『天狗岩の殺人魔』
あらすじ
『天狗岩の殺人魔』は、山本周五郎による緊迫感あふれる推理小説です。物語は、南伊豆の大楠村を舞台に展開し、殺人鬼権六の噂が村に広まる中、平野大造氏の洋館で起こる一連の出来事を描いています。平野氏は隠退した実業家で、甥の木村祐吉と種田京太郎が彼の財産を継ぐことになっています。祐吉は医科大学の二年生、京太郎は理科学の研究者で、二人は論文執筆のために平野氏の家を訪れています。
ある日、京太郎が研究の説明をしている最中に、祐吉が新聞記事を持って飛び込んできます。記事には、殺人鬼権六がこの地に潜入し、銀行家宮橋多平氏を脅迫したとあります。しかし、平野氏はその話に興味を示さず、祐吉をたしなめます。その夜、京太郎が栗林で殺人現場を目撃し、村は恐怖に包まれます。被害者は石屋の源助老人で、殺人鬼権六が犯人と見られています。
翌朝、祐吉は警察に手帖を提出し、源助が殺された理由を探るべきだと主張します。彼は事件の背後にある謎を解き明かそうと奔走し、京太郎の怪しい行動にも気づき始めます。一方、京太郎は平野氏を釣りに誘い出し、天狗岩の下で待ち伏せます。祐吉は京太郎の計画を察知し、平野氏を救出するために駆けつけます。
天狗岩が崩れ落ち、馬車が粉砕される寸前で平野氏を救い出した祐吉は、京太郎が実は殺人鬼権六であり、平野氏を殺して遺産を独り占めしようとしたことを明らかにします。京太郎は自らの計画が失敗したことを悟り、逃走を図りますが、祐吉によって制止されます。最終的に、京太郎は自らが仕掛けた罠にかかり、天狗岩と共に海へと落ちていきます。
この物語は、表面上は温和で理知的な京太郎が、実は冷酷な犯罪者であったという衝撃的な事実、そして祐吉の機転と勇気によって真実が明らかになる様子を描いています。
山本周五郎は、人間の欲望と裏切り、そして正義の勝利を巧みに織り交ぜた物語を通じて、読者を最後まで惹きつけます。祐吉の探偵としての才能が光る一方で、平野氏の人生観や遺産に対する考え方も重要なテーマとして描かれており、単なる推理小説を超えた深みを感じさせる作品です。
書籍
朗読
本文
「伯父さん大変だ、凄い記事ですぜ」
扉を蹴放すような勢でとび込んで来た祐吉は、新聞を片手に振廻しながら、
「殺人鬼権六! 当地へ潜入せり、銀行家宮橋多平氏脅迫さる、脅迫状には五千円を要求しあり、当地住民は恐怖動揺を来し、警察当局もまた非常警戒に任じたり」
「うるさい、うるさい!」
平野大造氏は手を振って制した。
「いま京太郎から研究問題の説明を聞いて居るところじゃ、そんな下らぬ新聞記事などは止めにしろ」
「だって殺人鬼権六と云えば……」
「黙れ、おまえは毎も盗難事件だの殺人だのと、まるで探偵のような事にしか興味を持たんじゃないか、そんな事で立派な医者に成れると思うか、少しは京太郎を見習うが宜い、呆れた奴だ」
「じゃア黙りますよ」
祐吉はむっとして、部屋の隅の長椅子へどかっと体を投出した。
此処は南伊豆の大楠村という、半島と半島に囲まれた風光明眉の土地で、東京、大阪の富豪や外人たちの別荘地として、近年ようやく発展しつつある処だ。――平野大造氏は隠退した実業家で、資産五十万円と云われるが妻子も無い全くの独身で、五年まえからこの大楠村に洋館の住心地の宜い家を建て、料理人と下男二人だけを使って気楽な余生を送っている。
木村祐吉は医科大学の二年生、種田京太郎は理科学の研究室へ勤めているが、二人とも平野氏にとっては甥に当り、五十万円の財産は将来この二人が受継ぐことにほぼ話が定っていた。……今度は二人とも論文を書きにこの家へやって来たのだが、京太郎は海岸にあるホテルに住い、勉強の暇さえあれば伯父を慰めに訪ねて来るのに反し、この家にいる祐吉の方は、論文などそっち退けで、朝から家を外に飛廻っているという有様だった。
