『武家草鞋』

「武家草鞋」山本周五郎

あらすじ

新庄藩の元武士・宗方伝三郎は、強い正義感と清廉潔白さゆえに周囲と衝突し、藩の世継問題を機に職を辞して浪人となった。世間の俗悪さや人間の醜さに幻滅した彼は、生きる気力を失い、自ら死ぬつもりで放浪の旅に出る。その旅の途中、疲労で倒れていたところを牧野市蔵という老人と、その孫娘いねに助けられ、しばらく山里で世話になることになった。

伝三郎はそこで初めて人の温かさや、素朴で穏やかな生活に触れ、少しずつ生きる希望を取り戻していく。そして自ら草鞋作りを始めるが、彼の作った草鞋は丈夫で評判になる。しかし問屋は「商売のためには丈夫すぎるのは困る」と伝三郎に手抜きを要求し、彼は再び世の中の卑しさに絶望してしまう。

続いて伝三郎は人夫として働くが、今度は周囲から「一生懸命働きすぎるな」と嫌がらせを受ける。再び絶望の淵に沈む彼に、市蔵老人は「世間が卑しいというが、それはお前自身にも責任がある。自分がまず誠実であれば、それが世間の礎になるのだ」と厳しく諭す。

そのとき、故郷の藩から杉田五郎兵衛という旧友が現れ、藩主の命で再仕官の知らせを持ってきた。杉田は伝三郎が作った草鞋を偶然旅先で見つけ、その草鞋の特長から伝三郎を探し当てたというのだった。自分の作った草鞋が、自分自身の運命を開いたのだと知った伝三郎は、市蔵老人の言葉を深く胸に刻むのだった。

『武家草鞋』は、自分の清廉さや正義感を世に受け入れられず挫折した武士が、素朴な日常の中で真の誠実さや生き方を学ぶ物語である。世間を批判するだけでなく、自らが真摯に生きることの大切さを教え、「見えざる真実こそが社会を支える」という山本周五郎らしい人生訓を描いた感動的な作品である。

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本文

「あの方はたいそう疲れていらっしゃるのですね、お祖父じいさま、きっとずいぶんお辛い旅が続いたのでしょう、わたくしあの方のお顔を拝見したときすぐにそう思いました」若いむすめのつややかな声が、秋の午後のひっそりとした庭のほうから聞えてくる、「……並なみのご苦労ではないのですよ、あのお眼の色でしんそこ疲れきっていらっしゃるのがわかります、わたくし胸が痛くなりました、本当にここのところが痛くなりましたの、お祖父さま」
「その土をならすのはお待ち、朽葉を混ぜて少し日に当ててからにしよう」老人のしずかな声がそう云った、「……今年あんなに虫が付いたのは鋤返すきかえすとき日に当て方が足りなかったのだろう、可哀そうにこっちのわらびはみんな根がこんなになってしまった」
「ああそれはお捨てにならないで下さいまし、わたくしのりこしらえますから」
宗方伝三郎はうとうとまどろみながら、遠い思い出からの呼び声のように二人の会話を聞いていた。なかば覚めかかって、ああおれはこの家に救われているんだなと思い、また夢うつつのように眠ってしまう、ともかくも今は人の情にかばわれているという安心と、身も心も虚脱するような疲れとで、起きあがる力さえ感じられないのであった。老人は口数の少ない人とみえてときどきさりげない返辞をするだけだが、娘は話し好きらしく殆んどひっきりなしに声が聞えてくる、それがいかにも明るく爽やかだし、話題はどうでも話してさえいれば楽しいという風で、聞いているほうがしぜんと頬笑ましくなる感じだった。――心ゆたかに育ったんだな、伝三郎は夢ごこちになんどもそう思った、きっと性質もやさしいむすめだろう。
呼び起されて本当に眼が覚めたのはれ方であった。かゆが出来たので此処ここへ持って来るから顔を洗うようにと云う。伝三郎は起きて頂戴すると答えて夜具をはねた。……娘に案内されて裏へ出ると、若杉の垣の向うはうちひらけた段畑で、その畑地の果てるかなたには、峡間はざまに夕雲のわき立った重畳たる山々が眺められる、垂れさがった鼠色の雲にはもう残照もなく、耕地も森も、すすきの白く穂立った叢林そうりんも、黄昏たそがれのもの哀しげな光りに沈んで、しずかに休息の夜の来るのを待っているようにみえる、なんというしずかさだろう、伝三郎は切なくなるほどの気持で心の内にそうつぶやいた。
「そんなにご熱心にどこをごらんなさいますの」娘は※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)はんぞうへ水をみながらそう問いかけた、「……ああ二俣山ふたまたやまを捜しておいでなさいますのね」
「二俣山、……ええ、そうです」伝三郎はちょっとまごついた、「そうです、それはどちらのほうですか」
「もっとずっと左のほうでございます、いちばん手前にある低い山のずっと左の端に、こんもりと木の繁った小高い処が見えますでしょう、あれが二俣のお城跡でございます」そう云って娘はふと声を曇らせた、「……わたくしあのお城跡を見ますと、いつも岡崎さまのお痛わしい御最期のはなしを思いだしますの、本当になんというお痛わしい、悲しいお身の上の方でございましょう、考えるたびに胸が痛くなりますわ、あなたはそうおぼし召しませんか」
「人間は正しく生きようとすると」伝三郎はふと険しい口ぶりでそう云った、「……とかく世間から憎まれるものです、岡崎殿の御最期はお痛わしいというより、むしろ美しい詩だと申上げるほうが本当でしょう、しかしこんな云い方は敗北者の哀れな悲鳴かも知れませんがね」
終りは自分をあざけるような、ひどくとげのある調子だったので、娘はびっくりして大きく眼をみはりながらこちらを見あげた、伝三郎もいきなりそんな調子でものを云ったことが恥かしくなり、娘の眼から※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれるようにざぶざぶと顔を洗いはじめた。岡崎殿とは徳川家康の長男、三郎信康をさす、不運な生れつきのひとで、徳川家のためにすくなからぬ功績はありながら、複雑な事情から父にうとんぜられ、天正七年の九月、ついに遠江とおとうみのくに山香の二俣城で自刃して果てた。原因は説に依って違うが、父家康の内命による死だと伝えられている。いかにも哀史というべきその話は伝三郎もよく知っていたが、眼の前にその遺跡があろうとは気づかなかった、そしてあれがその城跡だと教えられたとき、説明しようのない怒りを感じたのである。それは岡崎殿の悲運が、そのまま自分の身の上を暗示するように想えたからかも知れない。顔を洗いながら、かれは恥かしさに背筋へ汗のにじむのを覚えた。
「幾らかお疲れが休まりましたか」食膳しょくぜんにつくと老人が労るようにこちらを見ながらそう云った、「……べつにおすすめは致しませんから充分に召しあがって下さい、韮雑炊にらぞうすいは疲れにはよいものです」
礼を述べようとしたが口を切る機会を失って、伝三郎は会釈しながら黙ってはしをとった、老人は葛布くずふのそまつなはかまひざを折り目正しく坐り、なにか祈念するもののようにじっと瞑目めいもくしていた。

