『夫婦の朝』

あらすじ
秋田藩士・加納三右衛門の妻、お由美は、ある日浅草寺へ参詣した帰りに、かつての幼馴染であり初恋の相手だった沼部新五郎と偶然再会する。新五郎はかつては才気ある武士だったが、不始末を起こして藩を追放され、今では落ちぶれた浪人となっていた。彼は困窮しており、お由美に金を無心する。お由美は夫に「病気の弟・半之助のため」と嘘をつき、金を工面して新五郎に渡す。
しかし、それが新五郎の本当の目的ではなかった。彼はお由美が若い頃に送った恋文を盾にして、さらなる金銭を要求する。「拒めば夫の元に手紙を持っていく」と脅されたお由美は、夫に知られないように自分でなんとかしようと決意する。
お由美は絶望し、夫に打ち明けることもできず、自ら命を絶とうと覚悟する。しかし、三右衛門はすべてを察していた。彼はお由美に気づかれぬように新五郎を探し出し、直接交渉に乗り出す。
新五郎は最初は金を受け取るつもりだったが、手紙を返す気はなく、さらなる恐喝を企てる。しかし、三右衛門は冷静に彼を斬り、手紙を取り戻す。
翌朝、お由美が覚悟を決めて家を出ようとすると、三右衛門が手紙を持ち、焚火をしながら彼女を呼ぶ。夫はすべてを知っており、すでに手紙を取り戻していたのだった。お由美は驚きと感謝のあまり涙を流す。
三右衛門は静かに言う。「夫婦は苦しみも喜びも分かち合うものだ。お前はもっと俺を信じろ」と。その言葉に、お由美は夫への愛と信頼を深め、改めて夫婦の絆を確かめ合うのだった。
『夫婦の朝』は、夫婦の絆の強さと、真の信頼の大切さを描いた作品である。お由美の過去の過ちが試練となるが、それを乗り越えたことで夫婦の愛はより深まる。山本周五郎らしい情感あふれる筆致で、人の弱さと、それを包み込む優しさを丁寧に描いている。読み終えた後に、心に温かさと感動が残る物語である。
書籍
朗読
本文
霜月のよく晴れた日であった。
お由美は婢のよねを伴れて浅草寺に詣でたが、小春日和の、如何にも快い陽射しに誘われて、つい大川端の方へ足が向き、それから橋場の先まで歩いたので、帰りにはさすがに少し疲れ、茶屋町まで来てふと通りがかりの掛け茶屋へ休みに入った。
舌を焦がすような渋茶を啜りながら、お由美は摘んで来た野菊の枝を揃えた。もう葉は霜枯れているのに、鮮やかな紫の三、五輪の花は、そのまま深い秋の色をとどめている。
――雄物川の岸にも咲いていた。
ふと故郷の山河が眼にうかんで来た。
「きれいな色でございますこと」
よねも眼を細めながら云った。
「秋らしくて、いい花ね。いちばん好きよ、秋田へ行くと一面にこれが咲いているの、雄物川という大きな川の堤なのよ……子供のじぶん親しいお友達と二人きりで、誰にも教えない約束をして、大事にしていた場所があったわ」
「あちらはずっと北国でございますか」
「そう、今じぶんはもう雪だわ」
お由美は遠くを見るように眼を上げた。
雪国で育った肌は絖のように白くひき緊って、眉つき眼許の淋しいなかに、飽くまで朱い湿った唇だけが、身内にひそんでいる情熱を結んでみせたかのように嬌めかしい、……江戸の下町で生立ったよねなどから見ると、それは妖しいほどの美しさであった。
「あの……もし」
そう呼ばれてお由美が振返ると茶汲み女の一人が側へ来て、
「ちょっと是を」
云いながら小さな紙片を差出した。
なんの気もなく受取ってみると、二つ折にした中になにか書いてある、披いたお由美の眼へいきなり「新五郎」という署名がとびこんで来た。
その短い文字はお由美の全身の血を凍らせた。息の止まるようなとは此事であろう。お由美は懸命に驚愕を抑えながら、素早くその紙片を丸め、
「分りました、これで」
と銭入から夢中で、幾らとも知れず取出して女の手へ渡し、
「よね、参りましょう」
そういって立上った。
震える足を踏みしめながら二三十間行くと、尖ったお由美の神経は直ぐに、後から跟けて来る人の跫音を感じた。
……不承知なら其処へ名乗って出ます、そういう声を、すでに忘れて久しい男の蒼白い、眼の鋭い顔が歴々と思い出される。
