『廃灯台の怪鳥』

あらすじ

『廃灯台の怪鳥』は、山本周五郎によるミステリー小説で、廃れた灯台を舞台にした一連の怪事件と、その背後に隠された衝撃の真実を描いています。

物語は、千葉県の外房海岸にある「不帰浜」と呼ばれる岩石峭立する荒磯の近く、小島に建つ廃灯台で開幕します。かつての発光室を改造した観測所で、海水中の微生物研究を行う宗方博士とその一行が、夜光虫の研究のために滞在しています。

ある夜、観測所で不寝番を務めていた助手の吉井が、何者かに襲われ重傷を負います。彼の頸には、まるで長い爪で引っかかれたような傷があり、その傷は壁に飾られた怪鳥の剥製の爪と奇妙に一致していました。さらに、その怪鳥の爪には新鮮な血が付着しているのです。この出来事は、過去に同じ灯台で起きた謎の死亡事件を彷彿とさせ、一行は恐怖に包まれます。

翌日、地元の村医である金森博士が急を知らせて駆けつけ、吉井の手当てを行います。彼は、灯台が廃止されたのも、過去に起きた同様の怪事件が原因だと語ります。

その話によると、二十年前に灯台に舞い込んだ怪鳥を射殺し、剥製にした看守が、その後、不可解な死を遂げたのです。そして、その後も灯台で働く者たちが次々と同じような死を遂げていました。

事件の真相を解明しようとする新田進は、灯台の周囲を捜査しますが、何も手がかりを見つけられません。しかし、彼は諦めず、ある夜、再び怪鳥が動き出すのを目撃します。新田は怪鳥に襲われ、喉に傷を負いますが、宗方博士と助手の北村によって救出されます。新田は、怪鳥の正体を突き止めるため、独自に調査を進めます。

新田の調査により、怪鳥の正体が明らかになります。それは、コカインの密輸を行っていた金森博士でした。彼は、気球を使って灯台に侵入し、怪鳥の仮装をして事件を起こしていたのです。

新田は、金森博士が落としたヘリウムガスの受取書を手がかりに、彼の犯行を突き止めます。そして、金森博士は最後の事件の夜、新田たちに追い詰められ、海に身を投げて自らの命を絶ちます。

『廃灯台の怪鳥』は、科学と伝説、現実と幻想が交錯する中で、人間の欲望と罪の重さを描き出す作品です。山本周五郎は、緻密なプロットと緊迫感あふれる展開で読者を魅了し、最後まで目が離せない物語を紡ぎ出しています。この小説は、ただのミステリーにとどまらず、人間の心理を深く掘り下げた文学作品としても高く評価されています。

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本文

見よその頸には怪鳥の爪痕が!

