『美少女一番乗り』

あらすじ
戦国時代、飛騨の摩耶谷には、建武の昔から世間と交わることなく独立を保つ北畠一族が住んでいた。その掟に従い、一族は山を出ず、領主の保護を受けながら静かに暮らしていた。
ある日、高山城の武士・苅谷兵馬が木曾方の追手に襲われ、傷を負ったまま摩耶谷に逃げ込む。彼を救ったのは、一族の長・賀茂の娘、お弓だった。彼女は兵馬を密かにかくまい、献身的に看病するが、摩耶谷の裏切り者・村井伝之丞が兵馬の居場所を密告し、木曾方の武者たちが兵馬を探しにやってくる。さらに、伝之丞は摩耶谷の抜け道の古図を盗み、父・賀茂を斬って木曾の砦へ逃走する。
父の仇と摩耶谷の掟を守るため、お弓は一族を率いて木曾方の砦・鹿追沢へ夜襲を仕掛ける。戦場に馬を駆けるお弓の勇姿は戦士たちを奮い立たせ、彼女はついに伝之丞を討ち取り、摩耶谷の誇りを守ることに成功する。
『美少女一番乗り』は、戦国時代の女性の勇気と誇りを描いた歴史時代小説である。山本周五郎らしい力強い筆致で、封建社会における女性の気高さと自己犠牲、正義を貫く姿を感動的に描いている。戦乱の世において、武士の誇りとは何か、信義を守るとはどういうことかを問う作品である。
書籍
朗読
本文
「――えイッ」
叩きつけるような気合と共に、空を切って白刃がきらめき、人影が入り乱れた。
「えイッ、とうッ」
「わあっ」
凄まじい絶叫と悲鳴が聞こえ、小具足を着けた追手の武者三人が斬倒された。――残る一人が思わずたじろぐ隙に、追われている若い武士は身を翻えして楢林の斜面へ駆登って行く。
「待て、逃げるか、卑怯者ッ」
ただ一人残った追手の武者は、うわずった声で叫びながら猛然と追った。
ここは飛騨と信濃の国境、深い渓谷と密林と断崖に阻まれて、昔から人跡まれな「摩耶谷」の山中である。――槍岳を主峰とする連山は、初夏というのに残雪を頂き、麓の樹々もまだ水々しい銀鼠色の若葉で、その枝葉がくれに駒鳥やかけすや藪鶯などが、美しい羽色を誇らかに鳴き渡っている。……この平和な、寂とした林間を縫って、今しも二口の白刃が眩しく陽にきらめきながら、山の尾根へ走り登って来た。
「待てッ卑怯者」
追手の武者は再びわめいた。
「敵に後ろを見せて、それでも武士か」
「――――」
追われている若い武士が、その一言で思わず立ち止まる、刹那! 追い迫った武者は、真っ向からだっと斬りつけた。双方ともすでに疲れ果てていた、若い武士は体を開いて、右へ避けながら相手の脇壺へ力任せに一刀、深々と斬込んだ同じ刹那に、相手の剣もまた若い武士の高腿を十分に斬っていた。
「あっ」
「うーッ」
ほとんど同音に呻きながら、追手の武者はそこへ顛倒し、若い武士はがくんと横へのめる、その足を踏外して急斜面を、摩耶谷の方へ烈しく辷り落ちて行った。
何の手懸りもない崖だ、砕けた岩屑と共にだあっと四、五十米ころがり落ちると、下に茂っていた灌木林の中へ強かに抛り出された。――高腿に重傷を負っているうえに、岩の尖りで体を打ったから、しばらくは身動きも出来ず、萌え出した下草を掴んで呻くばかりだった。
しかし間もなく、若い武士はきっと顔をあげた、がさがさと灌木を踏分けて、こっちへやって来る妙な物音が聞こえたのだ。
――追手か?
と半身を起こしたが、
「あ! 熊、熊――」
と色を変えた。
灌木を踏みしだきながら、身の丈に余る一頭の大熊が、鋭い牙を剥出し、無気味に唸りながらこっちを狙っているのだ。――若い武士は脇差の柄に手を掛けながら、必死になって起上がろうとした、と見るなり、熊は凄まじくほえると、いきなり後ろ肢で立上がって襲いかかろうとした。
――駄目だ!