「……ああ、よね」
お由美はふと立止った。
「おまえの家はたしか、この近くではなかったかえ」
「はい、瓦町と申しまして此処から」
「宜いからね、おまえは家へ寄っておいで、私は出たついでにこれからお友達を訪ねます」
口早に云って銭入を取出し、
「是で家へなにか買って行っておやり」
「……まあ、奥様」
「日暮れまえに帰って来れば宜いからね」
そう云い捨てると、よねが口をむ隙もなく、もう足早に歩きだしていた。
よねが怪しみはせぬかという心配より、男が理不尽なことをしたらと思う方が怖しかったのだ。……振向きもせず、東本願寺の方へ曲って暫く行くと、後の跫音がすたすたと追いついて来て、
「そこを左へお曲りなさい」
と囁いた。
「左側に桔梗という料理茶屋があります、そこへお入りなさい」
もう糸に操られる木偶のようだった。
後から囁く嗄れた声の命ずるままに、料理茶屋の横庭口から入ると、出て来た女が心得顔に導くあとから上へあがり、長い廊下の端にある小さな部屋へと入って行った。
――帰らなくてはいけない、こんな場所にいてはいけない。
紊れた胸いっぱいに、まるで誰か人がいて喚くような声を感じながら身動きもならず立竦んでいると、……後から浪人態の男が一人、刀を右手にぬっと入って来た。
お由美は恟としながら振返った。
男は不健康な、蒼白い疲れた顔に、眼ばかり大きくぎらぎら光らせている。太い眉の片方をあげ、唇を左へ歪めたのしかかるような表情で、
「しばらくでしたな、お由美どの」
そう云いながら後手に襖を閉めた。
焜炉の上では貝鍋が煮えていた。
秋田の国許から、季節になると名物の魚を雪詰めにして届けて来る、それが家臣たちにも少しずつ贈わるので、故郷の山菜と共に塩汁で煮るのが冬になっての楽しみのひとつだった。
お由美はそっと良人の横顔を見た。
三右衛門は黙々と箸を動かしている、……ふだんから口数の寡い方で、濃い一文字眉と、髭の剃跡の青い角張った顎は、ちょっと近付き難いほどの威力を持っているが、なにげなく振返る時の表情や、ぽつりぽつり語る言葉の韻には、思い懸けないほど温かな底の深いものを感じさせる。……加納三右衛門という名は佐竹家でも名誉の家柄で、食禄こそ五百石足らずであるが年寄の格式をもっていた。
「……どうしたのだ」
ふと三右衛門が眼をあげた。
「溜息など吐いて、気分でも悪いのか」
「はあ、……いいえ別に」
「顔色も悪いぞ」
お由美はぐっと喉の詰る気がした。……そして思い切ったように、
「実は、お願いがございまして」
「……なんだ」
「あのう……金子を少し頂きたいのでございますが」
三右衛門は不審るように妻を見た。お由美は震えて来る声を懸命に抑えながら、
「実は弟の半之助が江戸へ来て居りまして」
「半之助が来た……?」
お由美の弟に半之助というのがいる、まだ前髪の頃から悪童の群と近づき、絶えず悶着の種となって親を困らせていたが、遂に身持がおさまらぬため十九歳のとき勘当されて了った。……三右衛門は彼の少年時代を知っているし、勘当されて以来その行衛が知れぬので毎も案じていたのである。
「それはよかった。いま何処にいる」
「今日浅草寺の戻りに会いまして、色々と事情を聞いたのでございますが、ひどく苦労した様子で……すっかり躰を悪くして居りますの」
「それはいけないな、江戸へ来たなら訪ねて参ればよいのに。……兎に角明日にでも拙者が行って伴れて来よう、何処にいるのだ」
「それが……あの」
握り合わせたお由美の指はじっくりと汗ばんでいた。
「半之助が申しますには、今の姿を御覧に入れることはどうしても出来ませぬ、これから上方へ行って修業を仕直し、立派な武士になったうえ、改めてお眼にかかりたいと申しますの」
「うん。……然し躰を悪くしていては直ぐに旅立つという訳にも参るまいが」
「わたくし、弟の心任せにしてやりたいと存じますが、お聴届け下さいませんでしょうか、十金ほど遣わしまして、必ず立派な者になるよう申し訓してやりとう存じますが」