「きゃーッ」
遠くの方から、幾つかの反響を呼び起しつつ、かすかに長く人の叫び声が聞えて来た。
寝台ベッドよこたわったまま、枕卓子サイド・テーブルの上の洋灯ランプの光で雑誌を読んでいた桂子はぎょっとしながら頭をもたげた。――岸を噛む怒濤が悪魔のほえさけぶように、深夜の空にすさまじく轟いているほかは、ひっそりと寝鎮ねしずまった建物の中に、何の物音もしていない。
「変ねえ、いまたしかに人の声が……」
つぶやきかけた時、今度こそはっきりと、それも胸をえぐられるような怖ろしい声で、
「きゃーッ」とう悲鳴が聞えて来た。
遠い方から曲り曲って来た声だ。たしかに塔の上からである。桂子は慄然ぞっとしながら寝台ベッドをとび下りると、父の部屋へ馳せつけて力任せにドアを叩いた。
「お父さま、大変よ、お父さま」
「……どうしたんだ」
「起きて頂戴、早くッ」
寝衣ねまきの上へ寛衣ガウン引掛ひっかけながら、宗方博士むねかたはかせを先に、助手の新田進にったすすむ洋灯ランプを持ってとび出して来た。
「何だ、どうしたんだ」
「いま、上の方できゃあッて云う声がしたの、二度もしたのよ。何か変った事があったに違いないわ、見に行ってよ」
「そうか、かく行ってみよう」
即座に、洋灯ランプを持った新田を先頭に、博士と桂子の三人は階段の方へ馳せつけた。
此処ここは千葉県の外房海岸。俗に「不帰浜かえらずはま」という岩石峭立する荒磯から、二百ヤードほどはなれた小島にある廃灯台であった。――高さ百五十フィートの塔と二棟の附属建物は、既に使用されなくなってから二十年。ほとんど廃墟も同様になっていたのを、一週間ほど前から宗方博士一行が借受かりうけているのだ。
宗方博士は海水中の微生物研究では日本有数の権威者で今度この近海に発生した夜光虫の研究をするため、三人の助手と令嬢をれて移って来たのであった。――今宵は丁度ちょうど八日め、助手の一人吉井禎吉を不寝観測番に残して、みんな寝についてから三時間、午前一時少し過ぎた時にこの事件が起ったのである。
三人は殆ど息もつかずに螺旋階段を馳登かけのぼった。頂上はもとの発光室を改造した夜行虫観測所で、幾種類もの観測鏡や特殊の分光器などが備付そなえつけてある。――登って来た三人は、薄暗い洋灯ランプの光の下に、血まみれになって倒れている吉井助手の姿をみつけて、
「あっ!」と其処そこ立竦たちすくんだ。
しかし新田進はぐに走寄はしりより、うめいている吉井を抱起だきおこして傷口をしらべた。白い上衣うわぎの胸まで、絞るほどの血だ。傷は頸の両側にあり、奇怪な事には、それが三つずつ、まるで長い爪を突立つきたてたような形になっていた。――出血はひどいが生命いのちに別状はなさそうだ。新田は寛衣ガウンの裾を引裂ひきさいて手早く繃帯ほうたいをしながら、
「吉井、おい、しっかりしろ」
「…………」
「僕だ、先生もいらしってるぞ、吉井ッ」
耳許で叫ぶと、吉井はふっと眼をけたが、とたんに右手をあげて壁の一部をゆびさしながら、
「あ、あれ、あの鳥が……」
と怖ろしそうに、もつれる舌で云いかけたまま再びぐたりと気絶してしまった。
三人は指示さししめされた処を見やった。その壁の一部には、もう羽根もまばらになった怪鳥の剥製が飾付かざりつけてある。――左右に広げた翼はおよそ二米突メートルに余り、全身真黒な羽毛に包まれ、鷲のような鋭い爪のある両足をふみひらいている。これは博士たちが来た時すでに飾付けてあったもので、何十年となく年古としふりているし、一体なんの鳥なのか全く分らない。鷲でもなく鷹でもなく、云ってみれば前世紀の猛鳥という感じである。
「お、お父さま!」
桂子が突然叫んだ。
「あの鳥の爪に血が……」
「えっ※(感嘆符疑問符、1-8-78)
新田が洋灯ランプをさしつけた。見よ、怪鳥の爪が生々しく血にそまっているではないか、――三人は愕然として息をのんだ。
高さ百五十フィートの廃灯台の絶頂、塔の外側はなんの足懸りもない絶壁だ。内部はたった一本の螺旋階段、犯人の出入る隙は何処どこにもない。鼠の隠れる場所もない室内で人が殺されかかった。――壁に懸けられた怪鳥の爪は、吉井助手の頸の傷痕にぴったりと当篏あてはまる。しかもその爪は血まみれであった。……恐るべき怪事件の幕はどう展開するか?

えッ、それではこの灯台でもう四人も怪死したのか!

