へ帰った。
雨は明くる日も降り続いた。
その雨のなかを、ひる過ぎの四時頃になって一人の下郎が訪ねて来た。蓑笠みのかさの滴も払わず、よほど急いでいる様子で、
「この手紙を御覧下さいまし」
と吉郎兵衛からの封書を差し出した。
夏雄はこの隠れ家を、下郎などに教えた吉郎兵衛の仕方が軽々しく思えたが、書面をひらいてみると走り書きで、
――銀之丞を、月昌寺門前の茶店まで連れ出してあるから、直ぐ来るように、この使いは自分の召使う下郎で心配のない者だ。――
ということがしたためてあった。
「よし、直ぐに参る」
「御一緒に、御案内を致しまする。その方が却って人眼につかぬでございましょうと、蓑と笠を持参つかまつりました」
「それはかたじけない、では」
夏雄はすぐ支度にかかった。
お高は黙って支度を手伝ったが、その顔は血気をなくしていたし、手は微かにふるえていた。夏雄は旅嚢りょのうの中から金袋を取出して渡しながら、
「ここに僅かだが金がある。今夜のうちには戻って来るつもりだが、万一の場合にはこの金で身の立つように、馬子をするほどの覚悟があるのだから身一つの始末は出来るだろう」
「……はい」
「むろん、帰って来られると思うが、明日のひるになっても戻らなかったら立退け、いいか」
お高は主人の眼を見詰めたまま頷いた。
夏雄は蓑を着、笠を取って家を出た。

ひたひたと雨のなかを急いで、月昌寺の森を裏門へかかろうとした時である。
「狩谷さま、お待ち下さい」
と呼びながら、矢張り蓑笠を着けた者が一人追いついて来た。
「……誰だ」
「その男をお放しなさいますな!」
云いつつ走り寄って、笠をあげるのを見ると、……町子であった。
――あ!
と思った直ぐ、夏雄は、下郎の衿をひっつかみながら、ずるずると樹間へ引き摺り込む。
「動くな、声を立てると斬るぞ」
「お町どの……」
「狩谷さま……」
女は身を震わせながら、ふりしぼるような声で男の名を呼んだ。……千万の言葉に優るたったひと言、火のような双眸そうぼうは、そのまま夏雄の眼の中へ食い込むかと思われた。
しかし、それは実に僅かな間のことだった。
町子は笠を捨てた。黒髪は肩までにふっつり切ってある、夏雄がそれを認めるのを待って、
「七沢さまにお会いなされる前に、わたくしから申上げることがございます」
と、震え声を、懸命に耐えながら云った。
「この度のことはみな御家老小野儀兵衛の計事はからいごとでございます。くわしい事実はわかりませぬが、お父上さまが御家老の私曲をお知りなされ、城中で問責なさいましたうえ、切腹をお勧め遊ばしたのです。御家老はのっぴきならず、返答にも窮した様子を、側に見ていた御家老付きの者が、うしろからいきなり……」
「誰です、それは何者です」
「二の太刀は井上銀之丞さま」
「初太刀は、第一は誰です」
「七沢吉郎兵衛さまでございます」
夏雄はふしぎにも、それが当然であるような気さえした。町子がここへ追って来たというだけで、彼の心には驚きに備える気持が出来ていたのである。
「それは、慥かなことでしょうね」
「はい、そのために……」
町子は罰を受ける者の如く雨のなかで額を垂れた。
「そのために、町は欣弥の許へ嫁いだのでございます。そうするより他にはお父上さま御最期の仔細を知る法はございませんでした」
「では、……では貴女は」
「町は夏雄さまの妻でございました。欣弥の許へは死んで参ったのでございます」
そういうと共に蓑の下で、彼女の手が烈しく動き、ぐいと体が前跼みになった。
「あ、なにを!」
夏雄は仰天してとびついた。
その隙に、下郎がぱっとはね起きた。夏雄は抜き打ちにその背へ一刀!
「あうッ……」
二つに裂けた蓑と共に、下郎の体はだっ飛沫しぶきをあげながら顛倒する、……夏雄はそれより早く、町子の体を抱き止めた。しかし彼女の両手は、柄元まで刺し通した懐剣をかたく胸の上で握って放さなかった。
「早まった、お町どの、どうしてこんな」
「いいえ、いいえ、町はもう、欣弥の許へ嫁ぐとき死んでいたのでございます、ただ、今日まで、この仔細をあなたさまにお伝え申したいため、ただそのために屍を保っていたのです。……夏雄さま、お父上の敵は申上げたお二人、いま寺内に、家中の者十三名と待伏せている筈です、どうぞ……おぬかりなく」
温かい血が、夏雄の手を伝って流れた。
「町子、忝いぞ」
夏雄は耳へ口を寄せて云った。
「危くわなにかかるところ、そなたのお蔭で助かった。父上と兄の仇はそなたのためにも敵だ、……必ず討って取るぞ」
「御……御武運、めでたく」
懐剣を放した手を、夏雄の胸へさし伸ばそうとしたまま町子は絶息した。
夏雄は暫くそのまま屍をき抱いていた。
良人おっとと決めた者のために、秘密の根を探るべく若い命を捨てて敵の手に身を投げ出し、いまその責を果して帰するが如く自害した、そのひとすじの真心が、死顔の上にも神のような清浄さを表わしている、哀れというには、あまりに満ち足りた表情であった。
夏雄はやがて屍を抱きあげた。
樹間の向うに観音堂がある、そこへ運んで行って扉をあけ、堂の中へ静かに横たえた。暫く合掌唱名した彼は蓑を脱いで、たすきをかけ、汗止を巻き、はかまひもを緊直し、刀の目釘めくぎに湿りをくれてから、再び蓑と笠をひきまとって堂を出た。
雨はまだ降りしきっている。
本堂の裏を右へ、鐘楼の脇から山門を表へぬけて出ると茶店がある、……近づいて行くと、広い土間の床几に吉郎兵衛のいるのが見えた。
――待伏せの人数は?