嫁して来て足掛け三年、苦労を知らぬ明るい気質で、眉を顰めることなど一度もなかったお由美である、それが今宵はすっかり取乱し、唇の色もなく、黝い大きな眸子までが哀願の顫えを帯びていた。
「いいとも」
三右衛門は無造作に頷いた。
「半之助だってもう二十一歳になる、自分でそう云うほどなら本当に眼が覚めたのだろう、では拙者は知らぬ積りにしているから、おまえ熟く云い聞かせて今度こそ武士らしく立直るように云ってやるがいい」
「有難う存じます」
お由美の眼にふっと泪が溢れた。
「御迷惑を掛けまして、本当に申訳ございません」
「なんだ、可笑いぞ泣いたりして」
三右衛門は微笑しながら箸を措いた。
「おまえの弟なら拙者にも弟だ、改って礼を云うなんて他人行儀だぞ、このくらいのことで半之助が武士に成れれば仕合せではないか、……然し、今夜は魚が来たり半之助の信があったり、ふしぎと故郷に縁のある日だったな」
お由美はそっと泪を拭きながら、
――嬉しゅうございます。
と心の裡に呟いていた。
その明くる日、勤めから退出して来た三右衛門は、妻が珍しく薄化粧をし、自分の好きな着物を着てけざやかに微笑しながら出迎えたのを見て、ほうと眼を瞠った。
お由美の眼は活々と艶を取戻していた。
「行って来たか」
「はい、行って渡して参りました」
良人の脱ぎ捨てた衣服を畳みながら、お由美はすっかり元気になった声で、
「よく申し聞かせましたら、もう二度と御迷惑は掛けませぬ、必ず立派な人間になってお伺い致しますと、泣きながら申して居りました」
「よかった、よかった」
「半之助が真人間になれば故郷でも心配の種が無くなるというものだ。それとなく義父上にお知らせ申すがいいな」
「はい……」
お由美はどきっとした様子だったが、
「でもまだ、なんだか知らせるには早いように存じますけれど」
「直ぐでなくともいいさ」
三右衛門は妻の様子に気付かなかった。
「そのうち次手があるだろうから、兎も角も行衛の知れたことだけは知らせるがいい、そうすれば義父上も一応御安心なさる」
「……はい」
「拙者から書いてあげてもいいぞ」
「いいえ、わたくしそう申して遣ります」
「ああ腹が空いた」
三右衛門は締めた帯を叩きながら、
「さあ食事にするかな」
と居間へ入って行った。
三右衛門はお由美と五つ違いの二十八であった。父が勘定奉行だった関係で二十歳の時に江戸詰の留守役を命ぜられ、今では筆頭の席に就いている。……まえにも記した通り寡黙の質で、別に世故に長けたところがある訳でもないが、駈引の要る留守役という職を実に手際よく取仕切るので、内外の評も極めて好く、家中の衆評は未来の勘定奉行と決っていた。
お由美は嫁いで来てから暫くのあいだは、黙って冗談も云わない良人が如何にも近付き悪く、咳払いを聞いてもはっと胸を躍らせるほどであったが、いつか次第に気心が知れて来て、
――こんないいお方だったのか。
とようやく気付いたときには、いつか自分が良人の静かな愛情にしっかりと包まれているのを知って、身の顫えるような歓びを感じたのであった。
――由美は仕合せ者よ。
既に三年になる此頃でも、折に触れては心からそう呟くほど、お由美の生活は幸福に溢れていたのである。
「半之助はもう出立したかな」
明くる夜も三右衛門はそう云った。
「若い時分に道楽をするくらいの者は、いちど眼が覚めると吃驚するほど変るものだ。……きっと半之助もよくなって帰るぞ」
「そうあって呉れると宜しゅうございますが」
「早くいい信が見たいな」
そんなことを話し合ってから、五日ほど経った或朝だった。
お由美が出仕する良人の支度を手伝っていると、家士の彦右衛門が一通の書面を持って入って来た。
「申し上げます。唯今、見知らぬ使の者がこの書面を持参致しまして、奥様へお眼に掛けて下さるようと申しまするが」
「私に……」
お由美はさっと顔色を変えた。
