『廃灯台の怪鳥』
あらすじ
『廃灯台の怪鳥』は、山本周五郎によるミステリー小説で、廃れた灯台を舞台にした一連の怪事件と、その背後に隠された衝撃の真実を描いています。
物語は、千葉県の外房海岸にある「不帰浜」と呼ばれる岩石峭立する荒磯の近く、小島に建つ廃灯台で開幕します。かつての発光室を改造した観測所で、海水中の微生物研究を行う宗方博士とその一行が、夜光虫の研究のために滞在しています。
ある夜、観測所で不寝番を務めていた助手の吉井が、何者かに襲われ重傷を負います。彼の頸には、まるで長い爪で引っかかれたような傷があり、その傷は壁に飾られた怪鳥の剥製の爪と奇妙に一致していました。さらに、その怪鳥の爪には新鮮な血が付着しているのです。この出来事は、過去に同じ灯台で起きた謎の死亡事件を彷彿とさせ、一行は恐怖に包まれます。
翌日、地元の村医である金森博士が急を知らせて駆けつけ、吉井の手当てを行います。彼は、灯台が廃止されたのも、過去に起きた同様の怪事件が原因だと語ります。
その話によると、二十年前に灯台に舞い込んだ怪鳥を射殺し、剥製にした看守が、その後、不可解な死を遂げたのです。そして、その後も灯台で働く者たちが次々と同じような死を遂げていました。
事件の真相を解明しようとする新田進は、灯台の周囲を捜査しますが、何も手がかりを見つけられません。しかし、彼は諦めず、ある夜、再び怪鳥が動き出すのを目撃します。新田は怪鳥に襲われ、喉に傷を負いますが、宗方博士と助手の北村によって救出されます。新田は、怪鳥の正体を突き止めるため、独自に調査を進めます。
新田の調査により、怪鳥の正体が明らかになります。それは、コカインの密輸を行っていた金森博士でした。彼は、気球を使って灯台に侵入し、怪鳥の仮装をして事件を起こしていたのです。
新田は、金森博士が落としたヘリウムガスの受取書を手がかりに、彼の犯行を突き止めます。そして、金森博士は最後の事件の夜、新田たちに追い詰められ、海に身を投げて自らの命を絶ちます。
『廃灯台の怪鳥』は、科学と伝説、現実と幻想が交錯する中で、人間の欲望と罪の重さを描き出す作品です。山本周五郎は、緻密なプロットと緊迫感あふれる展開で読者を魅了し、最後まで目が離せない物語を紡ぎ出しています。この小説は、ただのミステリーにとどまらず、人間の心理を深く掘り下げた文学作品としても高く評価されています。
書籍
朗読
本文
「きゃーッ」
遠くの方から、幾つかの反響を呼び起しつつ、微かに長く人の叫び声が聞えて来た。
寝台に横わったまま、枕卓子の上の洋灯の光で雑誌を読んでいた桂子は恟としながら頭を擡げた。――岸を噛む怒濤が悪魔の咆叫ぶように、深夜の空に凄じく轟いているほかは、ひっそりと寝鎮った建物の中に、何の物音もしていない。
「変ねえ、いま慥かに人の声が……」
呟きかけた時、今度こそ確きりと、それも胸を抉られるような怖ろしい声で、
「きゃーッ」と云う悲鳴が聞えて来た。
遠い方から曲り曲って来た声だ。慥に塔の上からである。桂子は慄然としながら寝台をとび下りると、父の部屋へ馳せつけて力任せに扉を叩いた。
「お父さま、大変よ、お父さま」
「……どうしたんだ」
「起きて頂戴、早くッ」
寝衣の上へ寛衣を引掛けながら、宗方博士を先に、助手の新田進も洋灯を持ってとび出して来た。
「何だ、どうしたんだ」
「いま、上の方できゃあッて云う声がしたの、二度もしたのよ。何か変った事があったに違いないわ、見に行ってよ」
「そうか、兎に角行ってみよう」
即座に、洋灯を持った新田を先頭に、博士と桂子の三人は階段の方へ馳せつけた。
此処は千葉県の外房海岸。俗に「不帰浜」という岩石峭立する荒磯から、二百ヤードほど距れた小島にある廃灯台であった。――高さ百五十呎の塔と二棟の附属建物は、既に使用されなくなってから二十年。殆ど廃墟も同様になっていたのを、一週間ほど前から宗方博士一行が借受けているのだ。