絶望の呻きをあげて脇差を抜放つ、ほとんど同時に、下の森の中から、
「五郎ッ、五郎ッ、お待ち」
帛を裂くような叫びが聞こえて、熊はぴたりとそこへ踏止どまった。
「何をするんです、また弱い仲間をいじめているんでしょう。悪さをするとお弓は承知しませんよ」
そう叫びながら、檜の密林の中から一人の美しい少女が跳び出して来た。――年は十五、六であろう、山桃の実のような血色のよい頬、つぶらな澄んだ眸、丈長の髪を背に結んで下げ、こんな山奥には珍しく着ている物も雅びていた。
「――あら!」
少女は低く驚きの声をあげた。大刀を右手に半身を起こしている男の姿をみつけたのだ、しかし――そのとき若い武士は、熊の危害から免れた気のゆるみと、重傷の痛みに耐えかねたとみえて、くらくらとそこへ昏倒してしまった。
「五郎、こっちへおいで、五郎」
少女は急いで熊を呼戻すと、そのまま森の方へ立去ろうとしたが、倒れた手負いの苦しそうな呻き声を聞いて恐る恐る引返し、
「どうかなさったのですか?」
と声をかけた。――しかし相手はもう答える気力もないらしい、見ると半身ぐっしょり血にまみれている。
「まあ……」
少女はさっと顔色を変えたが、すぐ意を決してしっかりと抱起こした。
「五郎、おまえの背中をお貸し、この方をおまえの家まで運んで行くのよ、――そっちを向いて、さ、お坐りおし」
まるで召使いを扱うようだった、熊もまた言われるままになっている。少女は手負いの体を熊の背へ負わせると、自分は側から介添えをしながら森の中へと下りて行った。
人里を遠くはなれた飛騨の山中、摩耶谷の奥には、建武の時代から連綿と伝わる郷士の一族が棲んでいた。
伝説によると、後醍醐天皇の勅勘を蒙ってこの山間へ流罪になった殿上人の裔だという事で、北畠賀茂という家を中心に十八軒の家が、全く世間とは交わりを絶って生活している。代々どんな領主にも貢をせず、一族独立の面目を誇って来たが、飛騨の国高山の城主、姉小路自綱は、その由緒ある家柄を重んじて永年保護を加えていた。
しかしこうした僻遠の山中へも、時勢の波は伝わらずにいない。殊に永禄、元亀、天正と戦乱うち続く時代の事とて、諸国に割拠する群雄の栄枯盛衰、十五代二百余年の足利氏が滅亡して、尾張の小冠者信長が天下を取ったとか、さきの公方義昭はなお、上杉、武田、相模の北条氏などに縋って天下回復の計をめぐらしているとか、勇ましい噂が伝わって来るにしたがって、一団の若者たちの中には、
――生涯こんな山奥に朽ちているより、世間へ乗出して一代の英雄になりたい。
という野心を抱く者が少なくなかった。
現在この一族を指導するのは、北畠十四代の賀茂老人であった。非常に厳格な人で、お弓という十六歳になる娘があったが、殿上人の子孫にふさわしい教養と、また郷士の娘として馬術、薙刀、太刀の修業も厳しく怠らせなかった。――その賀茂が若者たちの動揺に感づいた。中にも村井伝之丞という若者は力量も武術も優れているが、平常から粗暴の質で、これが真っ先になって皆をそそのかしている様子だった。……捨てては置けぬと見た賀茂は、ある日一族の者全部を集め、
「改めて申し渡す事がある」
と形を正して言った。「みんなも知っている通り、我が一族の祖先は、畏れ多くも建武の帝の勅勘によって摩耶谷へ流罪になったのだ、子孫たる者は永代この山中に謹慎して、祖先の罪を謝し奉らねばならぬ、もし勝手に山を出るような者があれば、勅勘に叛く者としてわしが成敗する。いずれもその覚悟でいるよう」
厳然と申し渡したのであった。
賀茂の言葉は動揺していた若者たちの気持を鎮めるのに十分だった、彼らは再び農を励み、文武の道を学びつつ、昔からの平和な生活を守るようになったのである。
かくて天正四年五月はじめのある日。――賀茂が庭へ下りて生垣の手入れをしていると、娘のお弓が小さな包みを抱えて、横手の木戸からそっと出かけようとするのを見つけた。
「お弓、どこへ行く」
声をかけられて、娘はぎょっと振返ったが、
「はい、あの、薬草を採りに……」
「ひとりで行くのか」
「いえ五郎をつれて参ります」
老人は苦い顔をして、
「そういつまで五郎に附きそっていてはいかんぞ、なれていても獣は獣、殊にああ大きくなっては熊の本性が出る、うっかりすると今に噛み殺されてしまうぞ」
「大丈夫ですわ、五郎はお弓が拾ってお弓が育てたのですもの。昨日だって……」
いいかけて慌てて口をつぐんだ。
「昨日どうした!」