受取って見ると表には姉上様とあり、裏には半之助と認めてあった。分りましたと家士に答えてそのままふところへ入れようとすると、
「……半之助からだな」
と三右衛門が見咎めて云った。
「披いて読んで御覧」
「はい、でも後でわたくしが……」
「読んで御覧」
静かではあるが拒むことを許さない声音だった。……お由美は震える手で封をひらいた。
「矢張りいけなかったか」
みなまで聞かず三右衛門は立った。
それっきりで後はなにも云わず、大剣を差して出る良人を、お由美は玄関へ送って出たが、そのまま暫くのあいだ其処に茫然と居竦んでいた。
「……やっぱり、いけなかった」
良人の言葉がふと唇に出た。
お由美は自分の呟きにはっと気付いて、きらきらと光る眼を大きく瞠きながら、玄関の庇越しに空を見上げたが、
――そうだ、このひまに。
と頷いて立上った。
着替えをするのももどかし気に、急に入用の買物があるからと云い残して家を出ると、七軒町の辻で駕を拾いそのまま田原町の料理茶屋「桔梗」へと急がせた。
お由美が入って行ったとき、その部屋では風態の悪い三人の男が酒を呑んでいた。
いつぞやの新五郎と名乗る浪人者の他は、二人とも破落戸と見える男で、お由美が入って来たのを見ると、卑しい愛相笑いをしながら、なにやら執持でもするという風に、襖を明けて何処かへ立去った。
お由美は蒼白く、ひきつったような硬い表情で、立ったまま先刻の書面を取出し、
「これ、お返し申します」
と投げ出した。
「まあお坐りなさい」
新五郎は嗄れた静かな声で云った、「立っていたって仕様がない、火の側へ寄って先ず手でも煖めたらいいでしょう」
「これで結構です、……沼部さま」
お由美は怒りを抑えながら、
「貴方は先日お約束なすったことをお忘れではございますまいね、わたくし良人のある躰でございますのよ、……貴方がお躰を悪くして其日の生活にも困ると仰有ったので、わたくし出来ないことを無理にして差上げたのです。それなのにまたこんな、……こんな無法なことを云って寄来すなんて、貴方はお由美をどう思っていらっしゃるのですか」
「もっと静かに話したらどうです、そんなに一途に怒られても仕様がない、それでは相談が出来ませんよ」
新五郎は唇を左へ歪めながら、まるでお由美の怒りを楽しんででもいるように見上げた。
「相談などする必要はございません、先日お金を都合して差上げたことがわたくしの落度でございました。これで失礼いたします」
「お待ちなさい」
新五郎は少しも騒がずに云った。
「お帰りになるなら止めようと云わないが、明朝までに五十両、待っていますよ」
「そんなこと、……お断り申します」
「無情なことを云うものじゃない、今こそこんなに落魄れているが、貴女にとってはこれでも一度は良人と呼ばれた躰ですよ」
「なにを仰有います」
「なにをって、……嘘だとでも云うんですか」
唇を歪め、片方の眉を吊上げながら、相変らず冰のように冷たく静かな口調だった。
「貴女が十五で拙者が十九の春、秋田の八橋の丘で行末を語り合ったあのときのことを、貴女はまさか忘れはしないでしょう」
「沼部さま」
お由美はさっと色を変えた。
「貴方はあんな、子供時代の戯れを」
「子供の戯れだと云うんですか。なるほど、そうかも知れないな、末は夫婦と誓いながら平気で加納へ嫁入ったくらいだから、貴女は一時の戯れかも知れない、然し拙者はそうは思っていませんよ」
「わたくし末は夫婦などとお誓いした覚えはございません、それは貴方のお間違いです」
「誓いの有無は水掛け論だ、此処で幾ら論じたところで埓の明くことではない、然し一応お断りして置きますが、拙者はただ昔の思い出だけで物を云っているのではありませんよ。……斯ういう品を肌身離さず持っているんだから」
新五郎はふところから、ひと束の古い封書を取出して其処へ置いた。
「…………」
「どんな文字が書いてあるかは、貴女がよく御存じだろう」
「…………」
「お由美どの」
新五郎は初めてにやりと冷笑した。