宗方博士は海水中の微生物研究では日本有数の権威者で今度この近海に発生した夜光虫の研究をするため、三人の助手と令嬢を伴れて移って来たのであった。――今宵は丁度八日め、助手の一人吉井禎吉を不寝観測番に残して、みんな寝についてから三時間、午前一時少し過ぎた時にこの事件が起ったのである。
三人は殆ど息もつかずに螺旋階段を馳登った。頂上は旧の発光室を改造した夜行虫観測所で、幾種類もの観測鏡や特殊の分光器などが備付けてある。――登って来た三人は、薄暗い洋灯の光の下に、血まみれになって倒れている吉井助手の姿をみつけて、
「あっ!」と其処へ立竦んだ。
しかし新田進は直ぐに走寄り、呻いている吉井を抱起して傷口を検べた。白い上衣の胸まで、絞るほどの血だ。傷は頸の両側にあり、奇怪な事には、それが三つ宛、まるで長い爪を突立てたような形になっていた。――出血はひどいが生命に別状はなさ相だ。新田は寛衣の裾を引裂いて手早く繃帯をしながら、
「吉井、おい、確りしろ」
「…………」
「僕だ、先生もいらしってるぞ、吉井ッ」
耳許で叫ぶと、吉井はふっと眼を明けたが、とたんに右手をあげて壁の一部を指しながら、
「あ、あれ、あの鳥が……」
と怖ろしそうに、もつれる舌で云いかけたまま再びぐたりと気絶して了った。
三人は指示された処を見やった。その壁の一部には、もう羽根もまばらになった怪鳥の剥製が飾付けてある。――左右に広げた翼は凡そ二米突に余り、全身真黒な羽毛に包まれ、鷲のような鋭い爪のある両足を踏ひらいている。是は博士たちが来た時すでに飾付けてあったもので、何十年となく年古りているし、一体なんの鳥なのか全く分らない。鷲でもなく鷹でもなく、云ってみれば前世紀の猛鳥という感じである。
「お、お父さま!」
桂子が突然叫んだ。
「あの鳥の爪に血が……」
「えっ」
新田が洋灯をさしつけた。見よ、怪鳥の爪が生々しく血に染っているではないか、――三人は愕然として息をのんだ。
高さ百五十呎の廃灯台の絶頂、塔の外側はなんの足懸りもない絶壁だ。内部はたった一本の螺旋階段、犯人の出入る隙は何処にもない。鼠の隠れる場所もない室内で人が殺されかかった。――壁に懸けられた怪鳥の爪は、吉井助手の頸の傷痕にぴったりと当篏る。然もその爪は血まみれであった。……恐るべき怪事件の幕はどう展開するか?
「大丈夫、命は取止めます」
金森博士は手当を終って、ベランダの方へ出て来ながら云った。
翌る日の朝である。危急の知らせに時を移さず、地元の川名村から馳けつけて来た村医金森博士は、夜の明けるまで殆ど附切で手当をしていたが、どうやら大丈夫と見極めがついたのであろう、みんなの待っている処へ大股に出て来た。
「本当に助かりましょうな」
「命だけは受合います。然し……否、先ずその珈琲を一杯頂きましょうか。それから少し皆さんにお話があります」
桂子は手早く珈琲を注ぎ、尚数滴のウイスキイを加えて差出した。――金森村医は煙草に火をつけ、さも旨そうに珈琲を啜りながら、暫く海の方を見やっていたが、
「吉井君はどうして怪我をしたのか、多分お分りではないと思うが、どうですか宗方さん」
「それなんです」
宗方博士は困惑を隠さずに云った。
「何しろ外側はあの通りなんの手掛りもない絶壁ですし、中は螺旋階段一本で、何処にも犯人の隠れる場所はありません。第一なんのために吉井を殺そうとしたのか、それからして想像もつかぬのです」
「恐らくそうだろうと思いました」
「え? ――そう思ったと仰有るんですか」
「宗方さん」
金森村医は煙草の煙を見やりながら、
「私は同じ事件に逢っています。是は今度が初めてではない。この灯台が廃止されて野山岬の方へ移されたのも、つまり斯うした事件が原因をなして居るんです」
「お話の意味がよく分りません」
「つまり斯うなんです」
金森村医は喫いさしの煙草を投げて向直った。