宗方伝三郎は出羽のくに新庄の藩士で、二百石の書院番を勤めていた、父も謹直なひとだったが、かれはそれに輪をかけたような性質で、少年の頃から清廉潔白ということをなによりの信条として育った、けれどもどういうわけか周囲との折り合が悪く、気持のうえでも日常生活でも、極めて孤独なおいたちをした。人はよく偏狭な男だとかれをわらった、傲慢ごうまんな独善家だとののしった、しかしかれにはそういう人のはらがみえ透くのだ。偏狭とはかれが正直いちずだからだし、傲慢と罵るのは廉潔をたてとおすからだ、御都合主義と虚飾でかためた世間の人々には、かれの純粋に生きようとする態度が、滑稽でもありけむたかったのである。
――嗤うなら嗤え、真実であることは嘲笑ちょうしょうされるだけで価値を失いはしない、どっちが正しいかはやがてわかるだろう、いつかはおれの真実がかれらの虚飾に勝つときがくる。
かれはそう信じていた、というよりもそう信じなければ生きてゆけないような立場に立たされていたのである。
貞享じょうきょう三年の春、新庄藩に家督問題がおこった、藩主の戸沢能登守正誠には五人の子があったけれど、男子はみな早世し、正誠もすでに老齢に及んだので、その世継をきめなければならぬ時となった。そこで他家へ嫁している正誠の息女の血筋を入れようという説と、家臣ではあるが遠い血続きになっている楢岡兵右衛門の二男を入れる説と、この二つの論が出てかなり紛糾した。だが能登守は初めから兵右衛門の二男をとる積りだったので、間もなく楢岡内記正庸が嗣子ししときまり、この問題は終った。このとき伝三郎は内記を入れることに反対であった、他家へ嫁した息女が二人もあり、それぞれに子があるから、これこそ御しゅくん直系のお血筋とすべきである、楢岡もお血続きではあるが家臣で、家来から世継をとるということは藩家将来の綱紀にかかわり兼ねない。……そういう一部の老臣の説をもっともだと信じて、かれはあくまで内記を迎えることに反対しとおした。そして能登守の意志が動かすべからずと知って、一部の老臣たちが説をひるがえしてからも、かれと数名の者は頑として主張を変えず、ついに上役や老臣と衝突して、いさぎよく戸沢家を退身してしまったのだ。
――反対したのは内記さまそのひとが問題ではなく、主家将来の綱紀のためである。しかし内記さまを迎える以上、反対した者がそのまま職にとどまるのは、逆に綱紀の障りとなり兼ねない、なぜなら君臣のあいだには、微塵みじんも隔てがあってはならないのだから。
そう考えたことに嘘はないし、退身した点もかえりみてはずかしくはない、それにもかかわらず、心のどこかに一種の敗北感があった、正しいと信じて身を処したのに、負けて逃げだすような屈辱的な感じが脳裡から去らない、これは伝三郎にとって堪えがたいものだった。いつかは真実と虚飾の位置を明らかにしてみせる、そう思って孤独をとおしてきたのだが、結果としてはまるで逆になった、――偏狭なやつだ、ばか律義な男だ、そう云って嘲笑する人々の声が聞えるようで、かれは忿いかりのために幾たびとなく身を震わした。
親族たちにも相談をせず、新庄をたちのいた伝三郎は、僅かな貯えを持って江戸へ出た、武士でなくともよい、清潔に生きる道でさえあればどんなことでもしよう、そう決心していたのである、けれども実際に当ってみるとそれは殆んど不可能なことだった。貞享、元禄といえば幕府政体もおちつくところへおちつき、商工業の発達と文化の興隆のめざましさにおいてまさに画期的な年代であったが、殊に新しく勃興してきた商人階級のちからは、ともすると武家の権威をすらしのぐ勢いを示し、世は挙げて富貴と歓楽を追求する風潮に傾いていた、西鶴の永代蔵に「……士農工商のほか出家神職にかぎらず、始末大明神の御託宣にまかせて金銀を溜むべし、是ふた親のほかに命の親なり」といい、また続けて「……世にあるほどの願ひ何によらず、銀徳にてかなはざる事なし」といっている、また――親子の仲でも金は他人、などという言葉がなんのふしぎもなく人の口にのぼるありさまで、すべてが金であり利潤であった、貧しい者はもとより富める者はさらに富もうとして、どんな機会をものがすまいと血まなこになっている、伝三郎はそういう世の中へはいっていったのだ。武士として育ち、またかれのような性格をもって、こういう世相に順応できないのは当然である、新庄藩においてすら敗北したかれの廉潔心は、江戸へ出るがいなやもっとてひどく叩きのめされた、それは武家生活におけるような生やさしいものではなかった、一年あまりの暮しで、骨の髄までかれは叩きのめされたのである。