「いえなんでもありませんの、では行って参ります」
言い捨ててお弓は元気に出て行った。
部落を出て二町あまりすると渓流がある、それを渡ると摩耶谷いちめんを取囲む檜の密林で、他郷の者がうっかり足を踏入れると到底出ることが出来ないという、――お弓はなれた足取りで、森の中の胸を突くような急斜面を登り、右へ右へと辿りながら、やがて苔むす巨岩のごろごろしている断崖の下へ出た。その断崖には巨岩に隠れて大きな岩窟がある、お弓は小走りに、
「五郎、――五郎」
と呼びながら近寄った、――ちょうどその入口に、大きな熊がまるで番犬のような恰好で頑張っていたが、お弓を見るとさも嬉しそうに首を振り振り立って来た。
「まあお利口だこと、ちゃんと番をしていたのね、お客さまは御無事かえ」
「ああ、無事でいます」
岩窟の中から声がした。お弓は身を翻えしてその方へ入って行った。――そこには柔らかい枯草を褥にして、一人の若い武士が足を投出している。
「まあ、起きていらっしゃいましたの」
「気分がいいのでしばらく起きてみました」
「お待ちになったでしょう?」
お弓はその側へ坐って、持って来た包みを手早く解きながら、
「もっと早く来ようと思ったのですけれど、人眼については悪いのでつい遅れてしまいましたわ、――これが巻き木綿、お薬と、それからお握飯」
「それは、――どうも」
「先にお傷の手当てを致しましょうね」
お弓はかいがいしく身を起こした。
「家へ御案内すればいいのですけど、摩耶谷は他国の人を嫌いますから、不自由でしょうがどうぞ御辛抱下さいませ、――その代りお傷だけはお弓がきっと治して差上げますわ」
「お弓どのとおっしゃるのですね」
若い武士は苦しそうに微笑して、
「わたしは高山城の者で苅谷兵馬といいます。摩耶谷の事はよく知っていました、ここにこうしてお世話になるだけでも、何とお礼を言っていいやら……」
「まあそんなにおっしゃっては」
「いえ本当です」
苅谷兵馬は熱心に言った。
「わたしは殿の仰せで、木曾方の城砦の備えを探りに行ったのです。その帰りを鹿追沢の砦の者に見つけられ、六人までは斬りましたが最後の一人のためにこの傷を受け、尾根から転げ落ちたところをあなたに助けていただいたのです。――あのままでいたら大切な報告も果さずに全く犬死にをするところでした。お蔭で命も助かり、武士の任務を果す事も出来るのです、――有難う」
胸いっぱいの感謝に眼をうるませながら、心から兵馬は頭を下げた。お弓ははずかしそうに頬を染めて、
「わずかな事がそんなにお役にたつのでしたら、わたくしも嬉しゅうございますわ」
「ただ……御存じかも知れぬが、高山城と木曾方とは、今にも合戦に及ぼうという時、探り出した始末をすぐお城へ持って帰れぬのが残念です」
「でもこのお傷ではねえ――」
「治します、一日も早く治します、そしてお城へ」
兵馬は歯を食いしばりながら呻くように言った。
尾根下の灌木林ではからずも救った武士。他国の人にふれる珍しさと、重傷の身を気の毒に思ったお弓は、ひそかに熊の岩窟へかくまって、それから毎日毎日、食物を運んだり傷の手当てをしたりしてやるのだった。
ちょうどそれから五日めの事である、例の通り薬を塗り替えたり食事の世話をしたりして、また明日と――岩窟を出たお弓が、
「五郎、お客さまの番をよくするのよ、間違いのないようにね、頼んでよ」
繰返し熊の五郎に言い残して別れた。
岩を廻って外へ、茨の多い藪の中を、檜の森の方へ下りようとすると、向こうの木陰から鉄砲を持った若者が現れて、
「お弓さま、何をしていなさる」
と声をかけた。
「え――?」
お弓がびっくりして振返ると、大股に近寄って来たのは乱暴者の村井伝之丞だった。
「まあ伝之丞じゃないの、いきなり呼ぶものだから驚いたわ」
「何をしにいらしった」
「何ッて、――お、お薬草を採りにだわ」
「採れましたか」
伝之丞は鉄砲の台尻を叩きながら、妙なにやにや笑いをして言った。――お弓は常からその若者が嫌いだったので、
「採れても採れなくてもおまえの知った事ではないよ。余計な事は言わぬがよい」
「はははは、お気にさわったら許して下さい、全くそんな事は余計でござした。――時に、早くお帰りなさるがようございますぜ、いま老代様に会うだと言って、木曾の荒武者共が村へ入って行きましたから」
老代とは父北畠賀茂のことである、しかも木曾武士と聞いて急にお弓は心配になった、――もしや苅谷兵馬さまの事をかぎつけて来たのではあるまいか?