と見廻したが、後は松の疎林、手前は門前の通りで、隣りは町屋に続いている。恐らく茶店の奥か裏にひそんでいるのであろう。
吉郎兵衛が夏雄を認めて手をあげた。

「遅かったな。使いの下郎は?」
「人眼につくから裏門のところに待たせてある……」
茶店の軒先に立ったまま、
「銀之丞はどうした」
「来ている、まあ入らないか」
「先ず会おう」
吉郎兵衛は眼で奥の方を示した。
土間の裏手で、手を洗う水の音が聞え、やがて銀之丞が現われた。……彼は夏雄をみつけるといぶかしげな、しかし明かに取って付けたような何気ない態度で、
「誰だ、……そこへ来たのは」
と、云いながら近寄って来た。
夏雄は蓑の緒を掴んでいた左手を放し、笠をのけながら、片足で床几しょうぎの一つをぱっと上げた。床几はがらがら音高く、銀之丞の退路を塞ぐように横へ倒れた。
「あ!」
身を退こうとする面前へ、
「銀之丞、父の仇だ、覚えあろう」
踏み込みざま、抜打ちに一刀、脾腹ひばらを存分に斬り放した。
完全に先を取った一刀。しかも五年間の修業をうちめた必殺の剣である。銀之丞は右へかわそうとした体勢のまま、吉郎兵衛の掛けている床几の端へ、だっと倒れかかった。
「狩谷、無法なことを」
と、吉郎兵衛が色を失って叫ぶ。
「黙れ吉郎兵衛」
夏雄は相手の面上へ切尖きっさきを突き付けた。
「父を刺し止めた者が誰か、もう分っている。父は乱心したのではない、小野国老の私曲をただしたために国老付きの奸物に不意討ちをかけられ無念の死を遂げたのだ。しかも国老一味は己等の身を護るため、父を狂人に拵え、お上へ刃を向けたなどと称して兄にも切腹を命じ、この夏雄の命までねらっている、謀略の種はすっかり分ったぞ。父を刺し止めた一人は銀之丞、もう一人は貴様だ」
「なにを、なにを云う狩谷」
「立て、武士らしく立合ってやる、来い」
吉郎兵衛は顔面をひきつらせ息を引きながら見上げていたが、突然うしろへ、床几に掛けたまま、だっと身を倒す。
「方々! であえッ」
悲鳴のように叫ぶ。
と、裏口へ、ぬっと現われた一人、大剣を抜いて左手の戸を引閉ひきたてながら、
「助勢の者は引受けた、存分にやれ狩谷」
と、叫んだ、
町子の兄、若林善之助である。
夏雄はにっと微笑しながら、狂気のようにはね起きる吉郎兵衛を、切尖で軒から外へと追い出した。
「抜け、抜け吉郎兵衛」
「…………」
卑怯ひきょうに後からだまし討ちをかける手はあっても、武士らしく刀を抜くことは出来ないのか、恥を知れ」
「……やっ!」
わっというような叫びと共に、吉郎兵衛は絶体絶命の刀を抜いた。
しかし刀身がさやを離れるより早く、夏雄の剣は彼の真向を割りつけていた。……降りしきる雨のなかを、吉郎兵衛はつんのめるようなかたちに、だあっと倒れた。
「……みごと」
声を掛けながら、善之助が出て来た。
「加勢の者は?」
「貴公のみごとな先で、虚を衝かれたとみえて、みんな退散した。しかし恐らくすぐ手配りをするだろう、早くとどめを……」
「うん」
夏雄は二人に止めを刺し、髪を切り取った。
「町に会ったか」
「……会った、……遺骸は観音堂にある」
「褒めてやってくれ」
「うん」
夏雄は善之助の手を力限り握り緊めた。
「悲しいめぐりあわせだ、……未練だが、拙者にはあきらめきれぬ」
「泣くな、町は満足して死んだ筈だ。人はそれぞれ己の運を背負っている。切り抜けられる運と、どうしても切り抜けられぬ運がある、……狩谷、貴公は新しい運を切りひらくのだ、生きろ」
「生きる!」
「町の始末は引受ける、手配の廻らぬうちに立退け、拙者もおっつけ江戸へ出る、また会おうぞ」
雨を浴びながら、二人はひたと眼を見交わした。……幻聴である。その短い沈黙のなかで夏雄は、六郎左衛門の「鉢の木」を謡う声をまざまざと聴いたように思った。
夜が明けかかっていた。
谿谷に沿って走る桟道は、濃霧に濡れている。杉の巨木も濡れている。頭上の空だけは高く高く夜明けの光を含んでいるが前後左右に渦巻く濃霧で、乳色の壁のように閉ざされている。
「……大丈夫か、歩けるか」
「はい、わたくしは大丈夫でございます」
お高は元気に微笑した。垂れかかる後れ毛に、霧の微粒が美しく珠を綴っている、……黒い大きな眸子は、新しい旅に出発する幸福で耀かがやいていた。
「道はまだ遠く、もっとけわしい。辛いこと、苦しいことも数限りなくあるぞ」
「若さまのお供なら、どんな苦しさでも……」
「よし、その気持を忘れるな」
夏雄は頷いて、頭をめぐらした。
故郷の山河は、濃霧の彼方に去った。再び帰る日はいつのことか、……仇敵の髪を供えて来た藪蔭の墓に、晴れてぬかずく日が、果して来るであろうか。光の一閃いっせん、濃霧を引裂いた。二人のための新しい朝が始まった。