「わたくしは誇張して申すのではございません、また世間の俗悪卑賤をいちいち申上げようとも思いません、しかし世の中も、人間も、醜悪な、みさげはてたもので充満しています、しかもそれが堂々と、威張りかえって……」
手作りの風雅な行燈あんどんの中で、油の燃える呟きがしずかに聞えている、老人と相対して坐った伝三郎はこめかみのあたりに太い筋をあらわしながら、いかにも忿懣ふんまんに堪えぬという口調で語りついだ。
「物を売る商人は、物を売るのでなく代価を取るのが目的です、筆を買えば筆の穂は三日も経つと取れてしまう、手拭を買えば幾らも使わぬうちに地がほつれてぼろぼろになる、足袋は縫目から破れるし草履はすぐに緒が抜ける、……銭さえ取ってしまえばよい、売った品物がどんなごまかしでも、そのために人がどんな迷惑をしようと構わない、ただ銭、銭さえもうければよいというのです、しかもこういう気風は商人に限りません、世間ぜんたいが欺瞞ぎまん狡猾こうかつとの組み合せです、こんなことでいいのでしょうか」伝三郎はぶるぶると震えた、「……これで世の中がなりたってゆくでしょうか、こんなに堕落しながらてんとして恥じない、寧ろみんな当然のような顔をしている、本当にこんなことでよいのでしょうか、こんな乱離たることで」
老人は袴の膝へ両手を置き、なかば閉じた眼で壁のあたりを眺めながら黙って聴いていた。戸沢家を退身して以来の身の上のそこまで語ってきて、伝三郎は回想することのやりきれなさに参ったらしい、「……そこでわたくしは江戸を逃げだしました」と云うと、暫く忿りを鎮めるようにむっと口をつぐんだ。
「……しかし何処どこへいっても同じことでした、どうかして生きる道をつかもうと、ちからのあるだけはやってみたのですが、結局はこちらの敗北です、わたくしはほとほと疲れました、もうたくさんだという気持です、これ以上は自分もそういう仲間にはいるか、それとも生きることをやめるか、二つのうち一つを選ぶより仕方がない、そしてわたくしは後者を選んだのです、こんな俗悪な世間に生きるよりは、寧ろ人間の匂いのない深山へはいって死のう、そう決心を致しました、そして残っている貯えのあるうちは安宿に泊り、無くなってからは野宿をしながら、殆んど水を飲み飲みここまで辿たどりついて来たのです、もしも救って頂かなかったら、あのとき倒れたまま死んだことでございましょう」
寧ろそのほうが本望だった、そう云いたげに伝三郎は話を終った。老人はかれの話が終ってからもながいこと黙っていたが、やや暫くして、しずかに、いたわりのこもった調子でゆっくりと云った。
「まったく、世間というものはむずかしいものです、山へはいって死のうとまでお考えなすった、その気持もよくわかります、……わたくしなどはごらんのとおり山家の老耄ろうもう人でなにも知らず、意見の申上げようもなし、ただご尤もと申すよりほかに言葉もございませんが、しかしこうしてわたくし共でお世話をするというのもなにかの御縁でございましょう、こんなところでよろしかったら暫くおからだを休めておいでなさいまし、そのうちには少しは気持もお楽になるかも知れません、考えようによっては、これでなかなか世の中も捨てたものではございませんから」
「ご老人はさようにお考えなさいますか」
「世間はひろく人はさまざまです、思うようになる事ばかりでも興がないと申すではございませんか、まあ暫くはなにもお考えなさらず、できることならゆっくりとご保養をなさいまし」
淡々としたなかに、冬の日だまりのような温かみのある老人の言葉は、それだけでも伝三郎の気持を鎮めて呉れるようだった。ながいあいだ胸に溜まっていた忿懣を残らず話してしまったことも、幾らか心をおちつかせる役には立ったのかも知れない、――では御好意にあまえるようですが、そう云ってかれは暫くその家の厄介になることになった。
ここは東海道の袋井の駅から五里ほど北へはいった野部という村である、しかしそこを通っている道は天竜川に添って、遠く信濃のくに飯田城下へと続いており、山里とはいえなかなか往来のにぎやかなところであった。……老人の家は村はずれの小高い丘の上に建っていた、居まわりは松林や、籔や、畑地がつづいて、それが北へと段登りになっている、つまり天竜川下流の平野がそこで終り、ようやく山岳地帯へ移ろうとする地勢で、段登りになってゆく土地の北には、眉近まぢかに迫って本宮山系の山々があり、そのかなたに秋葉山、大岳山などの峰がうち重なってみえる、それで午後になって日が傾くと、光りはこれらの山々の峡間をすべり、高低さまざまの地形を走って、複雑な、階調の多い明暗を描きだし、ひじょうに美しい、そしてしみいるような侘しい眺めが展開するのである、……伝三郎は昏れがたになるとよく家の前の台地にあがり、薄原のなかに腰をおろしてこの眺めに見いった。そういうとき青黝あおぐろく昏れてゆく山々の向うから、ふとすると誰か自分に呼びかける声が聞えるように感じられ、ふしぎなほど人なつかしい想いをそそられて、つい知らずなみだがあふれそうになることもしばしばだった。
――なんというしずけさだろう、かれはよく口の内でそう呟いた、――あの山々も樹立も、丘も畑地も、草原も、みんな少しの虚飾もなくあるがままのすがたを見せている、かなしいほどもあるがままだ、こういうところで一生をおくることができたら、どんなにすがすがしく楽しいことだろう……。