「大丈夫、命は取止とりとめます」
金森博士は手当を終って、ベランダの方へ出て来ながら云った。
あくる日の朝である。危急の知らせに時を移さず、地元の川名村からけつけて来た村医金森博士は、夜の明けるまで殆ど附切つききりで手当をしていたが、どうやら大丈夫と見極めがついたのであろう、みんなの待っている処へ大股に出て来た。
「本当に助かりましょうな」
「命だけは受合うけあいます。しかし……否、ずその珈琲コーヒーを一杯頂きましょうか。それから少し皆さんにお話があります」
桂子は手早く珈琲コーヒーぎ、なお数滴のウイスキイを加えて差出さしだした。――金森村医は煙草たばこに火をつけ、さも旨そうに珈琲コーヒーすすりながら、しばらく海の方を見やっていたが、
「吉井君はどうして怪我けがをしたのか、多分お分りではないと思うが、どうですか宗方さん」
「それなんです」
宗方博士は困惑を隠さずに云った。
「何しろ外側はあの通りなんの手掛りもない絶壁ですし、中は螺旋階段一本で、何処どこにも犯人の隠れる場所はありません。第一なんのために吉井を殺そうとしたのか、それからして想像もつかぬのです」
「恐らくそうだろうと思いました」
「え? ――そう思ったと仰有おっしゃるんですか」
「宗方さん」
金森村医は煙草の煙を見やりながら、
「私は同じ事件に逢っています。是は今度が初めてではない。この灯台が廃止されて野山岬の方へ移されたのも、つまりうした事件が原因をなして居るんです」
「お話の意味がよく分りません」
「つまり斯うなんです」
金森村医はいさしの煙草を投げて向直むきなおった。
「二十年ほど前のことです。或夜この灯台の灯を慕って一羽の名も知れぬ怪鳥が舞込まいこんで来ました。当時此処ここに田口という若い看守がいましたが、この男が怪鳥をみつけて拳銃ピストルで射殺し、剥製にして壁へ飾付けたのです」
「今もあるあの鳥ですね」
「そうです」
金森村医は暫く眼を閉じていたが、やがて低い声で続けた。
「不思議な事件はその夜から起りました。昨夜と同じように、その田口という男が発光室で喉を掻切かききられて死んでいたのです。犯人は何処どこからも忍込しのびこめません。傷口は、……吉井君のと寸分違わずです。然も、――死ぬ間際に田口は『あの鳥が』と云って、例の剥製の怪鳥をゆびさしました」
「そのとき鳥の爪に血が附いていはしませんでした?」
桂子が怖ろしそうに訊いた。
「附いていました。と云うより血みどろだったと云うべきでしょう。――警官が来て二週間あまりも捜査しましたが、結局……訳の分らぬ怪事件として打切うちきられてしまいました。ところが、それから間もなく、左様、ひと月も経った頃でしょうか、今度は灯台長の川村という老人が、全く同じような死方しにかたをしたのです」
「つまり、それも原因は分らずじまいなのですね」
「そうです、その後の二人も」
「…………」
四人も、四人も怪死したのか? 聴いていた宗方博士をはじめ、みんなさすがに顔色を変えたが、――新田進がふと金森村医を見ながら、
「そのお話をつづめると、剥製の怪鳥が動きだして人を殺す、と云う事になりそうですが、貴方あなたはそれをお信じになっているのですか」
「私は御覧の通り貧しい科学者で、試験管の中で実証される事実でない限り何物をも信じません。無論……剥製の鳥が化けて出るなどとという事も信じようとは思いません。然し、――一言みなさんに御忠告をします。どうか早くこの島をお立退き下さい」
そう云って金森村医は立上った。
「私は今度で五度まで同じ事件を見ました。この眼で見たのです。灯台も引移りました。貴方あなたがたも立退かれるのが安全です。――では是で失礼致します」
「――――」
金森村医はかばんを持って出て行った。
みんな黙ってその後姿を見送っていたが、新田進はふと金森村医の掛けていた椅子いすの下に、見慣れぬ紙片かみきれが落ちているのをみつけて、かがみながら拾上ひろいあげた。
「それなあに?」
「金森さんが落して行ったらしいです」
云いながら見ると、それはヘリウム瓦斯ガスの受取書であった。
「桂子、吉井を看ておやり」
宗方博士が椅子から立ちながら云った。
「私は仕事にかかる、今夜あたりから夜光虫は活溌に運動を始めるだろう、諸君も頑張ってれ給え、――私は怪鳥の伝説などは信じないつもりだ、諸君も頼む」