温和しい京太郎は、伯父にやっつけられて、祐吉が気を悪くしたらしいのを見ると、
「ああもう九時ですね」
と時計を見ながら静かに立った。
「帰って勉強する時間ですから、僕は是で失敬します」
「そうか」
平野氏は残念そうに、
「いまの話は面白かった。火山岩を或種の電波で金に還元する、――それが事実だとすれば世界の経済界をかき廻す事が出来るぞ。まあ精々やって呉れ、直ぐに資金を出すという訳には行かんが、大丈夫と定れば」
「どうか伯父さん!」
京太郎は羞しそうに遮った。
「そんな大きな声で仰有らないで下さい、当分この研究は秘密にして置きたいと思いますから、決して他言なさらないように」
「宜し宜し、もう決して云わん」
「では失礼します。――祐ちゃん失敬」
「うう」
祐吉は不愛想に呻いただけだった。
京太郎が立去ると、――平野氏は自分の椅子へ戻って葉巻に火を点けながら、
「祐吉、おまえもっと確りせんと駄目だぞ、そんなにのらくらしていると儂が死んでも遺産を分けてやらんから」
「遺産なんか貰わなくても僕ァ、伯父さんの生きている方が宜いですよ。――なんだ十万や二十万の金なんぞ」
「直ぐそれだ!」
平野氏は忿然と立って、
「貴様は直ぐ金なんぞと云うが、金が無くて人間なにが出来る。京太郎を見ろ、貴様より三ツ年上だけなのに、火山岩を金に変えるという驚くべき発明をやってのけたじゃアないか、国家的にも大功績と云うべきだぞ」
「へえ――まだ万有還金などという事が流行っているんですかね、僕ァまた伯父さんから資金を引出す口実だと思った」
「そう云う奴だ。何かと云うと直ぐ探偵みたいな事を云う」
「あッ、その探偵で思出した」
祐吉はぐいと身を乗出して、
「殺人鬼権六が潜入したとなると、こいつは二三日うちに何か事件が持上りますぜ、殊にもう宮橋氏へは脅迫状をやったと云うんですから、伯父さん処なんぞも危いですよ」
「もう沢山だ。殺人鬼などに怖れていて永生きが出来るか、儂なんぞはいま此処へやって来たってびくともしやせんぞ」
平野氏が傲然と云放った時だった。――庭へ出る扉が突然外から押明けられて、濛々たる霧と共に京太郎が飛込んで来た。
「た、大変です。人が殺されて……」
「なに」
「彼処の栗林の中で、人が……」
京太郎の顔は、恐怖のために蒼白くひき歪んでいた。
京太郎の話は斯うだ。――此家を出てホテルへ行く近道を栗林の方へ抜けて行くと、不意に人の悲鳴がした。驚いて其方を見ると、右手の林の中で、一人の怪漢が片手に角灯を持ち、片手に小刀を振上げて、一人の農夫のような男を刺殺す有様が見えた。
「余りに恐ろしい光景で、前後も知らず逃げて来たんです――」
「殺人鬼権六だ」
祐吉が叫びながら立った。
「――そうかも知れぬ」
平野氏は急に振返ると、大股に卓子へ歩寄って抽出の中から懐中電灯と護身用の拳銃を取出し、
「祐吉、行こう。――京太郎案内して呉れ」
「しめた! そう来なくちゃア面白くないぞ!」
祐吉は躍上って喚いた。
平野氏は下男に、警察へ電話を掛けるように命じて置いて、二人の青年と共に庭から出て行った。――戸外は半メートル先も見えぬ濃霧だった。灯を持った京太郎を先に、道を左へ取って行くと五百メートル程して栗林に入る、……まだその辺に殺人鬼がいるかも知れぬしいつ何処から襲われぬとも限らぬので、平野氏は拳銃の安全錠を外し、引金に指をかけて八方に眼を配りつつ進んだ。
「彼処です――」
やがて京太郎が立止まった。
「あの巨きな松の木の処です」
「行って見よう」
「ぼ、僕は此処で待っています。僕には――迚も屍体を見る勇気はありません」
震えながら云うのを、祐吉は側からもどかしそうに、懐中電灯をひったくって、
「じゃア君は待ってい給え、伯父さん行きましょう。僕が先頭を引受けます」
「気をつけろよ、まだ犯人がいるかも知れぬぞ、――足許に注意して……」