「二十年ほど前のことです。或夜この灯台の灯を慕って一羽の名も知れぬ怪鳥が舞込んで来ました。当時此処に田口という若い看守がいましたが、この男が怪鳥をみつけて拳銃で射殺し、剥製にして壁へ飾付けたのです」
「今もあるあの鳥ですね」
「そうです」
金森村医は暫く眼を閉じていたが、やがて低い声で続けた。
「不思議な事件はその夜から起りました。昨夜と同じように、その田口という男が発光室で喉を掻切られて死んでいたのです。犯人は何処からも忍込めません。傷口は、……吉井君のと寸分違わずです。然も、――死ぬ間際に田口は『あの鳥が』と云って、例の剥製の怪鳥を指しました」
「そのとき鳥の爪に血が附いていはしませんでした?」
桂子が怖ろしそうに訊いた。
「附いていました。と云うより血みどろだったと云うべきでしょう。――警官が来て二週間あまりも捜査しましたが、結局……訳の分らぬ怪事件として打切られて了いました。ところが、それから間もなく、左様、ひと月も経った頃でしょうか、今度は灯台長の川村という老人が、全く同じような死方をしたのです」
「つまり、それも原因は分らず了いなのですね」
「そうです、その後の二人も」
「…………」
四人も、四人も怪死したのか? 聴いていた宗方博士をはじめ、みんな遉に顔色を変えたが、――新田進がふと金森村医を見ながら、
「そのお話をつづめると、剥製の怪鳥が動きだして人を殺す、と云う事になりそうですが、貴方はそれをお信じになっているのですか」
「私は御覧の通り貧しい科学者で、試験管の中で実証される事実でない限り何物をも信じません。無論……剥製の鳥が化けて出るなどとという事も信じようとは思いません。然し、――一言みなさんに御忠告をします。どうか早くこの島をお立退き下さい」
そう云って金森村医は立上った。
「私は今度で五度まで同じ事件を見ました。この眼で見たのです。灯台も引移りました。貴方がたも立退かれるのが安全です。――では是で失礼致します」
「――――」
金森村医は鞄を持って出て行った。
みんな黙ってその後姿を見送っていたが、新田進はふと金森村医の掛けていた椅子の下に、見慣れぬ紙片が落ちているのをみつけて、跼みながら拾上げた。
「それなあに?」
「金森さんが落して行ったらしいです」
云いながら見ると、それはヘリウム瓦斯の受取書であった。
「桂子、吉井を看ておやり」
宗方博士が椅子から立ちながら云った。
「私は仕事にかかる、今夜あたりから夜光虫は活溌に運動を始めるだろう、諸君も頑張って呉れ給え、――私は怪鳥の伝説などは信じない積だ、諸君も頼む」
宗方博士の強い研究心に動かされて、新田進は深く心に決するところが有った。
――剥製の怪鳥が祟る、そんな馬鹿な事が有る筈はない、是には何か隠れた秘密があるんだ。己はそれを突止めてやる――。
そう覚悟して、研究の合間をみては灯台の周囲を入念に捜査し始めた。――然し何物も発見されなかった。空翔る翼でもない限り、百五十呎の塔の外側を登る事は出来ない。またどんなに素早くやったところで、誰にも発見されずに螺旋階段を上下する事も出来ないのだ。
「分らん、こんな不思議な事は有得ない、話だけ聞いたら恐らく僕自身でも嘘だと思うだろう、然し事実犯罪は行われたのだ。人間一人が殺されかかったのだ。――あの頸の傷は剥製の怪鳥の爪と合うし、その爪は血まみれだった。つまり、つまりあの怪鳥が吉井を殺しかかったと考えるより他に、どうしても説明がつかない」
新田青年は遂に匙を投げた。
そして丁度一週間めの夜半、第二の事件が起ったのである。然も今度は新田進がその犠牲者であった。――其夜、観測当番に当った新田は、例の頂上の部屋に陣取って熱心に仕事を続けていた。