「拙者は困っている、五十両の金が是非とも入用なのだ。昔の恋人がこんなに困窮しているのだから、五十や百の都合はして下さるのが人情じゃありませんか」
「…………」
「貴女がどうしても出来ないと仰有るなら、この手紙を持って加納を訪ねるだけです。……加納は筆頭留守役、妻の昔の恋文なら五十両が八十両でも買って呉れるでしょう」
お由美は慄然と身を震わした。相手の態度の落着いた、何処までも静かにじわじわと詰寄って来る調子は、まるで眼に見えぬ繩で十重二十重にお由美を縛り上げるようなものであった。
「分りました」お由美は辛うじて答えた。
「明朝十時までに参ります」
「五十両ですよ」
相手の声も夢心地に聞いて、お由美はよろめくように其処を立出でた。
沼部新五郎。彼は秋田藩士で二百石の馬廻りだった、……お由美とは兄の友達として幼い頃から親しく、一時はまるで家族のように往来したこともある。
兄と弟のあいだに一人の女子として愛されて育ったお由美は、美貌で才気のある新五郎にいつか乙女心のほのかな憧憬を感じ、別に重大なこととも気付かず、その年頃にありがちな物語でも読むような綺麗な気持で、幼い恋心を燃えたたせたこともあった。
八橋の丘の青草に埋れながら、雄物川の流を見て半日一緒に暮らしたこともある。……また文を求められて、古今集などから歌を索いて書送ったこともあった。
然し、それは何処までも乙女心の夢のような憧憬に過ぎない、いちばん身近な者に対象を置いて、まだ見ぬ恋の手習いをするというほどのものに過ぎなかった。
……むろん、それがはしたないことだったのは事実で、自分でもそれに気付くと直ぐ彼から遠退いて了ったのだ。
新五郎は美貌で才子だったが、その二つのものが身に禍して、間もなく大きな不始末をしたため藩を追放された。
以来まる八年。
浅草寺に詣でた帰りに、見違えるほど変った相手を見たときでも、お由美は殆んどそのことは忘れていたのである。そして……病気で食うにも困っているからという相手に心を動かされて、良人から金子を貰って遣ったのだ。
然しそれがいけなかった。
――このお金は弟に遣ると云って持って来たものです、どうか是で御病気を治して、立派な武士にお成り下さい。
と云った言葉を逆に利用された。
そして昔の文反古などを持出して、更に五十両という大金を強請りだしたのである。若し厭なら良人の許へ行くという、恐らく本当に訪ねて来るだろう。……そうしたら、良人はどう思うだろう、幼い戯れとして笑殺して呉れるだろうか、否、否、否!
――良人に知らせてはならない。
お由美は胸のなかで絶叫した。
今ほど強く、烈しく良人を愛したことがあったろうか、お由美は空想のなかで良人を抱緊め、祈り叫ぶように稚きあやまちの赦しを願った。
……然しそうする後から新五郎の冷やかな眼が見えて来る、五十両はさて措き十両の金も自分には得られない。
――もう一度良人に頼もうか。
そうすれば良人は自分で会うと云うに違いない。そして半之助でないことが知れたら更に結果は悪いだろう。
蹌踉と家に帰ったお由美は、まるで憑かれた者のように、閉籠った居間の中で徒におろおろと刻を過していた。……良人が帰宅した時も、よねに知らされて慌てて出迎えたほどであった。
「どうした、ひどく顔色が悪いぞ」
三右衛門は着替えをしながら、
「加減が悪いなら休まなくてはいけないな、おまえが来てから此家は俄に明るくなった、だからおまえが浮かぬと直ぐ家中の者が陰気になる、……以前はそんなことに気付かなかったが、ふしぎなくらい覿面だ」
「……御気分を損じまして、申訳ございませぬ」
「謝るやつがあるか、おまえのことを心配しているんだ」
三右衛門は笑って、
「風呂がよかったら入りたいな、それから、今夜は久しぶりに酒を飲ませて貰う」
「はい、……なにか支度を」
「いや有る物でいい、夕食のあとでちょっと外出して来るから」
「お出掛けでございますか」
「うん、碁仲間が集って会をやるのだ、これから御用繁多になるから今の間に打ちだめをして置こうという訳さ」