遉に祐吉は緊張して、一歩一歩道を照しながら、教えられた松の木の方へ近寄って行く。と――その四五間手前で、一冊の小型な、汚い手帖が落ちているのをみつけた。
「何だ祐吉」
「手帖が落ちていたんです」
「つまらん物を、どうするんだ」
「なに、どうもしませんさ」
直ぐポケットへ押込んで歩を進めた。
栗林の中に唯一本、ぬきんでて巨きい松がある。村人は「印の松」と云って、沖へ出た漁夫が、帰る時の眼印にするくらいで、高さ四十メートルもある巨木だ。――その根方に、五十歳くらいになる農夫態の老人が、血まみれになって倒れていた。
「うむ! 矢張り……」
と平野氏は見るなり其場へ立竦んだが、祐吉はさすが医学生だけに、直ぐ走寄って抱起した。すると男は、息も絶え絶えに、
「も、もう削れねえだ、もう、些っと、押しても、それで……ああ、危ねえ――」
「おい、確りしろ、誰がやったんだ」
「…………」
「おい! 君」
耳許へ口を押付けて叫んだが、老人は奇怪な言葉を最後に、絶命して了った。――祐吉は老人の脈を診たり、瞳孔を検べたりしていたが、
「駄目です、死にました」
と云って立上った。
「頸のところを突刺されたんです。もう少し早く手当をすれば、或は助かったかも知れませんが、斯う出血がひどくては……」
「村の者らしいな」
「そうでしょう」
祐吉は尚も四辺を注意深く見廻してから、さっき拾った手帖を取出してペラペラとめくって見た。――何年となく使古したもので、中には乱暴な鉛筆の走書きで、仮名ばかりが並べて書いてある。心覚えの手帖だろう。何の気もなく最後の一枚を見ると、
――ぐひんさんをけずる、五えん
という字があった。
「何だ、ぐひんさんを削るとは」
呟きながら次をめくると、
――ぐひんさんをけずる、五えん
再び同じ事が書いてある。日附を調べてみると、この一週間ばかり毎日同じ事が続いていた。そしてその前には、
――ひがしの墓をけずる、二えん
とある。
「伯父さん、ぐひんさんて何ですか」
祐吉が振返って訊いた時、道の方から京太郎が大声に叫んだ。
「伯父さん、警察から人が来ましたよ」
翌る朝、平野氏は紅茶を啜り乍ら新聞を読んでいた。――そこには昨夜の殺人事件がでかでかと報道してあった。
一、加害者は殺人鬼権六の見込。
一、警官隊は山狩りを始めている。
そんな事が主要な記事だった。
殺人鬼権六とは何者ぞ。彼は半年ほど前から、京、大阪、名古屋へかけて、富豪紳商を襲っては残虐極まる殺人を犯し、金品を強奪して煙のように消える、実に神出鬼没の兇賊であった。――それが今や、この南伊豆の平和境へ現われ、銀行家宮橋氏に五千円の脅迫状を叩きつけた許りか、早くも無残な殺人を敢行したのである。
「恐るべき怪賊、憎むべき兇漢、――我等は徒に警察力を頼まず、各自武器を執って自警のために決起すべきだ!」
と、新聞はいきり立って書いていた。
「お早ようッ、伯父さん」
庭口から祐吉が飛込んで来た。
「ええ、吃驚した、もう少し静かにせんか、貴様の方が殺人鬼よりずっと乱暴だぞ!」
「新聞を読みましたか」
祐吉は構わず、どかっと椅子に掛け、
「警察ではもう権六権六で血眼になっていますよ。――然し僕の観察では、この事件はそう単純には解決ないと思いますね。――僕にはどうも、あの手帖に書いてあった『ぐひんさんを削る』というのが気になってならない」
「まだあんな手帖に拘わっているのか」
「あんな手帖と云うけど、あの手帖のお蔭で石屋の源助という身許が分ったんですからね。――僕は今朝警察へ行って云ったんです。大切なのは源助が殺された事ではなく、どんな理由で殺人鬼が源助を殺したのか? その点を確めなければ解決の鍵は握れないッて」
「貴様……警察などへ行ったのか」
