『花宵』

あらすじ
掛川藩に仕える武士の家に育った兄・清之助と弟・英三郎。父が亡くなってから、母・いねは英三郎に対して特に厳しく接するようになる。清之助は母に優遇される一方、英三郎は何をしても叱られ、兄と比べられる日々を過ごしていた。
次第に英三郎は「もしかして自分は継子なのではないか」と疑念を抱き始める。その思いは次第に募り、ついには母に直接問いただしてしまう。すると、母は静かに真実を語る。彼女は英三郎がいずれ家を出て、他家の養子になるか分家する運命であることを見越し、世間の荒波にも耐えられる強い武士に育てようとしていたのだ。それを聞いた英三郎は涙ながらに母の愛情を理解し、心を入れ替えて立派な武士になろうと誓う。
一方、清之助もまた、母が自分を特別扱いしているように見えていたことを知り、自分が継子であることを悟る。しかし、母がそれを一度も感じさせず、本当の息子として接してくれたことを理解し、深く感謝する。二人の兄弟は夜桜の下で互いの思いを語り合い、母の期待に応えて立派な武士になることを誓い合うのだった。
『花宵』は、武家社会に生きる兄弟の葛藤と成長、そして親の愛の深さを描いた感動的な作品である。誤解から生じる心のすれ違いが、真実を知ることで絆へと変わる過程を繊細に描いており、家族の愛とは何かを改めて考えさせられる。山本周五郎らしい人情味あふれる物語であり、読後には温かい余韻が残る。
書籍
朗読
本文
清之助のきよがき(お清書)をつくづくと見ていた母親のいねは、しずかに押し戻してやりながら、
「よくおできでした」
とやさしく云った。
「あなたの字はのびのびとしていて、見ていると心がすがすがしくなります。けれど、もう少し丁寧にお書きなさるともっとみごとになると思います。……このつぎは是よりお上手なのを見せて戴きましょうね」
「はい」
清之助はあっさりとおじぎをした。弟の英三郎はそれを待ち兼ねたように、自分のきよがきを母のほうへさしだした。
――今日こそ褒めて戴けるぞ。
お師匠さまのところから帰る道みちそう思いつづけて来たのであった。なぜなら、兄のものには点がないけれども、かれのものには点が二つついていたからである。そのお師匠さまが二つ点をつけるなどということはまったくめずらしいことであった。
――今日こそ兄上に勝てるんだ。
そう思いながら英三郎は自慢そうにちらちらと兄のほうを眼の隅で見た。清之助は知らぬ顔で庭を見ていた。
「よいお点を戴いておいででした」
いねはよくよく文字を見てから云った。
「お点はよいと思いますけれど、母にはおまえの字はよいとは思えません。いつも云うとおり、おまえは兄さまの字をよく拝見して、もっともっと勉強しなければいけないと思います」
「…………」
「英三郎、おわかりですか」
母のこえはきつかった。今日こそ褒めて貰えると信じていた英三郎は、思いのほかの言葉に胸がいっぱいになり、ちょっと返辞もできなかったが、母のきつい声を聞いてようやくそこへ手をつきながら「はい」と答えた。そして兄のあとから廊下へ出るとすばやく指で眼をぬぐった。清之助はいばって肩を張り、自分たちの部屋へはいるとき、
「えへん、ぷい」
と云った。英三郎は黙って自分の机の前へいって坐った。
「英三郎、山へ行かないのか」
「行きません」
「どうしてさ、行くと約束したじゃないか」
英三郎はきよがきを二つに折って抽出へしまい、本箱の中から手に当った書物をとりだして机の上にひろげた。清之助はずかずかとそばへ寄って来て弟の肩を押した。
「武士の子が約束をやぶるという法はないぞ、さあいっしょに行こう」
「いやです」
「なぜいやなんだ」
「勉強するんです」
英三郎はひろげた書物の上へかぶさるようにしながら云った。
「母上が勉強しろとおっしゃったんですから、だからわたくしは勉強するんです」