「伝めがお送り申しましょう」
そう言ってついて来る伝之丞にはかまわず、お弓は猿のように身軽く、密林の急斜面を走り下って行った。――その時分、北畠家の玄関では、十名ばかりの鎧武者が、主の賀茂と相対していた。
「摩耶谷の御一族が、他郷の者と交わらぬという事は知っている」
部将と見える髭武者が言った。
「しかしこの乱世にわずかな一族であくまで独立してゆこうというのは無理な話だ。それより今のうちに木曾殿へお味方すれば、この倍の領地と扶持が頂けるし、永く安全を守護して貰えるというものだ」
「それは有難いお話じゃな」
賀茂は眉も動かさなかった。
「もっともそれについては、当家に摩耶谷の抜け道を記した精しい古図が伝わっているそうだが、近く高山城との合戦にぜひそれが入り用なのだ。その古図を木曾殿に」
「差出せというのでござろう――お断りじゃ、お断り申す」
お弓が家へ入って来たのは、賀茂が断乎としてそう答えた時だった。
「いかにも摩耶谷の抜け道四十八路九百十余の迂曲を記した古図はある。しかしこれは我が祖先が十余代にわたって調べ上げた家宝で、他郷の者の眼にふれるべき品ではない」
「しかしその古図さえ差出せば五千貫の侍大将に取立ててやるという……」
「くどい、我が一族は摩耶谷に生き、摩耶谷に死ぬを以って本分とする、建武以来この掟に叛く者は一人もないのじゃ、断る!」
にべもない一言に、部将はさっと顔色を変え、いきなり拳を突出しながら、
「それでは改めて訊ねる。四、五日以前、この谷へ高山城の間者が逃込んだはずじゃ、そ奴をここへ出して貰おう」
「そんな者は知らん」
「知らんではすまさぬぞ、拙者の預かる鹿追沢砦の備えを探索に来た奴、七人まで追手を斬り自分も傷を負ってこの谷へ入込んだ事、しかと突止めて参った。下手に隠しだてを致すとためにならんぞ」
「――面白いな」
賀茂は静かに冷笑して、
「手負いが逃込んで来たかどうか、聞きもせずまた見もせぬが、ためにならぬの一言は気に入った、摩耶谷にも建武この方鍛えに鍛えた郷士魂がある、鐘ひとつ打てば百余人、いささか骨のある者共が集まって来よう、お望みならばひと合わせ仕ろうか」
にやっと笑った老顔のたくましさ、――摩耶谷の人々が勇猛果敢な闘士揃いである事は、この近国に隠れのない事実だった。しかも他国の者には迷宮そのもののような、深い渓谷と密林を擁して出没自在に働かれては、とうてい五千や一万の軍勢で攻めきれるものではない。
さすがに木曾の荒武者もそれは知っていたから、こう真っ向から極め付けられても、わずかな人数では返す言葉さえなかった。
「よし、その言葉を忘れるな」
そう強がりを言って、口惜しそうに部下を促しつつ立去って行った。襖の陰からこの様子を見ていたお弓は、事なく納まってほっとしながらも、さすがに苅谷兵馬の身の上が心配になってきた。――木曾方では兵馬が傷を受けて、この谷へ逃込んだ事を知っている。うっかりして、もし見つけ出されでもしたらそれまでだ。
――お知らせしなければならない。