「だってそうでしょう。権六は殺人鬼だが、金品を盗むのが目的です。京大阪の事件もみんな富豪か名士に限られています。それなのにどうして此処では貧乏な石屋の老人などを殺したか、――その点が最も重大ですよ」
「呆れた奴だ」
平野氏はかんかんに怒った。
「いったい貴様それで宜いのか、学問などは抛放しで、そんな事となるとまるで気違い騒ぎだ。もう学校などは止めて探偵にでも成って了え」
「まあそう怒らないで下さい」
「怒るのは当然じゃ、貴様などには一文も遺産はやらんからそう思え、馬鹿馬鹿しい」
「僕だって」と祐吉は立上って、
「遺産なんか欲しくはありませんや」
「な、何を、このッ」
平野氏が突立上るより早く、祐吉はにこにこ笑いながら素早く庭へ飛出して行った。
祐吉は医科大学生であるが、法医学(犯罪に関する医学)をやっているので、こんな事件に興味をもつのは当然であった。――客間から庭へ飛出した祐吉が、門を出て坂を下りようとしていると、向うから鞄を抱えた中年の男が近寄って来て、
「些っとお伺いしますが、平野さんのお屋敷の方ではありませんか」
「そうです、何か御用ですか」
「種田さんは被居るでしょうか」
「京ちゃんは浜のホテルの方ですよ」
「ホテルにはいないんですが」
着古した洋服、抱えた折鞄、どことなく眼つきの悪い下品な男である。――祐吉は無遠慮にじろじろ見ながら、
「京ちゃんに何か用があるんですか」
「はあ、――少しその……」
「僕が取次ぎましょう、やがて此処へ来るでしょうから」
「然し、そうですな」
男は些っと考えて、
「では斯う仰有って下さい。蔦屋で午後五時まで待っています。五時までにおいでがなければ断然東京へ帰ります」
「一体なんの用事かね君」
「学校の友達で井上だと云って下されば分りますよ」
男は冷笑するように云うと、そのまま元の道を引返して行った。――厭な奴だ! そう思った祐吉は裏道の急坂をとっとと村の方へ下りて行った。今日は東京の母からお小遣を送って来たので、郵便局へ替えに行く積りなのである。……然し、途中まで来た時、
「まてよ、彼奴――何者だろう」
ふといま会った厭な男が気になり始めた。学校友達だと云うが年齢が違うし、あの君子のような京太郎と付合う人品ではない、殊に依ると京太郎に取って悪い奴かも知れぬ。――元来祐吉は京太郎が嫌いであった。然し人一倍義侠心の強い彼は、若し京太郎にとって悪い奴なら、自分がなんとか扱ってやろうと考え、そのまま浜の方へ馳けだした。
蔦屋という宿は乗合自動車の停留場の前にある。祐吉はその店へとび込んだ。
「ああその方ならお泊りです」
番頭は直ぐ宿帳を調べて呉れた。
「何をする人ですか」
「宿帳には金融業と書いてございますが」
「金融業……金貸だね」
有難うと云って祐吉は外へ出た。
金貸し、金貸し――あの温和しい、聖人のような京太郎が金貸等と関係している。否、そんな事はない。それなら却って見直すが、恐らく友達の借金の保証でもしたのだろう、そんな事に違いない。
「あんな奴は、友達の借金でも背負わされて、少し実社会の味を覚える方が宜いんだ。そうすれば少しは人間らしくなるだろう。――今頃『万有還金』なんて夢みたいな事を研究するのも、つまりは世間知らずの馬鹿なところさ」
ふふんと笑いながら郵便局へ入った。
小為替を金にして外へ出ると、通りが妙にざわついている。消防組や青年団の人たちが、青竹や樫棒を持ってがやがやと物々しく往来しているのだ。――祐吉は青年団の一人を捉えて、
「どうしたんです。何かあったんですか」と訊いた。
「ええ、大倉山の方へ殺人鬼が逃込んだので、これから山狩りを始めるところです」
「殺人鬼、それは本当かい君?」
「丘の平野さんの甥で種田京太郎という人が浜のホテルにいるんです。その人が慥に見たと警察へ訴えたのだそうです。――種田さんという人は、栗林の中で殺人鬼が源助を殺している現場を見たのですから間違いはないでしょう」