「それなら帰ってからだっていいじゃないか。勉強の時間はきまっているのに今日だけそんなことを云うのはへそまがりだぞ」
「だって母上が……」
「英三郎」
ふいに廊下で母親の声がした、兄弟はびっくりして振り返った、母親は障子のそとに立ちどまったまま、
「兄さまが行こうとお云いなさるのになぜ行かないのです、母はいますぐ勉強をなさいとは申しません、行っておいでなさい」
「お許しがでた、行こう英三郎」
清之助はいきなり弟の手をとって立たせた、母親はしずかに奥のほうへ去った。
――母上はどうしてあんなに兄上だけ御贔負になさるのだろう、やっぱりあの噂が本当なのではないかしら。
夜になって寝間へはいってから、英三郎はいつも考える同じことをまた考えめぐらした。ずっとまえにはそうではなかった。
父が生きていた頃にはそんな不平は少しも感じなかった。それが二年まえの秋に父が亡くなってから、にわかに母はきびしくなった。
ただきびしくなったのではない、兄に対してはまえと少しも変らないのに、英三郎にだけはずいぶんこまかいところまできびしいのである。
武家では長幼の順が厳重だから、兄に対して弟がいちだん低い礼をとるのは当然であるが、この頃では英三郎の身につける衣服や袴まで兄のおさがりときまってしまった。
――英三郎おまえがいけません。
どんな場合でも母はそう云って彼を叱った。どんなに兄が無理なときでも叱られるのは彼だった。
――おまえが悪いのです英三郎、兄さまにお詫びをなさい。
そういうことがたび重なるにしたがって、英三郎のおぼろな記憶のなかから或ひとつの言葉がよみがえって来た。それはもうずっと昔のことであるが、兄とふたりで庭で遊んでいたとき、客間の広縁のところから父と来客の老人とがこっちを見ていた。
ふたりは英三郎と清之助の遊んでいるさまを眺めていたらしかったが、そのうちにふと客の老人がひとりごとのようにつぶやいた。
――まるでまことの兄弟でございますな。
言葉はそのとおりではなかったかもしれない、けれども英三郎の記憶にはそういう意味で残っていた。そのときは妙なことを云う御老人だと思っただけですぐ忘れてしまったけれども、この頃になってひとりで考えることが多くなるのといっしょに、その老人のふしぎな言葉がしきりと思いだされるのであった。
――もしや自分は継の子ではないかしら。
考えるだけでも眼の前が暗くなるような気持であるが、ともすると英三郎はそのことを思いつづけるようになった。
「そうだ、本当にそうかもしれない」
彼はよくそうつぶやいた、そしてだんだんと口数がすくなくなり、自分の部屋にとじこもってひっそりと本を読んでいることなどが多くなった。そういうときに読むのはきまって曽我物語であった、ことに「小袖乞い」のくだりはいくど繰返して読んでも飽きなかった。
小袖乞いのくだりは、十郎祐成と五郎時致の兄弟がいよいよ父の敵を討ちにゆくとき、それとは云わずに母へいとまごいをする、兄の十郎は母に可愛がられているので、餞別にといって母から小袖を貰う、それで五郎がわたくしにもとお願いをするが、五郎はまえに母の心にさからって勘当されていたため、いくらお願いしても小袖が貰えないのである。しまいには兄のとりなしでようやく勘当をゆるされ小袖も貰えるのであるが、母につれなく叱られて五郎の身も世もなく泣くところが英三郎にはいかにも悲しく、読むたびに涙が出てしかたがないのだった。
その夜もおなじことを考えつづけたあと、英三郎はまた曽我物語をとりだし、有明行燈の灯をほそくして読みながら寝た。……そんなことは曽てないのに、小袖乞いのくだりでまた泣かされたあと、泣きながらとろとろと眠ってしまったらしい。
「英三郎、……英三郎」
と呼ばれてはっと眼をさますと、枕元に母が坐っていた。彼はびっくりして起き直った、母の右手には曽我物語の本が握られていた。
