『日本婦道記 箭竹』

箭竹 山本周五郎

あらすじ

山本周五郎の『日本婦道記 箭竹』は、封建時代の日本を舞台に、一人の女性の生涯と彼女の息子の成長を描いた物語です。主人公のみよは、夫・茅野百記の死後、苦難の中で息子・安之助を育て上げます。夫は、不運な出来事により、勤め先の久能山で刃傷沙汰を起こし、名誉を守るため切腹を選びます。みよは夫の遺志を継ぎ、息子を立派な武士にするために、自らの手で箭竹を作り、生計を立てます。

物語は、みよが夫の死を知らされる場面から始まります。夫の死後、みよは遺族に対する厳しい処分を受け、故郷を追われます。彼女は息子を背負い、実家がある美濃へと旅立ちます。しかし、そこではなく、夫が仕えた水野家の土地で生きることを選び、辛い生活を始めます。みよは、夫の名誉を清算し、息子を武士として育てるために、日々の労働に耐えます。

みよは、箭竹を作る仕事に従事し、その中で「大願」という文字を箭に刻みます。この行為は、息子の将来への願いと、夫の名誉を清算するための祈りを込めたものでした。彼女の作った箭は、その品質の高さから、将軍家に献上されることになります。一方、安之助は成長し、武士としての修業に励みますが、母の苦労を知り、自らも働きたいと申し出ます。しかし、みよは息子に武士としての道を歩むよう諭し、自らの役目を果たすことを決意します。

物語は、みよの献身的な努力が報われる場面でクライマックスを迎えます。彼女の作った箭が将軍家に届き、その中の一本が将軍・家綱の手に渡ります。家綱は箭の品質の高さに感銘を受け、箭に刻まれた「大願」という文字に興味を持ちます。このことがきっかけとなり、水野家の当主・忠善は、箭竹の出所を調べ、みよの物語を知ることになります。

忠善は、みよの忠誠と献身に深く感動し、彼女と息子の苦労を知った上で、安之助に父の跡目を継がせることを決定します。みよの長年の願いが叶い、息子は武士としての地位を得ることができました。しかし、みよは息子に対し、これが終わりではなく始まりであると語り、さらなる努力を促します。

『日本婦道記 箭竹』は、母の無償の愛と献身、そして息子の成長と武士としての責任を描いた感動的な物語です。山本周五郎は、この作品を通じて、封建社会の厳しさと、人間の強さと優しさを見事に表現しています。読者は、みよの生き様と、彼女の息子への深い愛情に心を打たれることでしょう。