「種田は何処にいるんです?」
「猟銃を取りに平野さんのお屋敷へ行きました」
へえと思った。あの君子が猟銃を取りに行って、この連中と一緒に山狩りをやろうというのかしらん。――そいつは意外だ、そんな元気のある奴とは知らなかった。
「じゃア僕は伯父さんの拳銃を借りよう」
面白くなって来たぞと、祐吉は会釈もそこそこに走りだした。
栗林をぬけて行く近道を、足も宙に走りつづけて、横の通用口から裏庭へ入った祐吉、ばったり下男の銀作に会ったので、
「伯父さんは客間かい」
と訊く、――銀作はぽかんとして、
「否え、さっき京太郎様と御一緒に、馬車で釣にいらっしただよ」
「え? 釣に行ったって?」
「へえ、鯛釣りだと云ってね、場所は向う淵だと云ってござらしっただ」
「なんだ馬鹿げてる!」
祐吉は舌打をした。――猟銃を取りに戻るなどと云って、矢張り山狩隊に加わる勇気はなかったんだ。
「向う淵というのは馬車で行くほど遠いのか」
「遠いだよ、あのぐひん様の下の崖道を通って五丁ばかり先だ」
「ぐひん様」
祐吉は聞き咎めた。
「なんだい、其のぐひん様て云うのは」
「あははは、儂らの方言でな、つまり天狗岩の事だ。御存じだんべえが」
「なんだ天狗岩か……」
祐吉は失望して、伯父の部屋へ拳銃を取りに入ろうと――二三歩行きかけたが、不意にぴたりと足を止める。
「あっ」
まるで打のめされたように叫んだ。
「畜生、そうか、そうかッ」と云うと身を翻えして、
「銀作! 馬を出して呉れ、馬を」
「あ、なにするだね、馬なんぞ出して」
「何でも宜い、早くしろ、大変だッ」
祐吉の凄じい叫びに、下男は眼を剥きながら厩へ走った。
平野氏は平常から馬が好きで、アラブ種の駿馬を三頭持っている。交通が不便な場所だし、軽馬車を一台造らせて、この馬をつけては折々のドライブを娯みにしていた。――下男はその内の一頭「ルビイ」というのを曳出して来た。
「ええ、鞍なんぞ要らん」
祐吉は裸馬の背へひらり跨がると、側に伸びていた梅の枝を折取って鞭代り、ピシリとひと当て呉れて――驀地に門から出て行った。まるで疾風のような速さである。
門を出て右へ、だらだら坂を下ると、村とは反対の方へ、海沿いの静かな道が坦々と続いている。それは東の半島をぐるりと廻って、下田港の方まで伸びているのだが、危険な崖道なので乗合自動車などは通らない。然し風景は美しく、四辺も静かなので、平野氏はその道を馬車で乗廻すのが好であった。――祐吉は続けさまに鞭を鳴らしながら、馬を煽り、狂気のように疾駆して行った。
「もっと早く、ええ畜生、それっきり走れないのか、もっと早くそらッ」
アラブ種の名馬も遉に泡を噛み、蹄で砂利を蹴散らしながら駈けに駈けた。――道は幾曲り、半島へかかった。と……向うの岩角を今や曲ろうとしている馬車、
「あッ、伯父さーん」
祐吉は馬上に絶叫した。
「ああ、間に合った。間に合った」
裸馬を煽って駈けつけた祐吉を見ると、
平野氏は馬車の速度をゆるめながら、
「どうしたんだ」
「京、京ちゃんは? 一緒に来たんじゃアないんですか」
「一緒に来たさ」
「いないじゃアないですか」
馬車には京太郎の上衣がある許りだった。
「餌にする柳の虫を獲るので、向うの土橋のところで降りたよ、もう後から来るだろう」
「――伯父さんも降りて下さい」
「なに、なんだって?」
「伯父さんも降りて下さいと云ってるんです。一生のお願いです。遺産も何も要りませんから今日一度だけ僕のお願いを肯いて下さい」
「一体それはどう云う訳だ?」
「訳は後で話します、早く」
祐吉の真剣な態度に、平野氏は逆う気も失せて馬車を降りた。――同時に祐吉は馬車へ飛移り、釣棹をへし折って席へ突立てて、それへ京太郎の脱いで行った上衣と帽子を冠せた……些っと見ると人が乗っているように見える。
「何をするんだ祐吉」