穏やかな日々が経っていった。
老人は三日にいちどずつ昌覚寺という禅寺へかよい、村の児童たちに読み書きを教えている、村人たちは「西の老先生」と呼んでひじょうな尊敬を示し、老人を見ると遠くから冠り物をとって挨拶をするという風だった。孫むすめはいねという名で、これもまた村の娘たちに裁ち縫いの手ほどきをしているが、老人もいねもそのことでは決して謝礼は受けず、一家のたつきは二人の手内職でまかなっていた、老人は蝋燭ろうそくを作り、いねは頼まれものの縫い張りなどをして。……伝三郎にはそれがなにか由ありげに思えた、だいいち老人は起きるから寝るまできちんと袴を着けている、蝋燭を作っているときでさえ脱がない、立ち居の動作もさりげないようでいて折目ただしく、どんな場合にも正坐した膝を崩すことがなかった。なにか由ある人に違いない、そう推察していたがそれはかれの思いすごしで、老人は牧野市蔵と呼び、この土地の古い郷士のすえだということがわかった。
――老先生も若いときはずいぶんお暴れなすったものだ。
ときおり耳にはいる村人たちの、そういう話をつなぎつなぎ聞くと、老人は青年の頃ひどく覇気満々で、刀法の修業だといって五年もどこかへでかけたり、帰って来ると杉の木山をはじめたり、また伝馬問屋の株を買って、袋井の宿で暫く筆そろばんを手にしたり、そのほか郷士などには似合わないずいぶん思いきった仕事を数かずやった。こうしてかなりあった家産を蕩尽とうじんし、望んで貰った妻にも死なれると、やがて人が変ったようにおちつき、この西の家にひきこもって世捨て人のような生活をはじめたのである。それからは村の外へ出ることもなく、村童に読み書きを教え、蝋燭を作って、孫むすめとふたり平凡な、しかしつつましく安穏な日を送って来たのだという、まことにありふれた、なんの奇もない話だった。
――しかし人間を高めるのは経験のありようではない、経験からなにをまなぶかにある、おそらく老人はそういう平凡な体験のなかから、ひとには得られない多くの深いものをまなんだ、それが現在のあの風格を生んだのに違いない。
伝三郎は自分をかえりみる気持でそう思った。
秋もようやく深く、草原も丘の林もめっきり黄ばんできた或る日、いねが庭の畑でせっせと土をくっているのを見て、伝三郎はしずかに近づいていった。老人は昌覚寺の稽古日で留守だった、日向ひなたにいると汗ばむほどの暖かい日で、澄みあがった高い空ではしきりにとびが鳴いていた。
「なにを作るのですか」伝三郎がそう呼びかけると、いねはとびあがるような姿勢でふり返り、頬から耳のあたりまでさっとあかくなった。
「まあびっくり致しました、おいでになったのを少しも存じませんでしたから」
「それはどうも、そんなに熱心にやっておいでとは知らなかったのです、なにをお作りなさるのですか」
「蕨を作りますの、ここはみんな蕨でございますわ」
「ほう、蕨は畑にも作るんですか」伝三郎は初めて聞くので珍しかった、「……わたしはまた自然に生えているのを採るだけかと思いましたが」
「たべるだけならそれでよいのでしょうけれど、こうして作るのは頂くほかに根から糊を採りますの、蕨糊といって、紙にも布にも、それから細工物にも使う、強いよい糊が出来ます」
そしていねはまた楽しそうにお饒舌しゃべりを始めた、糊の作り方から蕨の世話に移り畑の土の案配、根の善し悪しなど、艶やかなまるみのある声で、なにかひじょうに重大なことでも語るように熱心に話しつづけた。伝三郎は黙って聞いていた、内容はどうでもよい、いねの美しい声音といかにも楽しそうな話しぶりを聞いているだけで、しぜんに心まで温かくなる感じだった、まるで子守り歌のようだ、そんなことを思っていると、やがてその話のなかに思いがけない言葉が出てきた。
「わたくしこういう畑仕事が好きなのは血だと思いますの、わたくしの生れがお百姓のむすめなのですから」
「お百姓の生れですって」伝三郎は聞きとがめて反問した、「……わたしはまた牧野家は郷士のいえがらだと聞きましたがね」
「ええお祖父さまはそうでございますわ、でもわたくしは百姓の生れでお祖父さまの実の孫ではございませんの、宗方さまはまだご存じではなかったでしょうか」