書籍

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本文

矢はまっすぐに飛んだ、晩秋のよく晴れた日の午後で、空気は結晶体のようにきびしく澄みとおっている、矢はそのなかを、まるで光の糸を張ったように飛び、※(「土へん+朶」、第3水準1-15-42)あずちのあたりで小さな点になったとみると、こころよい音をたてて的につき立った。――やはりあの矢だ。家綱いえつなはそううなずきながら、的につき立った矢をしばらく見まもっていたが、やがて脇につくばっている扈従こしょうにふりかえって、
「そこにある矢をみなとってみせい」
といった、扈従の者が矢立に残っているのをすべて取ってさしだした。四本あった。かれはその筈巻はずまきの下にあたるところを一本ずつ丁寧にしらべてみた、すると、はたしてそのなかにも一本あった、筈巻の下のところに「大願」という二字が、ごく小さく銘のように彫りつけてある。いま射た矢にもそれがあった、去年あたりからときどきその矢にあたる、はじめは気づかなかったが、持ったときの重さや、弦をはなれるときの具合や、いかにもこころよい飛びざまなど、いろいろなよい条件がそろっているので、ああまたこの矢かと思いあたるようになった。矢にもずいぶん癖のあるものだが、それほどはっきりとしょうのそろったものはめずらしい、それでよく注意してみると、思いあたる矢にはきまったように「大願」という文字が彫りつけてあるのだった。
「たずねることがある、丹後たんごをよんでまいれ、西尾にしお丹後だ」
そう云って家綱は床几しょうぎにかけた。扈従のひとりが走っていった。
御弓矢槍奉行おゆみややりぶぎょう丹後守忠長たんごのかみただながはすぐに伺候した。家綱はまだ十九歳であるが、三代家光いえみつ濶達かったつな気性をうけてうまれ、父に似てなかなか峻厳しゅんげんなところがおおかった。弓矢奉行などがじかに呼びつけられる例はまれなことなので、丹後守は叱責しっせきされるものと思ったのであろう、平伏した額のあたりは紙のように白かった。
「ゆるす、近う」
二度まで促されて膝行しっこうする丹後守に、家綱は持っていた一本の矢をわたした。
「その筈巻のすぐ下のところをみい、なにやら銘のような文字が彫ってある」
「はっ……」
「読めたか」
「はっ、仰せのごとく大願と彫りつけてあるかに覚えます」
「一年ほどまえより折おりにその矢をみる、どこから出たものか、いかなる者の作か、とりただしてまいれ」
「恐れながら」
丹後守は平伏して云った。
「御上意の旨は御不興にございましょうや、もしさようなれば御道具吟味の役目として丹後いかようにもおびをつかまつります」
「いやそのほうは申付けたとおりにすればよい、なるべく早く致せ」
丹後守はその矢を持ってさがった。
将軍の御用の矢は、諸国の大名たちから献上されるものを精選し、もっともよい作だけをすすめることは云うまでもない、丹後守はみずから御蔵へいって、献上別になっている矢箱を念いりにしらべはじめた。ずいぶんの数だからそう早急にはわからなかった。それでしたやくの者にも手伝わしたが、三日めになってようやく問題の品のはいっている矢箱がみつかった。それは三河みかわのくに岡崎の水野けんもつ忠善ただよしから献納されたものであった。わくめて十本ずつ十重ねになっている箱が五つある。つまり五百本あるわけだが、そのなかから「大願」という文字を彫りつけた矢が五十本あまり出てきた。
丹後守はその矢を持って水野家をおとずれた。けんもつ忠善もひじょうにおどろいた。大願とはなにを祈念するのか分らないけれど、将軍の手に触れるものだけに、そのような品を気付かないで献上したことは重大な粗忽そこつである。
「うえさまには御不興のようにござったか」
「そう存じまして、当座のお詫びを言上ごんじょうつかまつりましたところ、ただ申付けたとおり吟味せよ、急ぐぞ、との仰せにございました、それでとりあえず、お知らせにまいったしだいでございます」
忠善はぐっと唇をひきむすび、なにか思案をしていたようすだったが、
「これは家来どもには知らせたくないと思う、さいわいこの月末は参覲さんきんのおいとまに当るから、日を早めて頂き、自分で帰国してすぐとり糺すとしよう、それまで御前をたのむ」
「承知つかまつりました、できるだけ早く吟味のしだいお知らせねがいます」
念を押して丹後守は帰った。けんもつ忠善はじっとながいこと矢筈のきわの小さな文字をみつめていた。
これは万治まんじ二年(一六五九)十月なかばのことである。話はここで十八年まえ、すなわち寛永かんえい十八年(一六四一)にかえる、ところは駿河するがのくに田中城下、新秋の風ふきそめる八月のある日の午後のことであった。