そう思ったが、もうすでに日も傾いている時刻のことで、再び家を出るわけにはゆかなかった。
あくる朝早くと思ったが、人眼が多いのでつい刻を過ごし、八つ半(午後三時)をかなり廻ってからようやく家を抜け出した。気の急くままに、息もつかず走り走って、岩窟の入口まで来ると、兵馬が断崖の外へ出て、傾いた陽を浴びているのが見えた、お弓は嬉しそうに跳びついて来る五郎を押しやりながら、
「兵馬さま、いけません」
と駆寄った。
「おお! お弓どのですか」
「木曾の侍たちがあなたを捜しに来ています、早く中へお入り下さいませ」
「なに木曾の者が」
兵馬はがばと身を起こしたが、
「や――」
と森の方を見て低く叫んだ。――お弓は助け起こそうとしながら、
「何ですの?」
「いまあの森の入口に人がいたように思ったのです、眼の誤りかも知れないが……」
「見て来ますわ」
お弓は岩を廻って、茨の茂みを伝いながら森の方へ忍び寄って行った。――しかし、油断なくずっと捜したけれど、どこにも人のいる気配はなかった。
「大丈夫ですわ、誰もおりは致しません」
「ではやはりなにか見違えたのでしょう」
お弓は兵馬を岩窟の中へ助け入れながら、昨日の木曾武者と父との問答をくわしく語った。――兵馬は頷きながら聞いていたが、
「そうですか、それではここにも永くお世話になってはいられませんな」
「いえ大丈夫ですわ、ここは村の者でも滅多に来ない場所ですから、注意さえしていらっしゃれば決して御心配はありません」
「いやそれではないのです」
兵馬はきっと眼をあげて、
「木曾の者がここまで入込んで来るところを見ると、たしかに敵は先手を打って合戦を仕かける計略です、――戦いの始まらぬ前に、どうにかしてお城へ報告をしなければ、折角の苦心も水の泡だし合戦も不利になる、……お弓どの、無理なお願いだが、山輿に乗せて大縄の出城まで運んで頂くわけには参るまいか」
「さあ――」
「一生のお願いです、この通り」
頭を下げて必死の頼みだった。――高山城の姉小路家は、永年のあいだ摩耶谷の一族を保護している人だ。父に話したら許して貰えるかも知れない……お弓は決然と立った。
「宜しゅうございます、父に相談したうえぜひともお望みに添うように致しましょう、すぐに戻って参りますから」
「――忝ない」
「五郎」
お弓は振返って、
「おまえお側を離れずに番をおし、どんな者が来ても兵馬さまをお護りするのだよ、わかったわね」
熊はいかにも心得たように、首を振りながら身をすり寄せ、妙に哀しげな声をあげて二声三声ほえた。
「頼んでよ!」
と言ってお弓は外へ。
岩窟を出て、檜の森を四、五町あまり下った時だった。背後に、
だーん、だーん。
と二発の銃声が聞こえたので、お弓はぎょっとしながら立止まった。風のない静かな黄昏で、密林の中は森閑と鎮まっている、――しばらくじっと耳を澄ましていると、
「うお……、うお……」
という悲しげな獣の悲鳴が森に木魂して聞こえて来た。
――五郎!