「初めて聞きました」伝三郎はちょっと信じられないようにあらためて娘を見直した、「……わたしは実のお孫さんだとばかり思っていましたがね」
「村の方たちもそう云いますし、わたくしにも実のお祖父さまとしか思えません、でも本当は縁もゆかりもございませんの、わたくしが五つのときみなし児になったのを、お祖父さまが拾って育てて下すったのです」
いねは此処から一里ほど南にある美川という村で生れた、家はかなりな自作百姓だったが、或る年の夏、天竜川が氾濫はんらんして家も田畑も流され、父母と二人の兄をその水禍でとられた。そのとき五歳だったいねは独りだけふしぎに命を助かり、間もなく老人のもとへひきとられたのだという。……伝三郎はその話を聞きながら、ふと理由の知れない慚愧ざんきを感じた、なぜそんな気持になったかそのときはわからなかったが、いねの話が終ると、まるでとって付けたように、
「わたしもなにか仕事を始めましょうか」
と云って追われるようにそこを離れた。
自分で考えてもとって付けたような言葉だった、いねの身の上を聞いて、ふかい思案もなくふと口に出たまでのことだったが、云ってしまってからあらためて「そうだ」と思った。そしてその日、老人が帰って来るとすぐにその話をした。
「わたくしもこうしている間になにか手仕事をしてみたいと思うのですが、草鞋わらじつくりなどはどうでございましょうか」
「それは結構でございますな」老人はしずかに笑った、「……ここは東海道と信濃とをつなぐ道筋で年じゅう往来する者が絶えませんから、お作りになれば問屋がよろこんで引受けることでしょう、しかし作り方はご存じでございますか」
「新庄は雪国でもあり、殊に武家では草鞋はみな各自に作ります、ていさいのよい物はどうかわかりませんが丈夫なものなら作れます」
「それはなお結構でございます、本当にそのおつもりなら、わたくしからすぐ問屋のほうへ話してみましょう」
老人はすぐに二俣の問屋へでかけてゆき、必要な道具や材料を借りだして来て呉れた。いねはどう思ったものか、嬉しそうな浮き浮きした調子で、「お祖父さまの蝋燭と宗方さまの草鞋がたくさん出来るのでしたら、わたくしが茶店を出して売ることに致しましょう……」などと云って笑い、それまでとは違った明るさと、活き活きした挙措が眼だってきた。
伝三郎の気持も少しずつ変っていった。山村に身をおちつけて、児女を教え蝋燭を作り、拾ったいねを養育しながら、名利を棄ててつつましく生きる老人、今は侘しいほども枯れたその風格のかげには、おそらく人に語れない多くの悔恨や、忿怒や、哀傷のいやしがたいきずがあることだろう。……またいねは五歳という幼弱で孤児になった、老人のなさけ深い手に養われたとはいえ、ながい年月にはずいぶん辛い悲しいことがあったに違いない、しかもこのように明るく心ゆたかに成長してきた。――人はみなそれぞれ苦しい過去をもっている、それが伝三郎にかなり強い感動を与えた、いねの身の上を聞いたときの慚愧はそれだった、「この娘でさえこんな艱難かんなんのなかに生い立っている」それが伝三郎に生き直そうという力を与えたのである。
こうして仕事を始めたのだが、とにかく始めてみれば興味もおこってくるし、なによりよいことは、仕事に熱中しているあいだはなにもかも忘れていられることだった、新庄のことも、世間の卑俗さも、人間の陋劣ろうれつさも、……草鞋を作っているあいだは忘れていられる、かれは熱心に、幾らかは楽しさも味わいながら、せっせと仕事を続けていった。
「ご精がでますな」老人はときどきのぞきに来ては云った、「あまり一時に詰めてなさると根がきれは致しませんか、茶がはいりましたから少しお休みなさいまし」
「暫く手がけなかったので思うようにはかがいきません、こんな仕事でもやはり続けてやらぬといけないものです」
「さよう、草鞋を作るくらいのことでもな」
老人のこわねはなにかを暗示するもののようだった、かれはふと眼をあげた、しかし老人はいつもの穏やかな表情で、僅かに微笑しているだけだった。
かれは二俣にある問屋へもでかけていった。二俣は野部からゆく道と東海道の見附の駅から来る道とが合する所で、旅宿もあり商家もあってかなり繁昌な町を成している。問屋はその町筋の中央にあった。柏屋彦兵衛といい、土蔵の三棟もあり、店の者も多く、雑穀乾物や日用の品々を手びろく扱っていた。……かれの草鞋は評判がよかった、武家用のもので軽くないのが難だったが、丈夫なことは類がないから、馴れるとほかの物は履けないという、その代り打ちわらも布切も多く使うので、手間賃の割が悪くなるのは避けられなかった、しかし伝三郎にはむろんそんなことは問題ではない、自分の作った物がよろこばれるというだけで充分に酬われる、そのほかのことは全くどうでもよいという気持だったのである。老人の作る蝋燭も同じ柏屋へおさめるのだが、草鞋のうけのいいことは老人も聞いたとみえ、「これで作るはりあいが出るというものですな」とよろこんで呉れた。
「しかし評判などはまあどちらでもようございます、お心が向いたら暫くお続けなさいまし、そのうちにはまた世に出る御時節もございましょうから」
「いやこれで満足です」伝三郎は生まじめにそう答えた、「……わたくしの作る物が少しでも世の役にたつなら、生涯このしずかな山里で生きてまいりたい、卑しい、汚れはてた世間はもうたくさんです、世に出る望みなどはもうこればかりもありません、わたくしはこれで満足です」
おっしゃるとおり、このやまざとの暮しも、これはこれでまたひとつの生き方でございます、それはそうでございますけれども……」
老人はそう云いかけて口を噤んだ。けれども、というそのあとにどんな言葉が続く筈だったのか、伝三郎にはそれが暫く気になってならなかった。