なんの屈託もない明るい調子だった。
三右衛門が明るいほど、お由美の自責は烈しかった。……良人の健康な顎が、逞しく食事をする動きにさえ、胸を刺されるような苦しさが感じられる。
――五十両の金。
――なにをするか知れない新五郎。
――良人の恥辱。
そんな言葉が断れ断れに、紊れた頭のなかで火花を散らしながら旋回する。
「先に寝ていていいぞ」
そう云って三右衛門が出て行くと、お由美の追詰められた感情はもうぬきさしならぬ絶望の壁へ突当っていた。心が狭いとひと口に云う、云うのは男、男から見るとそうかも知れない、然し女は男ほど生活のひろがりを持っていない、艱難に順応することは出来ても、是を打開する力を恵まれていない、退引ならぬ穽に追込まれた女性が多く選ぶ方法は、だから大抵は一つところに帰着する。
――もうどうしようもない。
お由美は決心した。
今宵ひと夜を名残りに、明日は行って此身の貞潔を証し、良人の汚名になるものを除いて了おう。
用箪笥の中から懐剣を取出して来たお由美は、行燈の火に刃を照しながら、いつまでも凝乎と瞠めていた。
「彦右衛門、此処だ」
「は、……行って参りました」
伝法院の土塀に添って片側は田圃、空はいちめんの星で、肌を刺すような北風が吹きつけて来る。……三右衛門は覆面をしていた。
「疑われはしなかったか」
「いえ、夜の方が人眼につかぬから、茶屋町の辻でお待ちになっていると申しましたら、三人とも直ぐ此方へ来る様子でございます」
「御苦労だった」三右衛門は微笑しながら、「ではもういいから其方は帰って居れ、今宵のことは他言を禁ずるぞ」
「仰せまでもございませんが、私も此処に」
「いや、いけない」
固く首を振って遮った、「其方がいたところで邪魔になる許だ、それより帰ったら奥の様子に気をつけて呉れ」
「奥様になにか……」
「別に仔細はないが頼む、……早く行け」
彦右衛門は心残るさまだったが、やがて下谷の方へと小走りに立去った。
三右衛門は大剣の鯉口を切った。
ずっと見通しの田圃から、吹渡って来る風は強くはないが、その冷たさに指が凍えて来るのを、ふところで温めながら暫く待っていると……やがて田原町の方から提灯がひとつ、三人の人影が近づいて来た。
二、三間やり過しておいて、
「ああ其処へ行く方々、……此処でござる」と呼びながら出た。
三人は恟として振返った。殊に新五郎はお由美が待っているものと信じて来たので、咄嗟に刀の柄へ手をかけながら、
「誰だ、誰だ」と暗がりを透すように居合腰になった。
「なにをそんなに驚かれる、貴公の望み通り五十金を持参したのだ、貴公の方でもむろん、約束の品はお忘れあるまいな」
「お由美どのの手紙か」
新五郎は手紙の束を出して、「此方はちゃんと持って来ている、……だが貴公は誰だ、お由美どのに頼まれて来たのか、それとも」
「いや誰にも頼まれぬ、今朝あの人の心配そうな姿を見て後を跟け、『桔梗』で隣の部屋から仔細を聞いたのだ、……余計なことかも知れないが買って出る、その手紙を五十両で売って呉れぬか」
「よかろう、商売は拙速を貴しとする、先ず金を拝ませて貰おうか」
三右衛門はふところから金包を取出して渡した。……新五郎は用心深く、伴れの提灯で封を切って検めたが、
「慥かに五十両、忝けない」
とふところへ捻込んで振返り、
「では慥かに受取ったと、お由美どのにそう伝えて呉れ、頼むぜ三右衛門」
「そうか」
三右衛門は苦笑して、「矢張り拙者と知っていたのだな、遉に才子沼部新五郎、いまの駈引はみごとなものだ、その才を旨く使ったら立派な者に成れたろうが」
「ふん、そんな御託は家へ帰ってからにしろ、此方は酔醒めが来そうだ、行くぜ」
「待て待て、約束の品をどうする」
「おや、おめえ本当にこの手紙を取返せる積りでやって来たのか。冗談じゃあねえ、是せえあれあ金の蔓、まだまだ当分のあいだは役に立つ品だ。これっぱかりの端金でおいそれと渡せるものか、面を洗って出直して来い」