その時みよは縁側から庭の柿をみていた。まだ若木のきざはしで、今年はじめて五つほど実をつけたが、雨や風のために落ちてもう二つしか残っていない、それも熟すまで枝についているかどうかわからないけれど、いまはまだ葉簇はむらのあいだに、つやつやとした堅そうな光をみえかくれさせている。初生はつなりの柿を青竹で作った小さな籠にいれ、子供に背負わせると息災にそだつという俗習がある、みよは青柿をながめながらそれを空想した。二歳の誕生を迎える安之助やすのすけが、柿をいれた青竹の小さな籠を背にして、よちよちとあるく姿は考えるだけでも愛らしくたのしいものだった。――どうか一つでもよいから残ってれるとよい。若い母親には酔うほどの空想だった。そこへ家士の足守忠七郎あしもりちゅうしちろうがはせ入って来た、旅支度のままで脇の折戸からいきなり庭へ駆けこんで来たのである。ほこりまみれの髪、せて落ちくぼんだ頬、血の気のないふるえる唇、それはひと眼で悪い出来事を直感させるものだった。
「御挨拶はごめんこうむります」
かれは庭さきにひざをおろして云った、
「旦那さまには、久能山くのうざんにて御生害ごしょうがいにございます」
あまりに突然すぎたし、またあまりに思いがけない言葉だった、みよはわれ知らず「えっ」ときき返しそうにしてようやく自分を抑え、膝の上に置いた手にぐっと力をいれた、鼓動が胸膈きょうかくをつきやぶりそうに思えた。忠七郎は乾いた唇をうちふるわせながら続けた。
「まちがいのもとは些細ささいなことでございましたが、賀川弥左衛門かがわやざえもんさまが云いつのり、ついに抜き合わせて、旦那さまにはみごとに賀川さまをお仕止めなさいました。見ていた者も旦那さまに非分はない、賀川さまが悪いと申し合っておりましたが、旦那さまは勤役ちゅうの不始末を申しわけなしと思召おぼしめし、結末のことを詳しく目付役へお書き遺しのうえ、その夜半、宿所にて御切腹にございました」
みよ昂奮こうふんを抑えたこわねでたずねた。
「それで、その大変は、お役目をおはたしあそばしてから後か、それともお役目はまだ残っていてか」
「不幸ちゅうのさいわいには、すでに奉納のお役はとどこおりなく終ったあとでございました」
ああそれでお名にかかわることはない、みよはそう思うと同時に、はじめてぶるぶるとつきあげてくる身顫いをとめられなくなった。良人の百記ももきがお役を申付かって家を出かけたのは七日まえのことだった。その月二日に将軍家光に世子せいしが誕生した、水野けんもつ忠善はその祝儀として久能山東照宮へ石の鳥居を奉納することになり、茅野かやの百記はその事務がしらとして久能山へ出張したのである、なみなみの場合でないから、お役をはたしたかどうかということは、悲嘆のなかにもなによりみよの気懸りなところだったのである。
「安之助への御遺言などはなかったか」
「……はい」
若い家士はつらそうに眼を伏せた、
「目付役へ始末書をお遺しあそばしましたほかは、一通の御遺書もなく、御遺言のこともございませんでした」
みよは寂しそうにうなずいた、いかにも寂しそうな眼だった。
すぐにもおとがめの使者があるであろう、そう思ったので、召使たちにその旨を告げ、家内の始末にかかった。二百石の書院番で家財といっても多くはない、お上に収められるもののほかは僅かな衣類と仏壇だけがめぼしいものだった。ふだんつましく家計を守ったけれど、結婚して三年めであるし、安之助が生れたりして貯蓄は乏しかった、それで売れるものは売って、召使たちの餞別せんべつの足しにしなければならなかった。
城から上使が来たのはその翌々日の朝のことだった、みよは水髪に結い、着替えをさせた安之助を抱いて上使を迎えた。
「べっして大切なるお役目ちゅう、私の争いによって刃傷にんじょうに及びたる始末、重罪をも申付くべきところ、即座に自裁してせめを負いたる仕方しんみょうに思召され、よって食禄しょくろく召上げ遺族には領内追放を申付くるものなり」おたっしの趣意はそういうものだった。それから上使の役人は久能山で没収した百記の遺品のうち、金二枚に小銭のはいっている金嚢かねぶくろと、大小ひと腰のかたな、それにひとつかみの遺髪をとりだして渡した。上使をおくりだしてから、みよは仏壇にあかしをいれ、良人の遺髪をあげて、香を※(「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40)いた。そして安之助とふたりしてその前に坐ったとき、はじめて思うままに、しかしこえをしのんで泣いた。
「安之助、さあ、お手を合わせて、よくおがむのですよ、こうして」
幼ない者の手を合わせてやり、低く唱名しょうみょう念仏しながら、みよは涙のなかからしっかりと遺髪を見あげて云った。
「旦那さま、安之助の事は御安心あそばせ、かならずりっぱなさむらいに育てあげてごらんにいれます。御遺言のなかったのは、わたくしをお信じあそばしてのこととぞんじます。みよはそのお心を決して忘れませぬ」
そのときふすまのかなたで、耐えかねたように誰かのすすり泣くこえが聞えた。