できることならしずかなこの山村で生涯を送りたい、かれがそう思った気持には嘘はなかった、いちどは死のうとまで思ったかれが、ともかくも生きてゆこうと考えるようになったのは、此処へ来て、静閑な朝夕を味わってからのことである。山も野も美しい、落葉しはじめた林の樹々も、耕地に働く農夫も、汚れのない淳朴な、つつましいすがたをあからさまに見せて呉れる、――ここでなら自分も生きてゆける、心から伝三郎はそう思ったのであった。だがそう思ったのはほんの僅かな日数でしかなかった、かれはやっぱりここでも痛いに遭わなければならなかったのである。
霜月にはいった初めの或る日、作りあげた草鞋を持って柏屋へゆくと、珍しく手代だという中年の男が応待に出た。横鬢よこびん禿げた、眼つきの貪欲どんよくそうな手代は、み手をしたり愛想笑いをしたりして、しきりにかれの草鞋の出来を褒めあげ、そくばくの賃銭をそこへ並べながら、ひとつご相談がありますと云いだした。
「この次からはお手間賃も少しお上げ申しますが、ご相談というのはこの緒付けでございますな、ここを少し手をぬいて頂きたいのでございます」
「緒付けの手をぬくと申すと……」
「鼻緒、後緒、中乳と、この三カ所をもう少し手軽くやって頂きたいのです」
「しかしそれでは保ちが悪くなるが」
「そこでございますよ」手代はにっと愛想よく笑った、「……あけすけに申上げるとこなた様の草鞋は丈夫すぎるのです、ご承知のようにこういう品を扱う店は、みな街道の掛け茶屋か木賃旅籠はたごで、一足につき一文半銭の利にしかなりません、けれども草鞋は穿き捨ての消耗品で、数が出ますから儲けにもなる、だからといって弱くては買い手がつかない、そこが商売のむずかしいところでございます」手代はそこでもういちど笑った、「……こなた様のお作りになる品はまことに丈夫で評判もよろしく、東海道筋からも印付きで注文がございます、これだけ品の名が通ればあとは少しくらい手をぬいても心配はございません、丈夫に越したことはないのですが、なにしろつい先日も信濃の河内と申すところまで塩を積んでまいった馬子がありましてな、往き帰り三十里の道を一足でとおして、まだ穿けるというのですから嘘のような話でございます、これでは細かい利でやってゆく掛け茶屋などはあがったりでござりますよ」
「そうすると、つまり」伝三郎はからだが震えてきた、「……丈夫だという評判がついたから、これからは弱い草鞋を作れというのだな」
「そう仰しゃると言葉に角が立ちますが、なにしろこれも商売でございまして」
次に作る分の材料がそこに出してあった、然し伝三郎は黙って手間賃だけ受取ると、その材料には手も触れず、手代の言葉を中途に聞きながして柏屋の店を出てしまった。「商売、僅かな利、儲け、弱い草鞋」
そんな言葉がきれぎれに頭のなかを飛びまわった。汚れたもの、卑賤なものとして、かれが居たたまらず逃げだして来た「世間」がここにもあった。丈夫なうえにも丈夫であるべき品を、儲けるために弱く作れという。
「なんという世の中だ」伝三郎は思わず声をあげた、「なんという見下げはてた世の中だ、あの手代のはじを知らぬ顔はどうだ、ああ息が詰る」
ぶるぶると身を震わしながら逃げるような足どりで歩いて来たかれは町の左がわに「酒」と書いた油障子をみつけて、矢も盾も堪らずその店の中へはいっていった。
野部の家へかれが帰ったのはもう昏れがたのことだった。案じていたのだろう、いねが丘の登り口のところに立っていて、かれをみつけると駆け寄って来た。
「いやなんでもありません」伝三郎は娘の問いかけるのを遮って、片手を振りながら急いでそう云った、「……草鞋作りは性に合いませんのでね、明日から人夫に出ることにしましたよ」
「人夫と仰しゃいますと」
「二俣の南から犬居へぬける裏新道を造っているそうで、誰でも日雇いに出られるということですから」
「でもせっかく草鞋の評判がおよろしいのに」
「いやそれはもう云わないで下さい」伝三郎は脇のほうを向いて吐きだすように云った、「……どうか草鞋のことは二度と云わないで下さい、商人を相手にしたのがこっちの間違いでした、はじめからわかっていなければならなかったのです、しかし、……いやもう同じことです、遣り直しです、人足なら土を掘るのが仕事ですから、土には嘘も隠しもないでしょうから……」
そして逃げるような恰好でかれは家のほうへ去っていった。