言葉も態度もがらりと破落戸の性根を出した。……三右衛門は然し静かに笑って、
「そうか、では仕方がない」
と羽折の紐を解きざま、
「沼部、貴公の性根は見届けた、生かしておけばいずれ故主の名を汚すだろう、成敗するぞ」
「やるか!」
と叫んで身を退こうとした。
然しそれより疾く、三右衛門が踏込んだと見ると、提灯の光を截って大剣が伸び、新五郎は右へ躰を捻りながら、まるで躓きでもしたように、がくんと其処へ膝を突いた。
見ていた二人はあっと、悲鳴のような叫びをあげて逃げようとする。
「待て待て、逃げるな」
三右衛門は烈しく呼止めた。
「貴様たちまで斬ろうとは云わぬ、早く医者を呼んで手当をしてやるがよい、片足は無くなろうが命には別状ない筈だ」
「……へえ」
「暫く何処かへ隠れていて、傷が治ったら江戸を立退け、拙者はこれから五十金盗難に遭ったと届出る、まごまごしていると繩にかかるぞ」
「へえ、……か、か」
畏りましたと云う積りであろう。……三右衛門は手紙の束を抜取ると一応検めてから大剣に拭いをかけて鞘に納め、
「沼部、身にしみろよ」
と云い残して大股に立去った。
お由美は仏壇に燈明をあげていた。
寒気の厳しい朝で、指にかけた水晶の数珠が骨へしみるほど冷たい、……肌も潔め、髪も梳き、肌着も白い物を着けている。
――これで再び帰らないのだ。
そう思っても、既に覚悟が出来ているせいか案外心は平らかだった。暫く祈念して燈明をしめし、もういちど自分の居間へ帰って不始末なところはないかと検めてみた。夜のうちに片付け物は済ませてあるので、もう遺書の上書きさえすれば出られる。
――是で大丈夫。
と立上ったとき、庭の方から、
「由美、由美」
と良人の呼ぶ声がした。
「ちょっと来て手伝って呉れ」
「……は、はい」
お由美は心を鎮めながら、慎ましく縁側へ出て行った。
昨夜の寒気を語るように、外はいちめん雪のような霜である、良人の三右衛門は庭の霜柱を踏みながら、枯枝を折って小さな焚火をしているところだった。
「……なんぞ御用でございますか」
「うん、其処に、その」
と三右衛門は顎をあげて、「古い手紙があるだろう、そいつを焼いて了おうと思うんだ、おまえ小さく裂いて渡して呉れ」
「……はい」
お由美は云われるままに縁側の端に置いてある手紙の束を取上げたが、その表を見、裏を返すなり、危うくあっと叫びそうになった。
――どうして是が。
どうして是がと眼も眩みそうに愕いた。
そのために死のうとまで覚悟した自分の手紙、稚き日のあやまちの手紙、どうしてこれが良人の手にあるのか、どうして新五郎の手から此処へ来たのか。
「さあ、どんどん裂いて呉れ」
三右衛門は勢いよく燃えはじめた焔を見ながら促した。
「考えることはない、早く裂いて此方へ寄来さないか、……焼いて了えば灰になる、それですっかり鳧が着くのだ」
「……あなた」
「いいんだ、分っているよ」
三右衛門はなんども頷いた。
お由美は夢中で手紙を引裂いた。その一通ずつが、自分の命を取返す救いの神のように思われた。……三右衛門は裂かれた文反古を、次々と火にくべた。
薄青い煙の尾は、研いだような青空へゆらゆらと立昇った。
――良人は知っていた。
――良人は新五郎の始末をして呉れた。
――自分は赦された。
お由美は感動に胸を塞がれながら、袂で顔を蔽いつつ噎びあげた。……三右衛門は振返って静かな声で云った。
「お由美、……おまえは三右衛門の妻だ、おまえは三右衛門をもっと信じなくてはいけないぞ、歓びも悲しみも、互いに分け合うのが夫婦というものだ、こんな……詰らぬことで、二人のあいだに若し不吉なことでも出来たらどうする」
「…………」
「三右衛門は舟だ、おまえは乗手だ、確りと拙者に捉っているがよい、拙者はおまえの良人だぞ」
お由美は泪の溢れる眼をあげて良人を見た、三右衛門は微笑をしていた。
……そして、さも快さそうに胸を張りながら空を見上げて云った。
「さあ泪を拭いて庭へおいで、よく晴れている、お城の天主が霜で銀のように光っているぞ」