あくる日の朝、みよは安之助を背に負って家を出ていった。美濃みののくに加納藩かのうはんに実家があるので、ひとまずそこへ落ち着くことにきめたのである。お咎めによる追放なので、知りびとは云うまでもなく、召使たちも見送ることはできなかった。ただひとりだけ、藤枝ふじえだの在から奉公に来ていた下僕げぼく六兵衛ろくべえが、目付役とともに島田の宿しゅくまで送ってきた。かれは美濃までの供をねがってきかなかったけれど、みよはかたく拒んでゆるさなかった。残暑の照りかえしで、ひろい川原は眼もくらみそうな暑さだった、母子おやこはその川原をとぼとぼあるいてゆき、やがて人足の肩にってかなたの岸へと越していった。
それから三日経った。ひでりの続いた夏のあとで、待ち兼ねた雨がまさしく秋のおとずれのように降りだした日の夜、八時ころと思えるじぶんに藤枝在の水守みずもりという村にある六兵衛の家をひそかにおとずれる者があった。六兵衛の婿の次郎吉が出てみると、城下のお屋敷でみかけたことのあるみよにまぎれはなかった。安之助を背に負ってびっしょり濡れていた。
「まあこれはどうあそばしました」六兵衛もびっくりしてとんで来た、
「いやそれよりもまずお召替えをなさらなければいけません。ただいま洗足すすぎをお持ち申します」
娘のさだと婿をせきたてながら、自分が洗足をとってすぐに母子を上へあげ、娘の晴着と孫の物を当座のまにあわせて着替えをさせた。いちど眼をさまして泣きだした安之助をようやく寝かしつけてから、みよは六兵衛と婿夫婦を前にして坐った。そして、主従のよしみにすがってたのむのであるが、この土地でなにかたつきわざにとりつくまで母子ふたりの世話をしてもらえぬだろうかと云いだした。六兵衛はおろおろと声をふるわせてさえぎった。
「お言葉ではございますが、おまえさまは御国ばらいのお身の上でございましょう、おふたりさまのお世話は願っても出たいところでございますけれども、まんいちこれが知れたときは国法にそむいた罪に問われ、おまえさまばかりか安之助さまの御一命にもかかわると存じます、それよりはともかく美濃のおさとへお帰りあそばすほうがよろしいのではございませんか」
「それはよくよく考えてみたのです」
みよはしずかに、けれど心のきまったしっかりとした口調で云った、
「けれど百記は水野けんもつさまの御家臣でした、不運に死にはしても、百記の魂はかならずごしゅくんの御守護をしている筈です。わたくしは茅野百記の妻、安之助はその世継ぎなのです。たとえどのような重罪に問われましょうと、さむらいにはごしゅくんのおくにを離れてほかに生きる道はないのです、……主従は三世までというではないか」
六兵衛は両手で顔をおおい、こえをしのんでむせびあげた、さむらいの道のきびしさもさることながら、良人の魂の遺っている土地を去りがたい妻の心が、みよの言葉の裏にありありとうつってみえたのである。
「よくわかりました、そのお覚悟なればもうなにも申上げることはございません、お世話というほどのことはできませぬがお力の足しくらいにはなりまする、お心おきなくおいであそばしませ」
母子はその夜から六兵衛の世話になることになった。
家族は六兵衛と娘夫婦、それにまだ幼ない孫が二人あり、半自作のあまり豊かならぬ農家だったので、はじめから安閑としているつもりのなかったみよは、家人のとめるのもきかずに、あくる日から甲斐々々かいがいしく野良のらへ手伝いに出た。世を忍んで、しかし心のひきしまった生活がはじめられた、昼は耕地ではたらき、夜は草鞋わらじをつくり繩をなった、かまどの前にもかがみ、野風呂を焚いた。そういう日々のなかで、たったいちどだけ人眼にかくれて泣いたことがあった、それは背戸にある柿の若木が、枝もたわわに赤い実をつけたのをみたときだった。――城下の家の柿はどうしたかしら。そう思うのといっしょに、あの悪い知らせのあった日縁側からうっとりと青柿を眺めていた自分の姿が思いかえされた。良人が生きていたら、そしてあの初生りの柿が一つでも熟れていたら、いまごろは青竹で籠をあんで、安之助の背に負わせて、あやうげな足どりであるくさまを良人と共に笑いながら見ていたであろう。みよの眼にはそのありさまがまざまざと見えた、それは未練な、恥ずかしいことだった。――こんな事で二度と泣いてはいけない。みよは泣きながら、繰返し自分にそう誓っていた。
翌年七月、けんもつ忠善は三河のくに吉田城へとほうを移された。それでみよも吉田へゆく決心をした、六兵衛と家人たちは言葉をつくしてとめた。此処ここにいればこそ乏しくとも無事な日が暮せるのである、幼ない者をつれ、まだ若い婦人の身で、しるべもない他国へゆけばどんな難儀に遭うかもわからない、せめて和子わこが十歳になるまではこの土地で暮すようにと。