博士の言葉通り、夜光虫の活動は益々旺んになって、海面は見渡す限り、波の動きに順って明滅する蛍光で青白く輝き、観測鏡で覗くと更にその濃淡強弱の交錯がまるで無数の宝玉の砕片を振撒くかの様に見える。――初のうちは、例の壁の怪鳥に気を取られ、時々そっと振返って見ていたが、遂にそれも忘れて、殆ど夢中で観測に没頭していた。
午前二時頃であったろう。少し前から吹きだした東風が次第に強くなって、遥か百五十呎下の岩を噛む波の音が、深夜の空に凄じく咆え始めた。……すると全く不意に、ガタンと激しい音がして、歩廊へ出る扉が開き、どっと吹込んで来た風に煽られて卓子の上の洋灯が消えた。
「ひどい風だな」
覗いていた観測鏡を措いてそう呟きながら振返った時、新田は電気に撃たれたように其処へ立竦んだ。……見よ、壁に懸けられた怪鳥が、翼をいっぱいに拡げながら今にも襲いかからん姿勢で、眼前二呎の処に突立っているではないか。
「ギャアギャアギャア」
奇怪な叫声と共に凄じい羽叩きをする。
「あっ」
新田は椅子から跳上った。然しその時、怪鳥は両の翼で彼を押包み、新田は喉へ冷たいものが鋭く掴みかかるのを感じたまま椅子と共に反ざまに顛倒した。
それからどのくらいの時間が経ったであろうか、ひどい渇きと烈い頭痛を感じながら、ふっと眼を開いた新田は、直ぐ眼前に心配そうな三つの顔を見出した。宗方博士と、令嬢と、助手の北村である。……洋灯の光も明るく、自分は寝台に寝かされているのだ。
――どうしたのだろう。
初めは夢を見ている気持だった。然し直ぐあの怖ろしい出来事を思出して慄然と息をのんだ。――博士は乗出すようにしながら、
「どうだ、気がついたか」
「……先生!」
「もう大丈夫だよ、傷も大した事はない。虫が知らせたとでも云うのだろう。北村と一緒に様子を見に登って行ったのが間に合ったのだ。喉が痛むかね」
新田はそっと手をやってみた。頸が確りと繃帯で巻かれ、消毒剤の匂が強く鼻をうつ、然しひどく頭痛がするだけで別に気分に変はなかった。
「ああ起きない方が宜いよ」
「大丈夫です」
新田は静かに半身を起して、
「済みませんが水を一杯下さい」
「あたしが持って来てあげるわ」
桂子が走るように行って、洋盃になみなみと水を汲んで来た。
「有難う」
新田がひと息に飲干すのを見ながら、宗方博士は力抜けのした声で、
「吉井の傷も大分好いようだから、明日は此処を引揚げるとしよう。科学が伝説に負けて了った。残念だがこれ以上諸君を危険に曝す訳には行かん」
「僕は反対します、先生」
新田が静かに云った。
「どうして反対だ。現に君は怪鳥に襲われ、危く殺されかかったではないか」
「そうです。僕は怪鳥の動きだすのを見ました。恐ろしい叫び声も聞きました。襲いかかられて傷も受けました。いま思っても恐怖で体が竦みます……然し、然し僕には信じられない。こんな奇怪な事が有る筈はないと思います。僕は真実を突止めたいのです。例え僕一人でも踏止ってやります」
新田は拳を固めて云った。
「よく云った、新田君!」
博士はつと新田の手を握りながら、
「私も立退くのは心外なのだ。こんな怪談めいた事件に負けて、折角の研究を中止するのは科学者として最大の恥辱だ。私も君と一緒に此処へ残ろう」
「あたしだって帰りはしないことよ」
「無論、僕もいます!」
桂子も北村も堅い決意を示しながら云った。――新田は微笑して、
「斯う気が揃えば何よりです。それでは少し眠りますからどうか皆さんもお引取り下さい。気分も直りましたから」
「そうか、では我々ももうひと眠りしよう」
そう云って博士たちは出て行った。
新田青年は再び寝台に横わり、静かな気持で事件を考え直してみた。――幾ら考えても、然しそれは謎のまた謎である。
――慥にあの怪鳥が立っていた。そして翼をひろげて跳掛って来た。奇怪な叫び声もはっきり耳に残っている。だが、二十年も前に射殺され剥製にされた物が動きだす筈はない。絶対に有得べからざる事だ。
新田青年はそっと起上った。
――宜し、先ずそれを慥めてやろう!