「あかりをつけたまま寝るとはなにごとです」
「はい、悪うございました」
「それだけではありません、夜具の中で本など読んではならぬと、いつも母が云ってあるのを忘れたのですか」
英三郎は両手をついて顔を伏せた。
「おゆるしください母上、もう決して致しません」
「今夜はもう更けているからゆるしてあげます」
母はそう云いながら立った。
「顔がよごれていますよ、洗って来てすぐにおやすみなさい。この本は母が預かります」
武家は朝が早い、兄弟はずっと幼い頃から真冬でも四時には起される、水でからだを清め、庭へ出て汗のながれるまで木剣を振る、それからもういちど洗面して食事をとり、武術の稽古と学問の勉強にそれぞれの師匠のもとへゆく、帰るのはたいてい午後三時すぎであった。
武術や学問の稽古にかようときは、必要な道具に弁当を持つために下僕がひとり供をしてゆくのが習慣であったけれど、父が亡くなってから間もなく兄弟は供なしでかようようになった。それは家計をきりつめるためであった。父の森脇六郎兵衛は掛川藩(今の静岡県掛川市)のお徒士番がしらで二百五十石ほどの食禄であったが、父が亡くなると共に食禄が半分になった。長男清之助が十五歳になると家督を相続することができる。そうすれば元どおり二百五十石全部貰えるのだが、相続するまでは半分だけしかさがらないのが定まりだった。そして清之助が十五歳になるまであと二年あった。そのあいだ家計をよほどきりつめなければならないので、下女と下僕は一人ずつ残してみんな暇をだしてしまった。――清之助がお城へあがれるようになるまでは、みんなできるだけ辛抱して倹約をしましょう。
母はそう云って、稽古がよいの供をやめさせたのである。それはよくわかっていた、けれどそれ以来英三郎は自分の道具や弁当のほかに兄の分まで持たされることになった。
――弟が兄の物を持ってあるくのはあたりまえだ。清之助はいばってそう云うし、母もそれが当然のことのように云った。はじめからそうしていたのならべつだけれど、いままで下僕の役だったのを自分がするのだと思うとこれまた英三郎にとっては悲しく辛いことの一つだった。まえの晩、更けてから母に呼びおこされて叱られたので、あくる朝いつもの時刻に起きたけれど、英三郎は寝足りないようで眼がしぶかった。
「おい英三郎、来てみろ、満開になったぞ」
さきに井戸端へ出て、元気にからだを拭いていた清之助は、弟が庭へおりて来るのを待ち兼ねて叫んだ。庭の隅にある桜の老木が、まだほの暗い朝の光のなかでみごとに満枝の花を咲かせていた。英三郎はねむい眼がいっぺんにさめたように思い、
「本当ですね、ずいぶんよく咲きましたね」
と云いながら兄のほうへ近よっていった。
「あの花の下で仕合をしないか、英三郎」
清之助はいいことを思いついたというように、いきいきと眼を輝かせながら、
「ただ木剣を振るだけじゃつまらない、今朝はふたりで仕合をしよう、満開の花の下で武術の稽古をするなんて寛永武士みたいでいいじゃないか」
「でも道具を汗にしてしまうと……」
「道具なんかつけやしない木剣でやるんだ」
「だってそれでは怪我をしますもの」
「よせよ、おれとおまえとでは段がちがう、どんなことがあったっておまえに怪我をさせるようなへまはしないよ、さあやろう」云いだしたらきかない兄だし、段ちがいと云われたことも癪だった。いつもの稽古肌着に短袴をつけた英三郎は、鉢巻をきっと締めると、云われるままに桜の木の下へすすんでいった。清之助はにやっと笑った。「よしその元気だ、遠慮はいらないから思うぞんぶん打ち込んで来い、いいか」
「……いざ」英三郎は木剣をとって身構えをした。
ひっそりとした朝の空気を縫って、どこか裏のほうで鶏の鳴く声がした。空はしだいに明るくなり、頭上の雲があかね色に染まりだした。……頭の上へたかく木剣をふりかぶった兄の姿を、じっと睨みつけていた英三郎は、やがて「えい」と叫びながら地面を蹴立てて打ち込んだ。