新道を造る人夫の話は事実だった。かれは酒を飲みにはいった店でそのことを聞いた、柏屋をとびだしたときの気持は忿りというよりも絶望で、なにもかもめちゃくちゃになってしまえと思ったが、老人といねの親切を考えるとここで投げ出しては済まないということに気づいた、――縁もゆかりもない者にこれほど尽して呉れる、ここでその心を無にしては相済まぬ。そう気づいたとき新道普請の人夫の話を聞いたのである。
明くる朝はやく、まだ暗いうちにかれは身仕度をして家をでかけた。老人にはなにも云ってなかったが、いねが腰弁当を作って持たせて呉れた。普請場は二俣の南口から山越えに犬居へぬけるもので、中泉の代官所が支配となり、費用は国領と村郷との折半もちということだった、それで村郷からと代官所扱いと二組の人夫が出るのだが、村方はまだ農繁期で人手が足らぬため、日雇いを募ってそれに代えていたのである。そのとき工事は鳶山という赭土あかつち山の切通しにかかっていた、仕事はがけを崩すのと土運びと二つあり、伝三郎は崩すほうを望んだ。
久しぶりの力わざで、疲れはしたが気持はよかった。三日めに雨が降って休んだが、それからは秋晴れが続き、くわの使いようもしだいに馴れていった。小休みのときなど、汗を拭きながら草原に腰をおろすと、天竜川の大きく曲流しているあたりから対岸の野山まで、うちわたしてみえる広い眺めがあり、じっと見ていると骨まで洗われるような清爽せいそうな感じだった。しかしそうして日の経つうちに、まわりの人足たちが反感のある眼でこちらを見るのに伝三郎は気がついた。はじめのうちかれらが「あれはお武家だそうな」とか「どこかの浪人だとよ」などとささやくのを聞いた、こっちは別だん気にもとめずにいたのだが、しだいにようすが変ってゆき、時にはあからさまに意地の悪い態度を示す者さえでてきた。
――かれらはなにが気にいらないのだ、おれは武士という体面を捨て、できる限り対等につきあっている、いったいどこがそんなにかれらの反感を唆るのか。
まるで理由がわからないだけよけいにかんも立った。すると或る日、十時の小休みのときであったが、四半刻という休みの時間が終って、かれが仕事にかかろうとすると、人足のひとりが寝そべったままで「もうお始めですかい」と声をかけた、「……そんなに精を出しても日雇賃の割増しが出るわけじゃありませんぜ」そしてそれといっしょに四五人の者が笑いだした。伝三郎は聞かぬふりをして、そのまませっせと鍬をふるいだした。
「お武家だろうとなんだろうと」そう云う声が聞えた、「……こちとらの仲間へはいれば同じ人足だ、日雇取りなら日雇取りらしくするがいいじゃあねえか」
伝三郎は堪りかねてふり向いた。
「失礼だがそれは拙者のことか」
「お耳に入りましたかね」その男は寝そべったままにやりとした、「……内証ばなしなんで、お耳に入ったらご勘弁を願いますよ、しかしねえお武家さん、あなたもどうせ日雇取りをなさるんなら、あっし共と同じようになすって下さらなくちゃあいけませんぜ」
「拙者はできるだけそうしようと思っている、いったいどこが貴公たちの気にいらんのか」伝三郎はできるだけしずかにそう云った。
「なにたいしたことじゃありません、弁当の休みや小休みのときに、あっし共と同じように休んで下さればいいんでさ、お独りだけ精を出して貰わねえようにね」
「しかし拙者はきまりだけ休んでいる、弁当のときは半刻、小休みは四半刻、定りだけちゃんと休んでいる筈だ」
「その定りが困るのさ」と別の男が云った、「……酒の一杯も呑めば消えちまうような日雇かせぎのあっし共には、弁当休み小休みのときにちっとずつでもよけい休むのがまあ役得の一つになっているんだ、それをおまえさん独りにそう稼がれると親方の眼につく、しぜんあっし共がにらまれてせっかくの役得がふいになる勘定だ、戦場でもぬけ駆けは御法度だそうじゃあございませんか、お願い申しますぜ」
伝三郎には答える言葉はなかった、かれは黙って向き直り、崖の斜面へ力をこめて鍬を打ちおろした。なにも聞くな、そう思った。考えてはいけない、かれらには好きなように云わせるがよい、我慢だ、我慢だ。けんめいに自分を抑えつけて、かれはただ鍬を揮うことに身も心もうちこんでいた。
ひるの弁当のときには、かれは普請場から離れて丘ふところの叢林のほうへいって休んだ。その日もよく晴れあがって、林の中ではしきりにつぐみの声がしていた、かれはその鳴声にさそわれてふとその林へはいってみた。楢や栗や黄櫨こうろなどは、もう殆んど裸になっていたが、残っている葉のなかには眼のさめるほど美しいもみじしたのがあり、差交わしたこずえのあたりで鳥が立つと、色とりどりの葉がうちまけるように散ってみごとだった。……林になっているのは僅かな区域で、少しさきにはもう畑がみえていた、しかしいかにも静かで、踏んでゆく足の下からは日に温ためられた枯葉の匂いがあまく匂ってくる、――自然はこんなに美しいのに、こんなにも自然は美しいのに、人間は……考えはまた元へかえろうとする、伝三郎は慌てて頭をうち振った。そしてふと見あげた眼に珍しいものをみつけた、一丈ばかりの高さの黄櫨の木に、山葡萄が絡みついていたのである、つるはその枝いっぱいに絡んで、黝ずんだ紫色の実が群がるように生っている、もう幾たびか霜にうたれたのだろう、小さな果皮が縮んで粉をふいているのもあった。
「なつかしいな」伝三郎は口のうちでそう呟いた、「……新庄でも今ごろになるとよく山へこれを摘みにいったものだったが」
望郷の想いが湯のように胸へこみあげてきた、その想いに唆られて、かれは山葡萄の蔓へ手を伸ばした。そのときである。林の向うの畑地から、「山を荒すじゃねえぞ」という棘とげしい叫びごえが聞えてきた。ふり返ってみると、二十ばかりになる百姓の娘が、ひどくとがった眼つきでこっちをにらんでいた。――山を荒す、言葉があまり烈しいので、伝三郎ははじめ自分のこととは思えなかった、娘は血色のいい頬をふくらせ、なにかを叩きつけるような調子で呶鳴どなった。
「そこらへ入って山を荒すじゃねえ、ここはおらんちの山だ、むやみに入って荒すと承知しねえから」
それは人間の貪欲をむきだしにしたような声つき表情だった、しかもまだ若いとしごろの娘である、伝三郎は思わず前へ一歩出た。
「拙者はここで山葡萄をみつけた、一粒二粒これを摘もうとしたのだが、それもいけないのか」
「山を荒すなと云ってるだ」娘はおっかぶせるように罵った、「……ここはおらんちの山だ、出てゆかねえと人を呼ぶだぞ」
伝三郎は頭を垂れた。