彼は洋灯を持ってそっと部屋を出た。
跫音を忍ばせながら螺旋階段を登って、観測室へ入った。壁には例の怪鳥がちゃんと懸っている。両翼は飾釘で壁へ確りと止められてあるし、踏ひらいた脚も真鍮の環で堅く緊着けられている。
――例えこの怪鳥が祟るとしても、是では断じて壁から放れる事は出来ない。
――とすると?
吉井を襲い、彼を襲った物は他にある筈だ。壁に懸けられた怪鳥の他に、彼等を襲ったもう一羽の怪鳥……。
――待てよ。
新田は椅子に掛けて考えた。
――あれは果して怪鳥だったろうか、風で扉が開いた、洋灯が消えた、闇の中で両の翼を拡げたあの姿、慥に壁の怪鳥と思ったが、今思うと……そうだ、そうだ、奴は床に立っていた。
新田は弾かれたように立上った。
彼は洋灯を手に取って、仔細に床の上を検べ始めた。そして怪鳥の立っていたと思われる処から、小さな銭蘚苔の固りが落ちているのをみつけた。彼は叮嚀にそれを拾って紙に包み、更に隈なく室内を検べた上、扉を開けて歩廊へ出た。既に東天は明け始めている――この島と五十米突の間隔で左手に突出した岬には、松が一面に茂っていて、その樹間から紅らみかかる東の空が絵のように見える。
「……おや!」
新田はふと立停まって足許を見た。歩廊の板敷の上にまたしても銭蘚苔の小さい片が落ちていたのだ。
彼は低く呻いた。何事か頭に閃めいて来たらしい。その眸子は昵と、眼下に突出している岬のあたりを覓め、右手の指は鉄の柵を急しく叩きだした。――然しそれも暫くのことで、やがて身を翻えすと、元気な足取で螺旋階段を下へ降りて行った。
「謎は三つだ。銭蘚苔と、怪鳥と、それから――翼、空翔ける怪鳥の翼!」
そう呟きながら……。
朝食の後で新田は、傷の手当をしに行くと云って地元の村へ出掛けて行った。事実彼は村医金森博士を訪ね、傷の手当をして貰った。そのとき、博士は彼等がまだ立退かなかった事を怒り、ぐずぐずしていると博士も令嬢も怪鳥のために殺されて了うぞと、自分の事のように熱心に忠告した。
金森村医の許を辞した新田は、何処でどう活躍したのか日暮れ近くになって島へ戻って来た。案じていた博士たちは、どうしたのかと色々訊いたが、新田はただ、
「もう二日ほど待って下さい」と答える許だった。
「そうすれば、何も彼も説明します。ほんの二三日です」
その翌日も彼は村へ出掛けて行った。
――そして夕方近くに帰って来ると、今度は島の中を、まるで猟犬が獲物を追うように走り廻り、使わずに抛ってある附属建物の中では三時間あまりも何かごそごそと捜査していた。
彼が夕食に戻ったのは午後八時を過ぎていた。すっかり元気になって、逞しい顔には微笑さえ浮んでいる。
「どうした、何か発見したのか」
「大体の見当はつきました」
新田はにこりと笑って、
「先生、是を何だと思います」
そう云いながら、紙に包んだ白い粉を差出した。――博士は手に取って調べ、指の尖につけて舐めたが、直ぐ吐出しながら、
「コカインじゃないか」
「そうでしょう、僕もそう睨みました」
「どうしたのだ、こんな物を」
「向うの空家の地下に貯蔵してあるのを発見したんです。つまり……是が怪鳥事件の原因なんです」
それから五日めの深夜であった。
あの夜から毎晩、四人は螺旋階段にひそんで、怪鳥の現われるのを待伏せた。怪鳥は空から来る、新田はそう断言した。博士にも北村にも信じられなかったが、新田は確信ありげに繰返し断言した。
「だってそうでしょう」と彼は微笑しながら云うのだ。
「鳥が地面から這上る訳はありませんからね。それにしては少し高過ぎますよ」
「然し、本当に怪鳥が来るのか」