と思うより先に、お弓は脱兎のごとく元の道を取って返した。四、五町の道ではあるが、胸を突くような急斜面だから、登って走るには倍の暇がかかる、ようやく岩窟の入口まで駆けつけると――先ず眼に入ったのは血まみれになって斃れている五郎の姿だった。
「あッ、やっぱりおまえ」
と立ちすくみながら、中を覗くと苅谷兵馬も、半身を岸壁へ凭せかけたまま、もう気息奄々としている。お弓は夢中で駆寄った。
「兵馬さま、兵馬さま、お気をたしかに」
「おお、お弓……どのか、残念――」
「何者がこんな事を」
「岩陰から、鉄砲で」
兵馬は射抜かれた胸を掴みながら、必死の力で懐から一綴りの書き物を取出した。
「拙者はもう、駄目です、これを、大縄の出城へ、届けて下さい、お願いです」
「大縄の出城へ!」
「早く、拙者に構わず早く」
「御安心下さい、必ずこれはお届け致します」
「それから、五郎」
兵馬は苦しげに息をついて、
「五郎は、あなたの言付け通りよく護ってくれました。第一の弾丸は、五郎が拙者をかばって、射たれてくれたのです。ほめてやって下さい――お弓どの、くれぐれも、どうぞ」
「兵馬さま!」
あわてて手を差伸ばしたが、兵馬は崩れるようにそこへ倒れてしまった。――お弓は托された書き物を手に、五郎の側へ走り寄った、思えばさっき別れる時、いつになく悲しげな声でほえていたが、獣の本能であの時すでにこうなる運命を感じていたのであろうか。
「よく、よく死んでおくれだったね五郎、有難う、ほめて、ほめてあげますよ」
お弓は堪切れずにむせびあげた。
「おまえと兵馬さまの敵は、お弓が必ず討ってみせます、それまでは仏様のお側へ行かずに見ていておくれ、わかったわね」
生きている人にでも聞かせるように、背を撫でながら涙と共に言うと、お弓は、まだその辺に隠れているかも知れぬ狙撃者の目から逃れるため茨の茂みを伝いながら部落の方へ、懸命に走り下りて行った。
そしてそこには、もっと驚くべき出来事が待っていた。
裏口から屋敷へ入ったお弓、もうとっぷり暮れているのに、家の中は燈も点いていず、あたりに下僕の姿も見えない、――胸騒ぎを感じながら座敷へあがると、父の居間の方から人の呻き声が聞こえて来る、はっとして入って行くと、障子の仄暗[#ルビの「ほのぎら」はママ]い片明りに、倒れている父の姿が見えた。お弓はあっと仰天しながら抱起こし、
「ととさま、ととさま」
大声に呼んだ、肩を袈裟がけに斬られていた賀茂は、懸命に眼を見開きながら、
「お弓か、む、無念だ――」
「誰がこんな事を」
「村井、伝之丞」
「あッ――」
「摩耶谷の、抜け道の古図を奪って、木曾へ走った、きゃつ、――お弓! きゃつの行く先は、鹿追沢の砦だぞ、父の仇よりも、摩耶谷の掟を破った奸賊、父に代って、討取るのだ」
「はい、はい、わかりましたととさま」
「行け、早く、――鹿追沢の砦だぞ……」
それだけ言うのが精一杯だった。
今こそわかった。兵馬と五郎を射ったのも伝之丞だ、昨日岩窟を出たところで出会ったが、あの時もう知っていたに相違ない、――鹿追沢の武者たちが来て、抜け道の図さえ差出せば五千貫の侍大将にしてやるというのを聞き、かねてから山を下りたがっていた伝之丞は、父を斬って古図を盗み出し、また高山城の間者たる兵馬を射殺して、二つの手柄を土産に木曾方へ駆込んだのだ。
――卑怯者、あの裏切者
お弓は眦を決して言った。
「ととさま、伝之丞はきっとお弓が討取って御覧に入れます。摩耶谷の掟は必ず守られます、見ていて――」
お弓は涙をふるって立つと、手早く納戸から伝家の鎧を取出して着け、長押の大薙刀を執って出る、――軒先に吊ってある人寄せの鐘を、力に任せて乱打した。
危急の鐘を聞いた一族の強者九十余名は、時を移さず具足を着け武器を持ち、馬を曳いて、松火を振立てながら走せ集まって来た。――お弓は人々に向かって絶叫した。