みよの決心は、けれど変らなかった。「ごしゅくんけんもつさまのいらっしゃる土地が母子の生きるべきところなのです、身の難儀ははじめから覚悟のことですから」そう云って心づよくしゅったつの支度をはじめた。
六兵衛に見送られて大井川を渡ったのは八月はじめのことだった。道次みちすがらは残暑になやまされたが、さいわい水にもあたらず、安之助もすこやかに旅をつづけて四日めに三河のくに吉田(今の豊橋市)へ着いた。たやすくしるせないかずかずの苦労があったけれど、その年の冬には小坂井こざかいの里に小あきないの掛け小屋をはじめることができ、どうやらふたりの口はすごせることになった。みよは安之助に少しずつ素読そどくの口まねをさせたり、筆を持たせてかな文字を書かせたりしながら、いとまを惜しんでせっせと草鞋をつくった、海道のことで往来の人は絶え間がなかったから、それは追われるほどもよく売れた。まして六兵衛の家でならい覚えたのは、農夫が自分の使うために作るものなので、はじめから売るように出来たものとは保ちかたが違っていた、それゆえしばらくするうちすっかり評判になり、よその店を通り越しても買いに来る客ができて、僅かながら不時の用にと貯えもつめるようになった。
安之助が六歳になるとみよは付近の禅寺へたのんで学問をはじめさせた、寺僧はよしありげな母子のひとがらに同情したとみえ、――いっそ寺へお預けなされたらおまえさまもお身軽になれましょうが。と親切にすすめて呉れた、しかしみよは子をはなす気にはなれなかった。まだ朝々の霜のふかい早春の野道を、安之助は元気に寺へかよってゆき、帰って来ると、声をはりあげて復習をした、そしてみよの夜なべはそれからいっそうおそくまで続けられるようになった。こうしてどうやら身のまわりも落ち着いたと思うとき、水野忠善はふたたび国替えとなり、五万石に加封かほうのうえおなじ三河の岡崎城へ移された、正保しょうほう二年七月のことである。まる二年のあいだに多少の知りびともでき、なりわいの道もついてほっとしたところだったけれど、みよの心には少しも未練はなかった。ふしぎなまわりあわせで、そのときもまた新秋八月の、残暑のきびしい一日、少しばかりの荷物を負い安之助の手をひいて、みよは小坂井の里を西へと立っていった。
岡崎もはじめての土地ではあったが、東海道ではゆびおりの繁昌な駅だったから、伝馬町てんまちょうすじの裏に長屋の一軒を借りると、その家ぬしの世話で、さしたる苦労もなく城下はずれの畷道なわてみちに、小坂井でしていたのとおなじ小あきないの店をもつ事ができた。家主の名は熊造くまぞうといった。固ぶとりに肥った小がらなからだつきで、ひげだらけの顔にするどい眼つきをしているが、近所じゅうへ響くようなこえで日和のあいさつなどをする男だった。むかしは馬をいて海道を往来したという、暴れ者で、ずいぶん世間から嫌われたのだそうだが、それだけに世の裏おもてをよく知っていて、困っている者があれば身をいでも面倒をみるという風だった、いまでは伝馬問屋の店をもって親方ともいわれ、年々岡崎藩から幕府へ献上される竹束の輸送は、ほとんどかれの店がひとり占めの御用になっていた。熊造のひきたてもあったろうけれど、畷道のみよの店はしぜんと海道に名をひろめていった、評判のもとはなんといっても草鞋だった。――やごめわろんじは百日はける。やごめ寡婦やもめ、わろんじは草鞋のおかざきぶりであるが、そんな通り言葉ができたほどみよの草鞋は人々にもてはやされた。
はりつめた生きかたの身にゆく春秋をかぞえるいとまはなかった。安之助が十二歳になって、かたちばかりに鎧初よろいぞめの祝いをしてから間もなく、家ぬしの熊造があらたまったようすで再縁のはなしをもちだした。相手はところの郷士で、年は四十を越しているが家はもう子供にゆずっていたし、家産もゆたかなので、もしみよさえ承知なら別に家を建てて暮してもよいということだった。
「今だから申上げますが、実はこれまでになんどもこういうはなしがあったのです」
とかれは膝をかたくしてくそまじめに云った。
「あなたほどのご縹緻きりょうで独り身だからむりもないことだが、わたしはかげながら御気性をお察し申していたので、御相談にあがるまでもなくなにぬかすとひと言で断わってきました。けれどもこの縁談だけはわたしも欲がでました、郷士といえばりっぱにさむらいでとおる、失礼ながら安之助さまにもゆくすえ御運のひらけるもとだと思いますが」
熊造の言葉は心からの親切がこもっていた、みよはしまいまで黙って聴いていたが、聴き終るとすぐにきっぱりと断わった、いささかも思い惑うことのない、きっぱりと割りきった断わりかただった。
「やっぱりそうですか」
熊造はがっかりしたようすだった、けれど落胆のなかにもみよりんとした気性をつきとめたことはたのもしく思えたらしい、かれはそのはなしをぴたりと切上げ、
「それではあらためて御相談があります」と坐りなおした。