動き出した怪鳥、第二の事件起る

宗方博士の強い研究心に動かされて、新田進は深く心に決するところが有った。
――剥製の怪鳥が祟る、そんな馬鹿な事が有るはずはない、是には何か隠れた秘密があるんだ。おれはそれを突止めてやる――。
そう覚悟して、研究の合間をみては灯台の周囲を入念に捜査し始めた。――然し何物も発見されなかった。空かける翼でもない限り、百五十フィートの塔の外側を登る事は出来ない。またどんなに素早くやったところで、誰にも発見されずに螺旋階段を上下する事も出来ないのだ。
「分らん、こんな不思議な事は有得ありえない、話だけ聞いたら恐らく僕自身でも嘘だと思うだろう、然し事実犯罪は行われたのだ。人間一人が殺されかかったのだ。――あの頸の傷は剥製の怪鳥の爪と合うし、その爪は血まみれだった。つまり、つまりあの怪鳥が吉井を殺しかかったと考えるより他に、どうしても説明がつかない」
新田青年はついさじを投げた。
そして丁度一週間めの夜半、第二の事件が起ったのである。然も今度は新田進がその犠牲者であった。――その夜、観測当番に当った新田は、例の頂上の部屋に陣取って熱心に仕事を続けていた。
博士の言葉通り、夜光虫の活動は益々さかんになって、海面は見渡す限り、波の動きにしたがって明滅する蛍光で青白く輝き、観測鏡で覗くとさらにその濃淡強弱の交錯がまるで無数の宝玉の砕片を振撒ふりまくかの様に見える。――はじめのうちは、例の壁の怪鳥に気を取られ、時々そっと振返って見ていたが、遂にそれも忘れて、殆ど夢中で観測に没頭していた。
午前二時頃であったろう。少し前から吹きだした東風が次第に強くなって、遥か百五十フィート下の岩を噛む波の音が、深夜の空に凄じく咆え始めた。……すると全く不意に、ガタンと激しい音がして、歩廊プラット・ホームへ出るドアが開き、どっと吹込ふきこんで来た風にあおられて卓子テーブルの上の洋灯ランプが消えた。
「ひどい風だな」
覗いていた観測鏡をいてそう呟きながら振返った時、新田は電気に撃たれたように其処そこへ立竦んだ。……見よ、壁に懸けられた怪鳥が、翼をいっぱいに拡げながら今にも襲いかからん姿勢で、眼前二フィートの処に突立っているではないか。
「ギャアギャアギャア」
奇怪な叫声さけびごえと共に凄じい羽叩はばたきをする。
「あっ※(感嘆符二つ、1-8-75)
新田は椅子から跳上はねあがった。然しその時、怪鳥は両の翼で彼を押包おしつつみ、新田は喉へ冷たいものが鋭く掴みかかるのを感じたまま椅子と共にのけざまに顛倒てんとうした。
それからどのくらいの時間が経ったであろうか、ひどい渇きとはげしい頭痛を感じながら、ふっと眼を開いた新田は、直ぐ眼前めのまえに心配そうな三つの顔を見出した。宗方博士と、令嬢と、助手の北村である。……洋灯ランプの光も明るく、自分は寝台ベッドに寝かされているのだ。
――どうしたのだろう。
初めは夢を見ている気持だった。然し直ぐあの怖ろしい出来事を思出して慄然と息をのんだ。――博士は乗出のりだすようにしながら、
「どうだ、気がついたか」
「……先生!」
「もう大丈夫だよ、傷も大した事はない。虫が知らせたとでも云うのだろう。北村と一緒に様子を見に登って行ったのが間に合ったのだ。喉が痛むかね」
新田はそっと手をやってみた。頸が確りと繃帯で巻かれ、消毒剤のにおいが強く鼻をうつ、然しひどく頭痛がするだけで別に気分にかわりはなかった。
「ああ起きない方がいよ」
「大丈夫です」
新田は静かに半身を起して、
「済みませんが水を一杯下さい」
「あたしが持って来てあげるわ」
桂子が走るように行って、洋盃コップになみなみと水を汲んで来た。
「有難う」
新田がひと息に飲干のみほすのを見ながら、宗方博士は力抜けのした声で、
「吉井の傷も大分いようだから、明日は此処ここを引揚げるとしよう。科学が伝説に負けてしまった。残念だがこれ以上諸君を危険にさらす訳には行かん」
「僕は反対します、先生」
新田が静かに云った。
「どうして反対だ。現に君は怪鳥に襲われ、危く殺されかかったではないか」
「そうです。僕は怪鳥の動きだすのを見ました。恐ろしい叫び声も聞きました。襲いかかられて傷も受けました。いま思っても恐怖で体が竦みます……然し、然し僕には信じられない。こんな奇怪な事が有る筈はないと思います。僕は真実を突止めたいのです。たとえ僕一人でも踏止ふみとどまってやります」
新田は拳を固めて云った。