おうと答えて清之助は右へよけた。英三郎はすさまじい姿でそれを追った。木剣と木剣とが打ち合ってはげしい音をたてて、ふたりの位置は右へ左へと変った。
「その調子だ、元気で来い」清之助は弟の木剣を巧みにそらしながら自由にとびまわった。英三郎は逆上してしまった。自分の腕の立たないのも口惜しく、まるでこっちをからかっているような兄の態度はさらに口惜しかった、それで遂には法も型もなくめちゃくちゃに打ってかかった。
「おっと危い、そらこっちだ、しっかりしっかり」
清之助は面白がって縦横に弟をひきまわしていたが、やがて木剣をとり直すと、
「こんどはこっちから打ち込むぞ」と云いさま、えいと叫んで踏みだし、はげしい力で下からはねあげた、英三郎の木剣は咲きほこる桜の花のなかへはねとび、ぱっと雪のようにはなびらを散らせながら遠くのほうへ落ちた。
「……まいった」英三郎が茫然として叫ぶと、
「まだまだ、こんどは組み打ちだ」と云いながら、清之助は木剣を投げだしてとびついて来た。
「まいった、兄上わたくしの負けです」
「なに勝負はこれからだ、えい、そら元気で来い」
「もういやです」振り放そうとするのを、清之助は構わずひっ組んで投げ、ぐっと馬乗りになると、
「源平須磨の浦の戦だ、おれは熊谷の次郎直実、おまえは無官の太夫敦盛だ。いいか、こう組み伏せたら動けまい」
「……まいった」
「まて、いま首級をあげるところだ、えい」清之助は右手で首を掻く真似をすると、ようやく弟の上からとび退き、「敦盛を討ちとったぞ」と大ごえに名乗りをあげた。英三郎はすぐにはね起きた。そしてからだについた泥を払おうともせず、まっすぐに駆けだしていって広縁へあがり、自分の居間へはいったと思うと、すぐに刀を持ってとびだして来た。するとそのようすを見ていたのであろう。母が走って来てすばやく前へ立ち塞がった。
「英三郎お待ち、おまえ刀を持ちだしてどうするつもりです」
「兄上と、兄上と果合をします」
英三郎の顔は蒼白くひきつッていた。
「お黙りなさい、なんということを云うのです、兄さまと果合をするなどと云っておまえ」
「行かせてください。兄上はいまわたくしの首を掻く真似をしたんです。いくら兄上だってあんまりです、武士の子が自分の首を掻く真似をされて黙ってはいられません、お願いです母上、どうか果合をさせてください」
「なりません、どうしても果合をするというのなら、この母を斬ってからになさい」
「……母上」思いもかけぬ言葉を聞いて、英三郎はびっくりしたように母を見た。本当にびっくりしたような眼つきだった、そしてしばらくはものも云えずに母の顔を見あげていたが、急にわっと泣きながらそこへ坐ってしまった。
「そんなに、そんなに母上は兄上だけが可愛いんですか、英三郎は憎いんですか。英三郎は母上の子ではないのですか」
彼は泣きながら訴えた。
「兄上はどんなことをしたって叱られない、どんなときでもお叱りをうけるのはわたくしです、いつでもそうです、英三郎のすることはみんなお気に召さないんですか。それは、それは母上……英三郎が母上の本当の子でないからではないのですか」
「おまえなにをお云いだ」
「わたくしはそう思います」
「英三郎」
「わたくしはいつか聞いたんです」彼は夢中で云った。
「ずっとまえに御老人のお客が、わたくしと兄上の遊んでいるところをみながら『本当の兄弟のようだ』と云っていました、本当の兄弟のようだというのは……」
「お黙り、お黙り英三郎」母は顔色を変えてさえぎった、それからじっと英三郎をみつめながら、「こちらへおいで」と云って、仏間へはいっていった。英三郎も涙をぬぐいながら、あとから立っていって母の前へ坐った。母のいねは向き合って坐ってからも、しばらくなにも云えないようすで黙っていた。まだ夜の残っている暗い部屋に、あげたばかりの仏壇の燈明がまたたいていた。