「摩耶谷の掟が破られたのです、一族の中に裏切者が出て、父賀茂を闇討ちにかけ、抜け道の古図を奪って木曾の出城へ逃げ込みました」
「誰だ、その裏切者は誰だ」
「村井伝之丞」
わっと人々がどよめきたった。
「追え追え、伝めを逃がすな」
「斬って取れ、木曾へやるなッ」
「伝めを討て」
高く武器を打振りながら口々に怒号した。――お弓は手を挙げて続けた。
「まだあります。伝之丞は、重傷を負って身動きの出来ぬ高山城の忠臣を、卑怯にも鉄砲で撃殺しました、古図とそれと、二つの手柄を持って五千貫の侍大将になるため鹿追沢の砦へ走ったのです、――父は摩耶谷の掟に照らして討取れと遺言しました、お弓は今から父の名代として伝之丞を討つ覚悟です」
「行け行け、鹿追沢の砦をひと揉みに揉潰してしまえ」
「裏切者を討取れ」
「摩耶谷一族の名を汚すな」
どーっと喚声が揺れ上がった。お弓はにっこり微笑むと、若者の一人に、さっき兵馬から托された書き物を渡して、大縄の出城へ、
――摩耶谷の一族が鹿追沢の砦へ夜討をかけるから、姉小路の軍勢もすぐ繰出すよう。
と伝言を添えて使者に立て、
「いざ!」
大薙刀を挙げて叫んだ。
「鹿追沢へ、鹿追沢へ」
「わあっ」
怒濤のように鬨をつくって、一族九十余人は、まっしぐらに押出した。
嶮路相つぐ深林渓谷も、なれた人々には物の数ではなかった、鬼火のような無数の松火が、密林を縫い、谷を渡り、尾根へ尾根へと登って行く、寝鳥は驚いて舞立ち、狼狽して逃惑う野獣の声も凄まじい。――勝手知った抜け道から抜け道を伝いつつ、片時も休まず押しに押した同勢は、およそ深夜八つごろ、木曾方の出城鹿追沢の背面へ現れた。
城といっても、この辺にあるのはまだ館にやや規模を加えたほどのもので、多少地の利を占め、柵や壕を廻らした程度であるから、不意を襲われると脆いものだった。――殊にそのとき鹿追沢の砦は守備も薄く、二百余人の兵しか屯していなかったので、摩耶谷一族の奇襲は完全にその肝を拉いだ。
「夜討だ、夜討だ、出会え――」
番士の叫びに、城兵が慌てて跳び出した時には、すでに館は火を発していたし、柵を押破り壕を渡った摩耶谷勢が、お弓を先頭に雪崩を打って斬込んでいた。
炎々と燃上がる焔を受けて、太刀がきらめき槍が光り、相撃つ物の具、絶叫、悲鳴、惨たる白兵戦が展開した、――お弓は馬上に大薙刀を執って、面もふらず敵兵の中へ斬って入ったが、すでに虚を衝かれた城兵は戦意を失い、ただ右往左往に逃廻るだけだった。
「言いがいなき木曾勢よ」と馬首を立直した時、
「伝めだ、伝めだ、逃がすな」
「伝之丞がそっちへ!」
と罵りわめく声を聞いた。あっ! と振返ったお弓の眼に、今しも壕の架橋を脱走しようとする伝之丞の姿がうつる。
「うぬ、卑怯者」
ぱっと馬腹を蹴って追った。――壕を渡って十間あまり。
「伝之丞、待て」
と言う声に振向いたが、
「ム、お弓、貴様か」
「父の名代じゃ、摩耶谷の掟を破った罪、父の仇、高山城の忠士を討った卑怯者、その首貰った」
「うぬ! 小女郎ッ」
抜打ちに斬りかかる伝之丞、お弓はひらりと馬を下りるや、跳び違えて、
「えイッ」
相手の剣を凄まじくはね上げるや、踏込んで払いあげる薙刀、躱す隙もなく伝之丞の脾腹を斬る、あっと呻いてよろめくところを、もうひと薙ぎ、肩から胸まで袈裟がけに斬って取った。
「討った、討った、裏切者は仕止めた」
さすがに乙女だった。朽木のように倒れる伝之丞を見ると、張詰めていた気もゆるみ、声を顫わせ、夜空を仰いで呟いた。
「お悦び下さいませ、ととさま、兵馬さま、――五郎も悦んでおくれ、みんなの敵はお弓が討ちました。摩耶谷の掟も……破られずにすみましたわ」
天をこがす焔、死闘の叫喚を縫って、遠くえいえいと陣押しの声が聞こえる、――恐らく大縄の出城から、姉小路の手勢が押寄せたのであろう。……高く高く、焔に染められた空のかなたに、驚いて舞上がった鳶が一羽、まるで摩耶谷勢の勝利を祝福するかのように乱舞しているのが見えた。