新田快青年の活躍、発見された白い粉

「よく云った、新田君!」
博士はつと新田の手を握りながら、
「私も立退くのは心外なのだ。こんな怪談めいた事件に負けて、折角せっかくの研究を中止するのは科学者として最大の恥辱だ。私も君と一緒に此処ここへ残ろう」
「あたしだって帰りはしないことよ」
「無論、僕もいます!」
桂子も北村も堅い決意を示しながら云った。――新田は微笑して、
「斯う気が揃えば何よりです。それでは少し眠りますからどうか皆さんもお引取り下さい。気分も直りましたから」
「そうか、では我々ももうひと眠りしよう」
そう云って博士たちは出て行った。
新田青年は再び寝台ベッドよこたわり、静かな気持で事件を考え直してみた。――幾ら考えても、然しそれは謎のまた謎である。
――たしかにあの怪鳥が立っていた。そして翼をひろげて跳掛とびかかって来た。奇怪な叫び声もはっきり耳に残っている。だが、二十年も前に射殺され剥製にされた物が動きだす筈はない。絶対に有得べからざる事だ。
新田青年はそっと起上おきあがった。
――し、先ずそれをたしかめてやろう!
彼は洋灯ランプを持ってそっと部屋を出た。
跫音あしおとを忍ばせながら螺旋階段を登って、観測室へ入った。壁には例の怪鳥がちゃんと懸っている。両翼は飾釘で壁へ確りと止められてあるし、踏ひらいた脚も真鍮ので堅く緊着しばりつけられている。
――例えこの怪鳥が祟るとしても、是では断じて壁からはなれる事は出来ない。
――とすると?
吉井を襲い、彼を襲った物は他にある筈だ。壁に懸けられた怪鳥の他に、彼等を襲ったもう一羽の怪鳥……。
――待てよ。
新田は椅子に掛けて考えた。
――あれは果して怪鳥だったろうか、風でドアが開いた、洋灯ランプが消えた、闇の中で両の翼を拡げたあの姿、たしかに壁の怪鳥と思ったが、今思うと……そうだ、そうだ、奴は床に立っていた。
新田は弾かれたように立上った。
彼は洋灯ランプを手に取って、仔細に床の上を検べ始めた。そして怪鳥の立っていたと思われる処から、小さな銭蘚苔ぜにごけかたまりが落ちているのをみつけた。彼は叮嚀ていねいにそれを拾って紙に包み、更に隈なく室内を検べた上、ドアを開けて歩廊プラット・ホームへ出た。既に東天は明け始めている――この島と五十米突メートルの間隔で左手に突出した岬には、松が一面に茂っていて、その樹間このまからあからみかかる東の空が絵のように見える。
「……おや!」
新田はふと立停まって足許を見た。歩廊プラット・ホームの板敷の上にまたしても銭蘚苔ぜにごけの小さいきれが落ちていたのだ。
彼は低く呻いた。何事か頭にひらめいて来たらしい。その眸子ひとみじっと、眼下に突出している岬のあたりをみつめ、右手の指は鉄の柵をせわしく叩きだした。――然しそれも暫くのことで、やがて身を翻えすと、元気な足取で螺旋階段を下へ降りて行った。
「謎は三つだ。銭蘚苔ぜにごけと、怪鳥と、それから――翼、空翔ける怪鳥の翼!」
そう呟きながら……。
朝食の後で新田は、傷の手当をしに行くと云って地元の村へ出掛けて行った。事実彼は村医金森博士を訪ね、傷の手当をして貰った。そのとき、博士は彼等がまだ立退かなかった事を怒り、ぐずぐずしていると博士も令嬢も怪鳥のために殺されてしまうぞと、自分の事のように熱心に忠告した。
金森村医の許を辞した新田は、何処どこでどう活躍したのか日暮れ近くになって島へ戻って来た。案じていた博士たちは、どうしたのかと色々いたが、新田はただ、
「もう二日ほど待って下さい」と答えるばかりだった。
「そうすれば、何もも説明します。ほんの二三日です」
その翌日も彼は村へ出掛けて行った。
――そして夕方近くに帰って来ると、今度は島の中を、まるで猟犬が獲物を追うように走り廻り、使わずにほうってある附属建物の中では三時間あまりも何かごそごそと捜査していた。
彼が夕食に戻ったのは午後八時を過ぎていた。すっかり元気になって、逞しい顔には微笑さえうかんでいる。
「どうした、何か発見したのか」
「大体の見当はつきました」
新田はにこりと笑って、
「先生、是を何だと思います」
そう云いながら、紙に包んだ白い粉を差出した。――博士は手に取って調べ、指のさきにつけて舐めたが、直ぐ吐出はきだしながら、
「コカインじゃないか」
「そうでしょう、僕もそう睨みました」
「どうしたのだ、こんな物を」
「向うの空家あきやの地下に貯蔵してあるのを発見したんです。つまり……是が怪鳥事件の原因なんです」