「来ます、必ず来るんです。もう直ぐ先生の眼でそれを御覧になれます」
新田は猟銃を持っていた。――観測室には北村が頑張っている。海面には相変らず夜光虫の活動が旺んで、夢のようにおぼろなその青白い光が、この場面を一層妖しいものにしていた。
五日めの、丁度午前二時頃であった。静かだった空に強い東風が吹きはじめると、
「先生、注意して下さい。この風が怪鳥の来る前触れです。僕がこの猟銃を射ったら、直ぐ観測室へ踏込んで下さい」
「――宜し」
「桂子さんは其処を動かずに」
そう云って、新田は小窓を開け、猟銃の先を空へ向けて身構えた。
深夜二時、夜光虫の輝く海に取囲まれた島、廃墟のような古灯台の絶頂で、殺人怪鳥の現われるのを待つ、この妖しくも奇怪な情景は忘れられぬものだった。――桂子は遉に心弱い少女のこととて、次第に昂まる恐怖を抑えきれず、階段に跼んだまま身を震わせていた。
「先生、来ました」新田が云うと共に、
だあんッ――。
耳を聾する銃声、もう一発! 同時に観測室でばたんと扉の開く音、それより疾く、宗方博士は脱兎の如く其処へ踏込んで行った。――と其処には、怪鳥が二米余もある翼をひろげ、恐ろしい叫び声をあげながら北村に襲いかかろうとしている。博士は思わずあっと立竦んだが、直ぐに右手の拳銃をあげて、
がん!
と一発狙撃した。
「射ってはいけません」
喚きながら新田が馳せつける。
その刹那……怪鳥は身を翻えして、開いている扉から外へとび出した。
「逃がすな、早く捉えろ」
叫びながら三人が追って出る。
とたんに怪鳥は、鉄柵を乗越え、飛礫のように海上めがけて身を投じた。
ひイ――という無気味な声が、遥かに遥かに下へ消えるのを、三人は茫然として聞いた。
「残念でした……是れで万事終りです」
新田が嘆息するように云った。
「罪はその出たところへ返りました。行って死体の始末をしてあげましょう――金森博士の死体を」
「なに金森博士」
「そうです、怪鳥の正体は金森医師です」
「なんのためだ? 信じられん」
宗方博士は不審な面持で新田を覓めた。
「金森博士はコカインの密輸出をやっていたのです。この島が貯蔵所でした。それで我々を此処から立退かせるために、こんな怪談を仕組んだのです。――現場を押えて改心を勧めようと思ったのですが、矢張り博士としては生きていられなかったのでしょう」
「だが、どうしてこの高い場所へ来ることが出来たのか」
「怪鳥は空から来ると申上げました」
新田は静かに説明した。
「博士は空から来たのです」
「――分らん」
「吉井君の手当をしに来た時、博士は落物をして行きました。それはヘリウム瓦斯の受取書でした。なんのためにヘリウム瓦斯が必要でしょう? 気球なのです。気球を使ったのです」
みんなは意外な真相にあっと目を瞠った。
「怪鳥の去った後に、銭蘚苔の細片が落ちていました。僕はそれを中心に捜査を進めたのです。そしてあの岬の松林の中に、同じ蘚苔と、人の足跡をみつけました。博士は其処で気球に瓦斯を詰め、怪鳥の仮装をしたうえ、強い東風を待って灯台へやって来たのです。――さっき僕が猟銃で射ったのはその気球でした。博士はそれを知って、遂に自殺を敢行したのです」
「ではあの吉井の傷は」
「博士の死体を検べてみましょう、恐らく両手に拵え爪を嵌めているでしょうから。……ただ警察へは知れぬように心配してあげましょう。悪事は悪事として、博士も医者としては一流の人物でした」
三人は黙祷するように頭を垂れた。――哀れ己の罪に死んだ金森博士。その死体をのんだ海は、夜光虫の青白い光を輝かせながら、弔うもののようにとうとうと岩を噛んでいた。