相談というのはなりわいを変えることだった。安之助もそろそろ世間の見えはじめる年ではあるし、あきない店などを出しているとあらぬうわさがたちやすいものである、だからそれをやめてほかに生活たつきの法を考えてはどうかというのだった。
「それには一ついいことがある、御承知かもしれませんがこの岡崎は竹の産地で年々お江戸へ献上する数もたいへんなものですが、そのなかに箭箆やべらにする竹があります、この竹を削って磨いて、箭箆にする仕事があるのですがやってごらんになりますか」
「そのような仕事が女でもできるのでしょうか」
「おもてむきはいけないことになっているが、なにお出入りの屋敷でその宰領をしているからわたしがたのめばどうにかなります、これなら手間賃もいいし、草鞋をつくるよりは骨も折れないでしょう、その気がおありならお世話をいたします」
考えることはなかった。みよは畷道の店をたたんだ。
箭竹やだけつくりは考えたほどたやすくはなかった。箭箆または※(「竹かんむり/幹」、第3水準1-89-75)やみきともいう竹のつくり方にはいろいろ作法がある、十二そく、あるいは十三束三伏みつぶせなどといって、こぶしひと握りをそくとよんで長さをきめる、そして※(「竹かんむり/幹」、第3水準1-89-75)みきには節が三つあるのがきまりで、「おっとり節」「なかの節」「すげ節」と上から順に名がつけられる。太さも長さもほとんどきまったのを選み、節を削り※(「竹かんむり/幹」、第3水準1-89-75)をみがき、はずったうえ下塗りをすればよいのだが、すべてが熟練を要する勘しごとで、はじめのうちはよく失敗をした、節を深く削りすぎたり、筈截りの手がすべって※(「竹かんむり/幹」、第3水準1-89-75)へ割りこんだりした、しぜん自分でも手を傷つけることが多く、しばらくのあいだはいつも左手の指に白い巻き木綿の絶えるときがなかった。けれどもはじめがむつかしかっただけに、馴れてくると、みよはめきめきと腕をあげた、そして自分でも面白くなるにつれて、誰のつくるものにも負けないりっぱな箭をつくってゆこうという望みがおこった、それには竹を厳選しなければならないから、渡された数と仕上りの数にひらきができる、しぜん手間賃は少なくなるがみよは構わずやっていった。――竹にむだをだしすぎる。はたしてそういう苦情がきた、土地から産する箭竹には限りがあるので、そうむだを多くしては困るというのだった、みよは云いわけはしなかった。これから気をつけてむだを出さぬように致しますと答えた、けれど仕事は少しも変えずに続けていた。
安之助はすこやかに成長していった、辛苦のなかに育ちながら、気質ものびのびとしていたし、年と共にからだつきも人にすぐれてたくましくなった。学問には満性寺まんしょうじ方丈ほうじょうへ通っていた。十三歳の夏から投町なげまちにある町道場へも入門させたが、父親の血をうけたのであろう、これは学問ほどにはすすまないようすだった。こうしてさらに年月が経ち、安之助は十八歳の春を迎えた。そしてある夜のこと、かれはめずらしくかたちをただして母親の前に坐った。
「母上お願いがございます」
ひどく思いつめた眼つきだったので、なにを云いだすかと思っていると、自分もたつきを助けるために働きたいというのであった。
「わたくしも十八歳です、男いちにんまえの稼ぎはできなくとも、母子ふたりの口をすごすくらいはどうにかなると存じます、どうぞ働きにやって下さいまし」
「おやめなさい、そんなことは聞きたくありません」
「いいえ申します、母上にはお世話になりすぎています。修業ちゅうのからだゆえ今日まではおなさけに甘えておりました、けれどもう充分です、これ以上母上にご苦労をかけることはできません、わたくしが代ります、どうか母上はもう賃仕事などおやめになって下さい、お願いですから安之助に代らせて下さいまし」