深夜二時、三人は怪鳥の出現を待った

それから五日めの深夜であった。
あの夜から毎晩、四人は螺旋階段にひそんで、怪鳥の現われるのを待伏まちぶせた。怪鳥は空から来る、新田はそう断言した。博士にも北村にも信じられなかったが、新田は確信ありげに繰返くりかえし断言した。
「だってそうでしょう」と彼は微笑しながら云うのだ。
「鳥が地面から這上はいあがる訳はありませんからね。それにしては少し高過ぎますよ」
「然し、本当に怪鳥が来るのか」
「来ます、必ず来るんです。もう直ぐ先生の眼でそれを御覧になれます」
新田は猟銃を持っていた。――観測室には北村が頑張っている。海面には相変らず夜光虫の活動がさかんで、夢のようにおぼろなその青白い光が、この場面を一層妖しいものにしていた。
五日めの、丁度午前二時頃であった。静かだった空に強い東風が吹きはじめると、
「先生、注意して下さい。この風が怪鳥の来る前触れです。僕がこの猟銃を射ったら、直ぐ観測室へ踏込んで下さい」
「――宜し」
「桂子さんは其処そこを動かずに」
そう云って、新田は小窓を開け、猟銃の先を空へ向けて身構えた。
深夜二時、夜光虫の輝く海に取囲まれた島、廃墟のような古灯台の絶頂で、殺人怪鳥の現われるのを待つ、この妖しくも奇怪な情景は忘れられぬものだった。――桂子はさすがに心弱い少女のこととて、次第に昂まる恐怖を抑えきれず、階段にかがんだまま身を震わせていた。
「先生、来ました」新田が云うと共に、
だあんッ――。
耳を聾する銃声、もう一発! 同時に観測室でばたんドアの開く音、それよりはやく、宗方博士は脱兎の如く其処そこへ踏込んで行った。――と其処そこには、怪鳥が二メートル余もある翼をひろげ、恐ろしい叫び声をあげながら北村に襲いかかろうとしている。博士は思わずあっと立竦んだが、直ぐに右手の拳銃ピストルをあげて、
がん
と一発狙撃した。
「射ってはいけません」
喚きながら新田が馳せつける。
その刹那……怪鳥は身を翻えして、開いているドアから外へとび出した。
「逃がすな、早く捉えろ※(感嘆符二つ、1-8-75)
叫びながら三人が追って出る。
とたんに怪鳥は、鉄柵を乗越え、飛礫つぶてのように海上めがけて身を投じた。
ひイ――という無気味な声が、遥かに遥かに下へ消えるのを、三人は茫然として聞いた。
「残念でした……是れで万事終りです」
新田が嘆息するように云った。
「罪はその出たところへ返りました。行って死体の始末をしてあげましょう――金森博士の死体を」
「なに金森博士※(感嘆符疑問符、1-8-78)
「そうです、怪鳥の正体は金森医師です」
「なんのためだ? 信じられん」
宗方博士は不審な面持おももちで新田をみつめた。
「金森博士はコカインの密輸出をやっていたのです。この島が貯蔵所でした。それで我々を此処ここから立退かせるために、こんな怪談を仕組んだのです。――現場を押えて改心を勧めようと思ったのですが、矢張やはり博士としては生きていられなかったのでしょう」
「だが、どうしてこの高い場所へ来ることが出来たのか」
「怪鳥は空から来ると申上げました」
新田は静かに説明した。
「博士は空から来たのです」
「――分らん」
「吉井君の手当をしに来た時、博士は落物おとしものをして行きました。それはヘリウム瓦斯ガスの受取書でした。なんのためにヘリウム瓦斯ガスが必要でしょう? 気球バルーンなのです。気球バルーンを使ったのです」
みんなは意外な真相にあっと目をみはった。
「怪鳥の去った後に、銭蘚苔ぜにごけの細片が落ちていました。僕はそれを中心に捜査を進めたのです。そしてあの岬の松林の中に、同じ蘚苔こけと、人の足跡をみつけました。博士は其処そこ気球バルーン瓦斯ガスを詰め、怪鳥の仮装をしたうえ、強い東風を待って灯台へやって来たのです。――さっき僕が猟銃で射ったのはその気球バルーンでした。博士はそれを知って、遂に自殺を敢行したのです」
「ではあの吉井の傷は」
「博士の死体を検べてみましょう、恐らく両手にこしらえ爪を嵌めているでしょうから。……ただ警察へは知れぬように心配してあげましょう。悪事は悪事として、博士も医者としては一流の人物でした」
三人は黙祷するように頭を垂れた。――哀れ己の罪に死んだ金森博士。その死体をのんだ海は、夜光虫の青白い光を輝かせながら、弔うもののようにとうとうと岩を噛んでいた。