「おまえはいま、母がおまえを憎んでいるとお云いだった、兄さまは叱らないでおまえばかり叱るとお云いだった」
いねはやがて低い声で云いだした。
「そうお云いだったけれど、おまえは自分が悪いのではないかと自分でいちどでも考えてみたことがありますか。それは兄さまよりもおまえのほうにきびしくしているのは本当です、なぜなら兄さまはこの森脇の家を継いで、一生母のそばにいる人です。けれどおまえは成人すれば他家へ養子にゆくか、または分家して一家をたてなければなりません、いつかは母のもとを去って他人の世界へゆく人です。……そうなってしまえばもう母は面倒をみてあげることができないのです、悲しいことも嬉しいことも、おまえは自分ひとりの力で耐えてゆかなければならない時が来るのです」母親は云いさしてそっと眼をぬぐったが、すぐに涙を隠してつづけた。
「清之助はあのとおり元気で性質も明るくひとりで何処へはなしても安心だと思いますけれど、おまえは幼い頃から気の弱い子でした、少しのことにも感じやすく、すぐ自分とひとを比べて考える癖があります。昨日のきよがきもそのとおり、おまえはよい点をとって兄さまに勝とうという気持でいる、それではいけないのです、それではよいお点をとったところでゆきどまりになってしまいます。学問でも武芸でもみな一生の修業ですが、それは掛川藩のため、ひいては御国のお役にたつのでなければだめです。『おれが』という自分だけ偉くなる気持では、どれほど学問武芸にぬきんでたところで少しも値うちはありません。……兄さまに勝つことよりも、御国のお役にたつりっぱな人間になろうと努力をするのがまことの武士の道ではありませんか。おまえはもう十一歳です。『自分ばかり叱られる』とか『継の子ではないか』などというめめしいことを考えるのはおやめなさい、母はこれからも叱ります、けれどそれは、おまえがいつか森脇の家を去って、波風のあらい世間でひとりだちになるときのためです、そのとき世間から未熟者と笑わせたくないから叱ります、おまえの本当の母だから叱るのです」
「ごめんください、おゆるしください母上」
英三郎は拳で眼を押しぬぐいながら、さっきとはまるでちがう嬉しさの溢れる声で云った。
「よくわかりました、わたしが悪うございました。おゆるしください」
「本当におわかりですか」
「はい、継の子だなんて云って申しわけがございません、ごめんください」彼は涙でぐしょぐしょに濡れた顔をあげ、泣き笑いをしながらじっと母をみつめた、
「でも母上、英三郎は安心しました。もう、……いくらお叱りをうけても大丈夫です」
「いやな英三郎ですね、叱られて大丈夫だということがありますか」母親はそう云いながら思わず笑いだした、けれど「本当の母だから叱る」というひと言がこんなにもわが子をよろこばせたかと思うと、笑いながら眼の裏がじっと熱くなるのを感じた。
「このご本は返してあげましょう」立ちあがった母は、ゆうべ持ち去った曽我物語をとりだして来てわたした。
「これからは小袖乞いばかり読んではいけませんよ」
「どうしてそれをご存じなのですか」
母は答えずにただそっと微笑した。
「さあ、兄さまが待っておいででしょう、早くごぜんにしてお稽古へおいでなさい」
春の夜にはめずらしい青白く冴えた月が宵空にかかっていた。庭の桜に吹く風もなくて、どこか近くの屋敷から小謡の声と鼓の澄んだ音がのどかに聞えてくる。
「どうするんですか、兄上」
「夜桜を見るのさ、いい月だぞ」
清之助をさきに、そのあとから英三郎が、そっと庭へおりて桜の花かげへやって来た。
「ややよく冴えているなあ、まるで冬のようじゃありませんか」
「もっとこっちへ来ないか」