「あなたは考えちがいをしています」
みよはしずかにさえぎって云った、
「母が働いてきたのはあなたをりっぱに成人させたいためにはちがいありません、けれどそれさえはたせば役が済むというわけではないのです」
「そのお言葉は安之助にはわかりません」
「わからない筈はないでしょう、それとも、いつかお話し申した父上の御最期のことはもうお忘れですか」
そう云われて安之助はぎょっとしたようすだった。みよの顔も苦しそうにあおずんだ、みよは面を伏せ、低くつぶやくような声でしずかに続けた。
「父上は、不運な出来事のために、御奉公なかばで世をお早めなさいました、やむをえなかったのでしょう、そうせずにはいられない場合だったのでしょう。けれど……さむらいの道にはずれたと申上げなければなりません、死んでゆく父上にも、おそらくそのことがなによりもお苦しかったと思います、父上の御気性は母がよく存じています、母には、父上の苦しいお心のうちがよくわかるのです。生きるかぎり生きてごしゅくんに奉公すべきからだを、私ごとのために自害しなければならなくなった、さむらいにとってこれほど無念な、苦しいことはありません、母にはそれがよくわかるのです、どんなにおつらかったことか、どんなに御無念だったことか……」
安之助は腕で面を押えながら、耐え兼ねたようにむせびあげた。
「ご生害のとき」
みよはそっと眼をぬぐいながら云った、
「父上がいちばんお考えになったのは、あなたのことだと思います、あなたが人にすぐれた武士になり、父のぶんまで御奉公をするようにとそれだけお望みなすったと思います。あなたにはそう思えませんか」
「そう思います、母上、そう思います」
「それならご自分の修業を一心になさい、そして千人にすぐれた武士になるのです、それだけがあなたのつとめなのです、母のことなど気をつかってはいけません、母には母のつとめがあるのです、あなたを育てることと……父上のつぐないをすることです」
「つぐないとおっしゃるんですか」
「つぐないです、父上の仕残した御奉公をつぐない申すのです、それが茅野百記の妻としての一生のつとめです」
安之助はしんそこから感動していた、かれは涙に濡れた眼をぬぐい、きっとかたちを正して母を見あげた。
「よくわかりました母上、わたくしは一心に修業をいたします、そして千人にすぐれた武士になります」
「それをお忘れなさるな、道はまだまだ遠いのですよ」
「けれどいつかは、母上……いつかはわたくしたちの真心が、とのさまにわかって頂ける時がございますね」
その言葉までうち消す気強さはみよにはなかったし、しかもながく忘れることができなかったのである。母と子の辛苦はどのような酬いをも期待するものではない、おのれのまことをつらぬきとおせばそれでよいのだ、けれども「いつかはこの真心をごしゅくんにわかって頂けるだろう」という安之助の気持もよくわかった。それがみよの心に未練をおこさせた、ちょうど六兵衛の家の背戸で熟れた柿の実をみつけたときのように、「母の心」がどうしようもなくみよをうごかしたのである。――せめて安之助だけは世にだしたい。みよは母の愛情から一つのことを思いついた、それは箭竹をつくるとき、筈巻はずまきの下にあたるところへ「大願」と二字を小さく彫りつけることだった。きわめて小さく、たやすくはわからないように。もしかすればそれがごしゅくんのお手に触れるかもしれない、矢は的に射当てるものだから……。みよはますますよい矢をつくるようになった。そして必ず「大願」の二字を彫りつけていた。どうぞこの文字がとのさまのお眼にとまりますように。そう祈りながら……。