老人が昌覚寺の稽古から帰ったのは日のとぼとぼ昏れだった。家の中へはいるといねが待ちかねていたようにとんで来た。顔色が変っていたし声もおろおろと震えていた、そして今にも泣きそうな声で囁いた。
「宗方さまがお立ちになると仰しゃいます」
「……どうかなすったのか」
「なんにもわけは仰しゃいません」いねは唇を噛みしめた、「……でも、なにかたいそうお辛いことにお遭いなすったのだと思います、こんどこそなにもかもあきらめたとお云いなさいました」
「だからといっておまえが泣くことはないだろう」
「でもお祖父さま、いねにはあの方がお気のどくでならないのですよ、本当になんといっていいかお気のどくで……」
老人は黙って居間へはいったが暫くすると出て来て、伝三郎のいる部屋を訪れた、かれはちょうど支度をして袴を穿いているところだった、そして老人を見ると面を伏せ、手早くひもを結んでそこへ坐った。
「お立ちだそうでございますが」老人は坐りながらしずかにそう訊いた、「……なにか間違い事でもあったのでございますか」
「なにもかも敗北です」伝三郎はおのれの膝をみつめたまま云った、「……できるだけは辛抱してみたのですが、やっぱり拙者には続きませんでした、ご親切にはお礼の申しようもありません、ご老人にもいねどのにもまことに相済まぬしだいですが、わたくしはやはり山へはいります」
「それをお止めは致しません、そうしたいと仰しゃるならお好きなようになさいまし、しかしなにもかも敗北ということにお考え違いはございませんか、もう辛抱が続かないということに思い過しはございませんか」
「聞いて頂けばおわかり下さろうと存じます」
かれは面をあげて語りだした。柏屋の手代のこと、人足たちのこと、山葡萄を摘むことさえゆるさなかった娘のことなど、……話すうちにも新しく怒りがこみあげてきて、身が震え、声がよろめいた。
「わたくしにはできません、手ごころをして弱い草鞋を作ることも、人足たちといっしょに役得の時間をぬすむことも、わたくしにはどうしてもできないことです」かれは両のこぶしをぎゅっと握りしめた、「……この村をとり巻いている山々や森や、丘や草原の清浄な美しさ、明け昏れの静かさ、風光も人間も、汚れのない淳朴な土地だと思っていましたが、やっぱりだめです、自然が恵んで呉れる一粒の山葡萄をさえ惜しむ、あの貪欲な娘の眼をごらんになったら、ご老人はどのようにお考えなさるでしょうか、もうたくさんです、わたくしにはこういう汚れはてた世間に生きてゆく力はありません、たくさんです……」
老人はうなずき頷き聴いていた、そして伝三郎の言葉が終ると、暫く眼をつむってなにか考えふけっていたが、やがていつもの淡々とした調子で、「よくわかりました」と云いだした。
「世間が汚れはてている、卑賤で欺瞞に充ちているからつきあえない、だから見棄ててゆく……こう仰しゃるのですね」老人はそこでしずかに眼をあげた、「……よくわかりました、しかしこの老人にわからないことが一つあります、それはあなたご自身のことです、あなたは此処へいらしって数日後に身の上話をなすった、家中の方々の多くが御都合主義である、清廉でない、御老臣は節を変ずる、江戸へ出れば世の中は無耻むちで卑しい、悪徳が横行してどこにも誠実はない、……そのようにお話しなすった、しかしいちどもご自分が悪いという言葉はございませんでした」老人はそこで口を閉じ、暫く黙って眼をつむっていた、「……今この村へいらしってからの事も、柏屋の手代とか、人夫の狡猾、百姓の娘の貪欲などをお挙げなさるが、ひと言もおのれが悪いということは仰しゃらぬようだ、宗方どの、こなたそれでは済みますまいぞ」
しずかにみひらいた老人の眼は、そのとき鋭い光りを帯びて伝三郎の面をひたと衝いた、「こなたは世間を汚らわしい卑賤なものだと云われる、しかし世間というものはこなた自身から始るのだ、世間がもし汚らわしく卑賤なものなら、その責任の一半はすなわち宗方どのにもある、世間というものが人間の集りである以上、おのれの責任でないと云える人間は一人もない筈だ、世間の卑賤を挙げるまえに、こなたはまず自分の頭を下げなければなるまい、すべてはそこから始るのだ」
それはまるで頭上から一刀、ずんと斬り下げられた感じだった、伝三郎は五躰がすくみ、そのまま奈落へ転落するように思えた。
「廉直、正真は人に求めるものではない」と老人は少し間をおいて続けた、「……そこにある文机をごらんなさい、三十余年も使っているがまだ一分の狂いもない、おそらく名もない職人が僅かな賃銀で作ったものであろう、その賃銀は失せ職人は死んでしまったかも知れない、だが机は一分の狂いもなく、このように今もなお役立っている、……真実とはこれを指すのだ、現にあなたも往復三十里の山道を穿きとおせる草鞋を作った、そこに真実があるのではないか、こういう見えざる真実が世の中のくさびになってゆく、ひとに求める必要がどこにあるか、問題はまずあなただ、自分が責めを果しているかどうか、そこからすべてが始るのだ……」

老人の言葉はそこで終った。――そういう見えざる真実が世の中の楔になってゆく、そのひと言は、千斤のいわおの落ちかかるように伝三郎をうちのめした。……しかし老人の言葉の終るのを待っていたのであろう、伝三郎が面をあげたとき、障子の向うでいねの声がした。
「……ごめん下さいまし、宗方さまへお客来でございます」
伝三郎は夢からめたようにふり返った、自分に客とは、柏屋からか、それとも道普請の人足建場からか、かれはそのどちらかであろうと思い、老人に会釈をして座を立った。しかし出てみると、もう暗くなった門口にいたのは、みなれない旅装の若い武士であった。
「拙者が宗方ですが、なにか御用ですか」
「おおやっぱり宗方」若い武士は声をあげながら前へ進み出た、「……たぶん間違いないとは思ったがやっぱりそこもとだったか、ずいぶん捜しまわったぞ」
「そこもとは杉田うじか」伝三郎はあっけにとられた。
「杉田五郎兵衛だ、しばらくだった」
「どうして、どうして此処へ」
「まずおあげ申したがようございましょう」いつか老人がうしろへ来ていてそう注意した、「……いね、お洗足をとって差上げるがよい」
いねが世話をして洗足をとると、客は老人に会釈して伝三郎の部屋へとおった。かれは杉田五郎兵衛といって、新庄藩での同僚のひとりである、しかしなんのために自分を尋ねて来たのか、どうしてこんな山里の住居が知れたのか、伝三郎にはまるで見当がつかなかった。
「お召し返しなのだ」五郎兵衛は座に就くとすぐそう云った、「……お世継ぎの事で退身した者が、そこもとのほかに五名あった、その六人に対して、内記正庸さまから、食禄しょくろくもと通り帰参せよとの御意がさがったのだ、ほかの五人は昨年うちにみな帰参している、残っているのはそこもとひとりなのだ、すぐにも新庄へ帰らなければなるまいぞ」
「だがいったいどうして、いったいそこもとはどうしてこんな山家を尋ね当てることができたのか」
「そこもとは草鞋を作ったであろう」五郎兵衛は笑いながら云った、「……その草鞋が案内をして呉れたのだ」
「草鞋が案内をしたとは」
「袋井と申す宿で草鞋を買った、穿き心地にどこか覚えがあるのでよくみると、故郷の新庄でわれわれの作る武家草鞋だ、緒付けも耳の具合もまさしく違いない、そこで茶店へ戻って問屋を尋ね、二俣の柏屋からこの家を教えられて来たのだ」
ああという伝三郎の声に続いて、老人がそこへはいって来ながらこう云った。
「宗方どの、草鞋がものを云いましたな」