「いま面白いものを御覧に入れますよ、――さ少し後から跟いて行ってみましょう」
馬車を先へ進ませ、祐吉は伯父と共に裸馬を曳きながら、五六間後れて歩きだした。――左手は五メートル程の崖、右は百呎にあまる断崖で、下は深淵が魔のように白波を噛んでいる。
「いったい是は」
「叱ッ、黙って――」
平野氏に一言も云わせず、黙って行くこと凡そ二百メートル、道が左へ曲ると、その刹那だった。――左の崖の上へのしかかるように突出ていた天狗岩、五十貫はあろうと思われる巨岩が、突然ごうごうと崩壊した。
「あっ」
平野氏が絶叫する、それより疾く、落下した天狗岩は馬車を粉砕し、砂煙をあげ乍ら、狂い嘶く馬もろとも、断崖から海へと凄じい物音を立てながら墜落して行った。
ほんの一瞬の、そして実に驚くべき出来事だった。――夢でも見ているように茫然と立竦んでいる平野氏を、祐吉がつと崖下へ引寄せた。
「静かに、いま誰か降りて来ますよ」
「――――」
「騒がないで見ていて下さい」
囁いていると、やがて、崖の裂目を伝いながら、ずるずると道へ降りて来た者がある。見るとそれは種田京太郎だった。
「あ! 京太郎」
平野氏が我を忘れて叫んだ。と、その声に恟として振返る京太郎、そこに平野氏の姿を見るや、恐ろしい声で何やら喚きながら、踵を返して逃出そうとした。――同時に、
「待てッ」
叫びながら、飛鳥のように跳掛った祐吉、相手の頸筋へがんと一つ、唸りを生じて鉄拳がとぶ、京太郎はよろめいたが、
「うぬ、殺して呉れるぞ」
悪鬼のような形相で振返るや、逆に猛然と殴りかかって来た。祐吉はひっ外して相手の腕を肩へ、腰をおとして見事な一本背負だ。
「えイッ」
力任せに叩きつける。京太郎の体は地響うって崖縁へ落ちたが、岩地が脆くなっていたのであろう、ぐらり無気味に傾いたと思うと、京太郎の体を載せたまま、その一部がガラガラガラッと凄じく崩壊した。
「あっ」「ああーッ」
手を伸ばしたが間に合わなかった。――京太郎は馬車と運命を共にしたのである。平野氏と祐吉は暫く声もなく立竦んでいた。
恐るべき奸計はその最後の一歩前で曝かれた。
京太郎は善良を装いながら、実は最も不良な青年であった。彼はふしだらな生活で莫大な借金に責められ、伯父から金を引出して穴埋めをしようと、「火山岩を金にする発明」などという嘘をついたが、――平野氏がおいそれと金を出さぬと知って、遺産をめあてに平野氏殺害を思い立ったのである。
そこで、平野氏が例の道をよく馬車でドライブするのを利用し、天狗岩を落して馬車諸共粉砕しようと考え、石屋の源助に金をやって天狗岩の根元を削らせた――何と云って削らせたか、源助も京太郎も死んだ今となっては分らぬが、兎に角源助は一日五円という金に眼がくらんだのであろう。
――もう是以上は削れない。些っと押せば、それで危い!
死ぬ時に、妙な言を口走ったのは、つまり其事を云ったのである。
然し源助を生かして置いては奸計が曝れるので、「殺人鬼が潜入した」という騒ぎを利用し、自分の手で源助を殺したうえ、如何にも権六が殺害したように拵えたのである。そして万事手筈がととのうと、大倉山で殺人鬼を見た(是は無論嘘であった)と訴え、村人たちの注意を大倉山の方へ向けて置いて、平野氏を釣に誘い出したのである。
「柳の虫を獲るどころか、自分は裏山から先廻りをして天狗岩の処で馬車の来るのを待っていたんですよ」
「ああ――実に、実に恐ろしい奴だ」
平野氏は身震いをした。
「然し天罰ですね」
祐吉もしんみりと云った。
「自分のかけた罠、それと同じような結果に成って自分も死んだ……あの方が彼のためにも幸福でしょう」
「そうだ、儂の一族から殺人犯を出さずに済んだ事も有難い、おまえの探偵癖が、こんなに役に立つとは思わなかったぞ」
「しかし、遺産は要りませんよ」
祐吉は朗かに笑った。