みずから審問に当ったけんもつ忠善は、みよの申立てを聴きながら泣いた、審問が終って、自分の居間へはいってからも涙がせきあげてきてとまらなかった。――女にもあれほどの者がいたのか。いくたびもそう思った。武士の妻としては当然の覚悟かもしれない、しかし当然のことがなかなかおこなわれにくいものである。当面の大事にはりっぱに働くことができる者も、十年ふたいてんの心を持ち続けることはむつかしい。みよはかくべつ手柄をたてたというのではないし、かたちに現われた功績などはなかった。しかし良人の遺志をついで二十年、微塵みじんもゆるがぬ一心をつらぬきとおした壮烈さは世に稀なものである、まことにそれは壮烈というべきだった、そういう一心こそは、まことの武士をうみ、世の土台となるものである。忠善はすぐに書状をしたためた、江戸では丹後守が待ち兼ねているにちがいない。かれはてみじかに事の始終を記したうえ、左のような章で筆をいた。
――重ねて申上げそろ、大願の二字はけんもつの眼にこそ触れめとて彫りつけそうろうものにござそろ、うえさまおん眼を汚し奉り候儀は、おそらくはみよの一心を神明の加護せさせたもうところと存じそろ、べつに使者をもって言上つかまつるべく候も、おんもとよりも御前よしなに御披露のほどたのみいりそろ。余事にわたりはばかりながら、かかるおんなこそ国のいしずえとも思われ、おそれながらうえさまおんためにも御祝着ごしゅうちゃく申上ぐべく存じ奉りそろ。
安之助はほどなくめしだされて父の跡目を再興した。みよはそのとき、なおこう云ってわが子を戒めたのである、
「これで望みがかなったと思うとまちがいですよ、むしろこれから本当の御奉公がはじまるのですから、今までよりもっと心をひきしめ、ひとの十倍もお役にたつ覚悟でなければなりません……あなたは茅野百記の子です、ひとさまとはかくべつなのですからね」