「此処のほうがよく見えますよ、ちょうど花の枝のあいだでいい眺めです」
「なあ英三郎」清之助が低い声で突然なことを云った。
「われわれはいい母上をもったなあ」
「……え?」
「おまえそう思わないか」
英三郎はふり向いたが、兄がじっとこちらをみつめていたのでまごついた、清之助の眼は泣いたあとのように光を帯びていた。
「今朝おまえが母上に叱られているのを、おれは襖の蔭からすっかり聴いていたんだ」
「どうしてそんなことをしたんです」
「継の子という言葉が聞えたからさ」
清之助はずばずばとした調子で云った。
「いつか老人の客が『まるで本当の兄弟のようだ』と云ったのはおれも覚えている、けれどもおまえがそれを自分のことだと考えていようとは思わなかった」
「兄上もあれをお聞きになったんですか」
「おまえでさえ聞いたものを二つも年上のおれが聞きのがすと思うのかい、しかもおれにとっては自分のことなのだぞ」
「……兄上」びっくりして英三郎がなにか云おうとするのを、清之助はしずかに制してつづけた。
「嘘ではない、あの老人の客というのは江戸屋敷にいる瀬川主馬という人で、おれのためには母方の祖父にあたるのだ。おれの母は森脇家へ輿入をして、おれを生むとすぐ亡くなったんだ、そのあとへおいでになったのがいまの母上なんだ」
「でも、……でもどうして兄上がそれを知っているんです」
「瀬川のお祖父さまがすっかり話してくだすったんだ、そして『けれどもおまえはいまの母を本当の母だと思え、かりにも継しい考えをおこすようでは武士とは云えぬぞ』とお云いなすった。おれは驚かなかった、だっていまの母上のほかに母上があるなどとは想像もできやしない、……ただ父上が亡くなってから」清之助はそこでちょっと云いよどんだが、すぐにいつもの活溌な言葉つきで、
「……おまえにだけ母上がきびしくおなりなすった、おまえは自分の叱られることを悲しがっていたが、おれは却って叱られるおまえがうらやましくてしようがなかった、生まれてはじめて『おれは継の子だから叱って戴けないんだ』と考えるようになった。そしてどうかして叱って戴けるようにと思って、おまえに意地悪をしたり乱暴したりしたんだ」
「瀬川のお祖父さまに知れたらどんなに怒られるだろう」
清之助はこつんと自分の頭へ拳骨をくれた。
「今朝おまえを叱っていらっしゃるのを聴いて、おれは母上のお心がはじめてわかった、『清之助は森脇の家を継いで、一生母のそばにいられるからよい、おまえは分家して世間へ出るからきびしく育てるのだ』そうおっしゃるのを聴いたとき、おれは自分が恥ずかしくて涙が出てきた。そしてこんな単純なおなさけさえわからず、あべこべに母上をお恨み申していたかと思うとまったく自分がいやになった」
「そうです、英三郎もそう思いました」
「おれたちは……」と清之助は溜息をつくように云った。
「おれたちはこれまでにも、どんなにたくさん母上のおなさけをみのがしているかしれないんだ、それを忘れぬようにしようぞ英三郎、これからは常に母上のお心をみはぐらないようにな」
「兄上、英三郎はりっぱな武士になります!」
「そうだ、母上のお望みはそれひとつだ、掛川藩のため、ひいては御国のお役にたつべきもののふになるんだ、やろうぞ」そう云って弟の肩を叩くと、弟もまた涙にうるんだ眼で力づよく兄を見あげた。
「……清之助はお庭ですか」
広縁のほうで母の呼ぶ声がした。ふたりはいそいで眼を拭きながら振り返った。
「はい此処におります」
「英三郎もいますか」
「わたくしもおります母上」
「なにをしておいでです」
「夜桜を見ておりました」
清之助が大ごえに叫んだ、そしてちらと弟に眼くばせをしながら、母のいるほうへと駆けだした、英三郎もそのあと追って走っていった。……どこかの小謡の声と、澄んだ鼓の音とはまだのどかに聞えていた。